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最初に異変を感じたのはきっとこの時。
「兄さん!?……どうしたんだその怪我」
一人だけ仕事だったエディ兄さんが顔に怪我を負って帰ってきた。
これが他の誰かだったならそこまで皆大騒ぎしない。この中で一番強い兄さんだからこそ皆驚いてしまった。この兄さんに傷をつけられる奴なんてそうそう居ないのだ。
「ああ、ちょっとな」
小さい子を気遣っててか誤魔化すように笑った兄さんの顔の左頬は腫れている。私とアーディルは互いに目配せした。おそらくアーディルも勘付いている。この国は戦争で今危機的状況なのだと。
荒くれ者も街に随分と増えて、食料を手に入れるのも以前よりも困難となっていた。餓死するものこそまだ出ていないが、それも時間の問題だろう。
人攫いも増えてきたと聞いている。小さい子たちもある程度働きに出ていたが危険だと判断し、私とアーディル、そして兄さんだけで働くことにした。
収入もぐん、と減り、まともな職も見つけることが難しくなり、街の空気が悪くなる。
皆、他者の利益を狙っている。そんな中、子供たちしかいない私たちは格好の的で争いごとも絶えなかった。今までも怪我をしなかった訳じゃないが、私もアーディルも、そして兄さんの体もどんどんボロボロになっていった。
小さい子の中でも特に体の弱い子は下痢や嘔吐などが始まり、脱水症状に陥った。その看病は他の子に任せているけれど人数はどんどん増えていく。
急に泣き出すような子も出てきて前みたいな明るさはどんどん失われていった。クレトも小さい子たちをまとめたり、面倒みたりしてくれているけどあの大人数をあの子一人でまとめるのは難しくて、疲労からかどこか上の空な日々が続いた。
どんなに明るくクレトが振舞っても、子供達の笑顔は減っていき、ついにリリーも笑わなくなってしまった。あの時の、クレトの悲痛な顔をはっきりと覚えている。
その日、にぃちゃん……と泣きそうな声で呼ばれて目を覚ますとクレトが枕元に立っていた。アーディルは仕事の疲れから隣でぐっすりと眠っていて起きそうもないし、そこまでうるさくしなければ平気だろうとクレトを布団の中に入れた。
「兄ちゃん、もうやだよ。なんで戦争おわんねぇの?いつ終わんの……?」
腕の中で震える弟に大丈夫、なんて無責任な言葉もかける気になれず、ただ抱きしめる。不甲斐ないなぁ、この子達より何年だって生きてきたのに。
「兄ちゃん、兄ちゃんは変わんないだろ?今までみたいにずっと優しいままだろ?やだよ、兄ちゃん。行かないで」
「変わらないしどこにも行かないよ。ずっとクレトたちのそばにいるよ」
胸のあたりが濡れる感覚がする。鼻をすする音が聞こえたけどクレトは私に顔を押しつけるだけで何も言わなくなった。泣いてるの、バレたくないのか。
せめて少しでも心が和らぐようにと、頭を撫でる。私の背中に回された腕の力が強まったと思ったらその力がふっ、と抜けた。何だ、と思ったらクレトが顔をあげる。
「本当かなぁ……兄ちゃんすーぐ消えちゃいそう。細っこいからな。俺の方が筋肉あるんじゃね?」
「なんだとぉ?こんにゃろめっ!」
「うわぁっ!アハハハ!に、にぃちゃんっくすぐったいっ!やめ……イヒヒヒヒッ!」
「なにその笑い方……」
そう言ってクレトをくすぐると小さくはしゃぐ。良かった、少しは元気戻ったみたいで。
「ひひっ、はーっ……ありがとう、兄ちゃん」
「ん、どういたしまして。もう寝なさい?」
「うん、ぉやすみ……」
「おやすみ」
すすり泣いていたはずの息は落ち着いて、穏やかな寝息が聞こえてきた。
「寝たか?」
「っ……盗み聞きなんて趣味が悪いぞ」
「寝てると勘違いしたのはそっちだろ」
いたずらっぽい笑い声が聞こえてため息が出る。なんで狸寝入りなんてしてたのか。
「……街の方から続々と国民が流れ込んでいるらしい。知ってるか?」
街というのは国民として税を納めている平民が住む街のことだろう。彼も生活が立ち行かない者が出だしたのは今に始まったことじゃない。ただここ最近はその人数の増え方が著しいらしい。
戦況の詳しい情報はここスラムまでは伝わってこないので一体どれだけの被害が出てるかは想像がつかない。大量にまた人が流れ込んでくるとしたら、ここの状況も悪くなる一方だろう。
「ああ、仕事仲間がボヤいてたよ」
食料以外の問題としてもう一つ重大なものがある。それは元々スラム街に住んでいた人間と流れ込んできた人間の間に出来た亀裂。
元々の住民は流れ込んできた人間により生活が苦しくなったと言って目の敵にしている。生活に慣れていないから無職のものも多いなか、僅かな食料を奪い合うからだろう。生活が苦しくなったのは国民じゃなく国に責任があるが、不満をぶつけられる相手がいると標的にしやすいんだろう。
逆に平民の人達は奴隷がいない国では最下層である身分のスラム民を蔑んでいる。まあそのほとんどが税金を払えなくなった落ちこぼれだからだろうけどこればっかりは顔を顰めざるを得ない。
そんな形で今のスラムは荒廃し切っている。子供たちが元気に遊ぶ声も聞こえなくなった。気前のいい荷物運びを手伝わせてくれるおっちゃんは居なくなってしまった。ただ安全なところに避難したって言うのなら良いがあの年齢じゃどこかで……なんて嫌な想像すらしてしまう。
「これから余計大変になるかもな」
「十中八九ね」
「兄さん、今日仕事仲間の半分がクビになったってよ」
「その中に入らなかった兄さんが流石だわ」
仕事も大分減りだしている。私たちは子供たちの分まで稼がなきゃ行けないから大分苦しい。かなり一人分に当たる食事が少なくなっている。子供の成長には到底足りてない。今までも充分かと言ったらそうではないけれど。腕の中で眠っているクレトの体も前よりだいぶ薄くなった気がする。
胸に一抹の不安が過ぎる。クレトにはああ振舞っておいて情けないなぁ、と思っているとトン、と背中になにかがぶつかった。
「アーディル……?」
「強がんなよ、俺の方が兄貴なんだからな」
「……いつも弟達と一緒に私か兄さんに叱られてるくせに」
「あ……?」
不機嫌そうな声が聞こえて思わず笑ってしまう。いっつも悪ふざけしては服汚してるからいつからか私が叱る側にまわっていたっけ。
そんなことももうしなくなってきたな。最近働き詰めだし。でもあと少し、あと少し耐えればきっと……きっとあの時みたいな日々が戻ってくるから。
「……ありがとう」
「おー……」
背中の温もりに体を預けながら腕の中で眠る弟の頭を撫でた。
「おやすみ……」
「……」
返事は返ってこなかったけれど、その代わりに背後で身じろぎする気配がして、頭を撫でられた。頭を撫でられるのは初めてだ、なんて思いながら重くなる瞼に従って意識を手放した。
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