あの日の夜クレトとリリーは仲直りしたが、リリーは約束をすっぽかした私に対し拗ねてしまった。あの後機嫌を治してもらうの大変だったなぁ。


「そういえばあの日、クレトとどこ行ってたんだ?」


「海だよ。夕日が映るとすごく綺麗なんだ。行ってみる?今日暇だし。」


 アーディルが少し悩んだ。いつもパッと決めてしまう彼にしては珍しい。


「お前も行くなら行くけど……。」


「?……当たり前だろ。誘ったのは私だ。」


妙なこと言う。私がいなきゃ何か不都合でもあるのだろうか。


 それから海へ向かう通り道。アーディルはどこか緊張しているようだった。海に対する期待でドキドキしていると言う感じでもない。


「ここだよ。」


 私の声に反応して、アーディルは恐る恐るといった様子で海に目を向けた。その後、フラフラと海に近づいて行く。そして水面を覗き込んだ。


「おい、アーディル。それ以上近づいたら危な……」


ドボン


 そんな音と目の前から消えたアーディルを認識すれば、今何が起こったかなんて容易にわかった。


「アーディルっ!!」


淵で足を滑らせたのだろう。アーディルは勢いよく水の中に落ちてどんどん沈んでく。もがいているのだけは濁った水の中でも分かった。必死に水をかく手を掴んでこちらに引き寄せる。すると今度はガシッと抱きついて来た。離れないように私もアーディルを抱えながら水上へと泳いで行く。


 水面から顔を出し、肺に酸素を目一杯取り入れようと息を吸う。そして未だに私の腰あたりに抱きついているアーディルを引き上げた。


「おい、おい!……アーディル!!しっかりしろ!!」


 肩を揺らすとアーディルも気がついたのか肺に入った水にむせて咳をしていた。


「サキ……おれ……。」


「何やってるんだアーディル。あんな所で足を滑らせるなんて……。」


「……ごめん。」


 取り敢えず陸に上がりすぐ近くに座った。


「アーディル、お前泳げないのか?」


 まあこの歳で泳げないのもおかしくはない。スラム街に住んでるなら泳ぐ機会すらないだろう。


 案の定アーディルは力なくこくりと頷いた。


「泳げないならあんなに近づくなよ。もし1人で落ちたらどうする……」


"お前も行くなら行くけど"


 そこまで言いかけて、家の近くでアーディルが私に言った言葉を思い出した。なるほど、だから私に確認を取ったのか。


 「……水が、怖いんだ。昔から……。」


「え?」


「小さい頃に母さんと2人で溺れて、母さんが俺をなんとか陸の近くまで運んでくれたから俺は必死に陸まで辿り着けた。けど母さんは水の中で力尽きた。」


「水の底に沈んでいった母さんの姿は今でも夢に見る。俺がいなきゃ、母さんは自分を犠牲になんてしなかったのに。俺がいなきゃ、母さんは生きてたのに。」


初めて聞いた、アーディルの過去。弱音。とても辛そうな顔で喋る彼にこちらまで胸が締めつけられる感覚がする。


 今までアーディルはそんな顔しなかった。いつも白い歯を見せて笑って、私にとっての太陽のような存在だった。アーディルに会って、みんなに会って。自分自身が絆されていくのが分かった。でも嫌じゃなかった。心地良かった。


自分の世界が壊されて、堂々と土足で踏み込んできた。受け入れられずに戸惑った。でも救われた。こんなにたくさん救われてきたのに、今君になんて言えばいいのかも私には分からない。君は私の欲しい言葉をくれるのに、私は君が欲しがる言葉が分からない。


 ただ___


「そんなの分からない。お前が居なくてもお前の母親は結局死んだかもしれない。それがお前の母親の寿命だ。」


あれさえあれば、こいつさえ居なければ……なんてそんなもしもの話をしたところで現実なんて変わらない。私はそれを両親(あの人たち)から教わった。


もしも母さんが優しかったら、もしも父さんが普通のサラリーマンだったなら……なんて何度も思った。けれどその夢を見るたび現実に引き戻され絶望した。


そんなの分からない。実証すら出来ないんだから。もしもなんて考えたってキリがない。過去は変わらず未来を定めていく材料になる。だから人間は必死に生きてきたのだと知ったのはここに来てから。


必死に生きて、明日が少しでも輝くようにの願っている。それが人間の原動力なのだと私は思う。


「今更お前が過去のことを憎んだって何も変わらない。下らない、愚問を繰り返しているだけだ。」


「なっ!」


アーディルが怒ったのが分かる。それもそうだ。ずっと悩んで水が怖くなるくらいのトラウマを下らないなんて言葉でひと蹴りされたのだから。


生きることに絶望してなお、その地獄に留まれとも言わない。そうなった君を更生させる自信は私にはない。ただ死んでは欲しくない。そういう気持ちが私の中にあることを覚えておいて欲しい。


「もし自分が生まれたことが間違いだなんて思うなら、それは間違いだ。」


大勢の人が君が生まれたことを憎んでも、私にとっては君が生まれたことこそが正しさだ。


「だって今スラム街に居る子供たちはみんな、お前を必要としてる。私だって、兄さんだってそう。」


帰ってきたらおかえりって言ってくれる。兄と呼び慕ってくれる。それがこんなにも幸せなことなんだ。なのに


「あの子達の気持ちまで踏み躙って死のうなんて考えたらぶん殴るから。」


君が居なくなったらどれだけ悲しむと思ってる。どれだけ傷つくと思ってる。


「サキ……。」


ぽつりと名前を呼ばれる。君から呼ばれるその名前が好きなのに、それもあまり伝わってなかったみたい。


「あの日、一度伝えたつもりだけど伝わってなかったみたいだから……」


もう一度伝えるよ。


「アーディル、ありがとう。生まれてきてくれて、生きてくれて。そして私に出逢ってくれて。」


君に出逢えて、私は幸せだ。


「どう、いたしまして……っ。」


泣き出したアーディルは自分の目を擦る。


「自分なんかって気持ち、少しは薄れた?」


「少しどころじゃねぇよ。めっちゃ嬉しい。」


そう言ってアーディルはいつもの笑顔を見せた。


「じゃ、もう言うなよ。」


「当たり前だ!お前こそいきなり消えたりすんなよ!なんかお前細いし薄いし心配なんだよなー。」


「さっきまで泣いてたやつが何言ってる。」


「うるせー。」


調子、戻ったみたいで良かった。


君について知ってることが増えて、結構嬉しいんだよ?絶対言わないけど。


「よし!相棒に慰められて元気出た!」


「相棒なのか。」


「今決めた。」


なんだそれ。と呆れながら言うと今度は優しく笑った。


「お前の横が、一番落ち着く。だから隣にいろよ、相棒。」


前世なら絶対与えられなかった、望むことすら馬鹿馬鹿しいと思っていた言葉だ。だから__


「……任せろ。」


君が望むなら私はいつだってそばにいるよ。

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