スラム街というのは寂れている印象だった。貧しさを嘆き、寒さに凍え密かに暮らしているようなそんな気がしていた。けれどそれは間違いだったのかもしれない。


この街は、皆生きようとしているのが目に見えているようだった。


明日が分からないから絶望するのではない。明日が分からないから自分で道を拓こうとしている。


 風の音。行き交う人々の足音。赤ん坊の泣き声。男同士の喧嘩の怒鳴り声。仕事を探そうと懸命な人の息切れ。娼婦の艶めかしい息遣い。子供達の笑い声。


 どれもこれも、ものに溢れてうるさすぎる都心じゃ気にかけなかった音。けどその音は生きてる証。生きようとしている証。


 聞きたくない音も聞きたい音も全部自分の中に入ってくる感覚。耳を塞ぎたいけど塞ぎたくない。ぐちゃぐちゃになったそれは本来の姿だった。


「サキ。」


 そんな喧騒の中でも聞き分けられる、私を呼ぶ声。そんなに好きじゃなかったはずなのになぁ……この名前。なんでこんなにもすんなり耳に入ってくるんだろう。


きっとその訳も君なら教えてくれそうで。私よりずっと子供の君は私よりずっと大人みたいになんでも知ってて。変なの、なんて思いながら返事をする。


「なに?アーディル。」


 私を呼んだ君の顔は相変わらず泥だらけ。今日は誰とじゃれてきたのかな。やんちゃ坊主のジャックかな。それともヒーローごっこが好きなオリバーかな。もしくはその両方?


「エディ兄ちゃんが仕事手伝ってくれって。行こうぜ!」


 迷わず私の手を取って走り出す。君にとってはなんでもなくても、私にとっては特別な温もり。


 ギュッと少し強めに握ればふと立ち止まる。どうしたのかと思えば振り返った君は悪戯っ子みたいに笑って、そして手を握り返してきた。


 君は知らない。初めて名前をつけてくれたのは君なんだよ。


"佐木"は私だけのものじゃない。けど君が呼ぶ"サキ"は私だけのもの。


初めて手を繋いでくれたのも、初めて友だちになってくれたのも君。


 君に出会ってから私の周りには初めてのことが溢れかえった。暗闇と血しか無かったあの頃より世界はずっとうるさくて。けど嫌いじゃない。


「おっ!待ってたぞ。サキ、アーディル。」


「悪りぃ。兄ちゃん、今日はなにすんの?」


「荷運びだ。サキは細いから心配だけど、大丈夫か?」


「うん。心配してくれてありがとう。兄さん。」


 兄さんと呼べる人にも出会って、頭を撫でられた。逆に私をお兄ちゃんと呼んでくれる子達も居た。私、今世でも体は女なんだけど貧相すぎて気づかれてないのかこれは……。


 将来はサキお兄ちゃんと結婚するー!なんて宣言をする、抱っこされるのが大好きなリリー。私に一番懐いてくれてる可愛い妹。


「そこのボウズ!ちとこれ運んでくれ。」


 仕事を手伝わせてくれる人も悪い人ばかりではないけど、この人はずっと私のことをボウズと呼んでくる。


「ボウズじゃなくてサキですよ。」


そう言ってもあの人は直してくれそうにないけど。


「あっはっは、悪りぃなボウズ。」


ほらね。






「サキお兄ちゃん!」


 真正面から腰のあたりに抱きついてくるのはリリー。まだ3歳くらいで寂しがり屋。よく私にくっついて歩く。


 リリーの両親は流行病で亡くなったらしくエディ兄さんが面倒を見てるらしい。エディ兄さん自身もこれでもかってくらい可愛がってる。けど私の方が懐かれているので少し悔しそうだった。


 腕を引かれて兄さんとリリーの家に行けば床に置かれている色とりどりの花。豪華ではないけど可愛らしい小さな花。まるでリリーみたい。


「あのね、リリーね、こんなにおはなつんできたの!はい、あげる!」


「ありがとう、すっごく可愛いお花だね。どこで摘んできたの?」


その中の1本を私に差し出してきたので受け取りながら礼を言う。私の質問にリリーはもじもじしながら答えと。


「えっとね、もりの近くのはらっぱで……。」


 語尾が小さくなっていく中、何故なのかはすぐに分かった。


 この近くの森には狼が住んでいる。それだけじゃない、人攫いや賊だって隠れているらしいから子供達は近寄らないよう言われている。


「もう、原っぱに1人で行っちゃダメでしょ?狼さんに食べられても良いの?」


「っやだ!」


 狼に食われるところを想像したのかリリーはブンブンと首を振りながら食い気味に否定した。


「ならもう絶対1人で行かないこと。分かった?」


すごい勢いで頷くリリーを見て、もう心配なさそうかな、と安心する。


「うん、良い子。お兄ちゃんが一緒に連れて行ってあげるから、その時またお花摘もうね。」


「ほんと!?約束だよ!!」


泣きそうな顔から一転してリリーは満面の笑みを浮かべた。頭を撫でればまた抱きついてくる。


 小さい子にこんなに懐かれたのも初めてかもしれないな。こんなに嬉しいことだなんて知らなかった。


「リリー、お兄ちゃんだいすきだよ!」


「本当?お兄ちゃんもリリーが大好きだよ。」


抱っこしてくるくる回ればきゃー!と嬉しそうな声を上げてリリーは笑っていた。








「またサキとリリーイチャついてるぜ、兄ちゃん。」


「リリー……昔は俺と結婚するって言ってたのに……。」

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