[fin] 布津野家

 布津野家の地下には稽古場がある。

 そこに、始めに足を踏み入れたのは紅白だった。


 もう少しで、みんながここに集まる。

 紅白は奥の片隅に背中をつけて、その手狭な畳敷きの空間をぼんやりと眺めていた。聞いたところによると、ここはまだ小さかったロク兄様がいつでも稽古が出来るようにと業者を手配して作った場所らしい。

 すり足を幾度も重ねて削られたその畳は白く変色していて、特に中央の畳は少しへたれている。壁に横掛けにした木刀やじょうは握り手の部分が黒ずんでいて、隅には座布団の上には、綺麗に畳まれた稽古着と袴が座っていた。


「紅白ちゃんは、どっちを応援するの?」


 紅白に駆け寄ってきたのはナナ姉様だった。姉様はそのまま私の手をとって、顔を覗き込んできた。

 人を見定めると言われるその紅くも美しい瞳は、私の自慢の一つだ。


「ナナ姉様こそ、どちらを?」


 指を絡められた手を引いて、ナナ姉様を隣に座るように導く。

 そうは聞いてはみたけれど、姉様がお父さん贔屓びいきなのはよく知っている。


「もっちろん、私はお父さんよ」

「まぁ、知ってましたけどね。……お姉様のような人が、こんなにお父さんを推すのかさっぱりですよ」

「あら、私だけじゃないわよ」

「……みたいですね。ますます、分かりません」

「あっ、グランマ。こっち、こっち、ここが一番見えるよ」


 ナナ姉様は稽古場の敷居に姿を現したお母様を見つけると、元気に手招きをして呼び寄せた。

 まるでしとやかさが歩いてきたみたいに、お母様は私のところまで寄ってきてナナ姉様と挟むようにして正座になった。そのほっそりと指を、年齢を感じさせない頬にあてられて「さて」とため息のような声を漏らされた。


「忠人さんとロクが、ですか」

「ええ、お母様。そうです。ロク兄様が免許皆伝になって、お父さんに仕合を申し込んだのです」

「あらあら、本当にロクは昔から変わらないわね」


 懐かしそうにお母様はこぼす。


「そうなのですか?」

「ええ、何かにつけてはね。ロクは忠人さんに稽古をねだってばかりでしたからね」

「そうなんですか?」


 反対側のナナ姉様のほうを振り向く。

 姉様は満面の笑みを浮かべて、大きく頷いた。


「うんうん、そうだよ。お父さんが手加減とかしたらもう大変だったんだから。ロクはもの凄い不機嫌になってね。ずっと稽古だもっと稽古だ、ちゃんと教えてくださいーってさ、うるさかったんだから」

「へぇ、……そうなんだ」


 いつも、クールで落ち着いたロク兄様からはまったく想像出来ない。それとも子どものころは、流石にやんちゃな所があったのかもしれない。


「確かに、ロクは稽古バカだったな」

「ニィ兄様!」


 カルナちゃんの手を指で引いて、ニィ兄様が姿を現した。

 その背後には夜絵さんがつきそっている。自分と同じで背丈が低い彼女にはちょっと親近感がある。でも、あんな風に旦那の後ろに控えて影踏まず、みたいな立ち振る舞いは自分にはとても出来る気がしない。


「わっ、カルナちゃんだ。おいで、おいで〜」と、ナナ姉様の顔が輝いて、両手を開いた。


 人見知りの激しいカルナちゃんはオドオドとしていたが、ニィ兄様に背中をぽんと押されるとゆっくりとナナ姉様に近づいていく。


「つっかまえたー」


 姉様はカルナちゃんを抱きしめると、さっそく膝の上にのせて、ぬいぐるみのように弄びはじめた。


「……稽古バカですか?」


 無表情で姉様に弄ばれているカルナちゃんから、ニィ兄様へと視線を移す。


「ん? ああ、ロクのことか。あれは大馬鹿だよ」

「はぁ」

「そう言えば、ロクは最後まで勘違いしたままだったな。俺が何度言っても聞かなかった」


 よっ、と声を漏らしてニィ兄様はナナ姉様の隣に腰をおろし、兄様のほうへと戻ろうとするカルナちゃんを指先だけであやしはじめた。


「どういうことですか?」

「お前は親父には勝てない。絶対に」


 そう言ったニィ兄様は、ふっと表情を崩して稽古場の空気をゆっくりと吸い込んで吐いた。


「とうとう勘違いしたままで、ここまで来ちまった」

「……あっ」


 ニィ兄様の思い耽る様子を見て、思い出した。


「ねぇ、ニィ兄様」

「なんだ? 紅白」

「ロク兄様はお父さんに勝ったことがあるって本当ですか?」


 まだシャンマオさんが生きていた時に、私は教えてもらったことがある。

 

 ——ロクはな、一度だけだが勝ったことがあるんだぞ。


 鼻を鳴らして少し自慢げな様子で、シャンマオさんがそう言って歯を見せた。あの人は、とても格好良くて冗談なんて言わない人だった。


「なんの話だ?」


 ニィ兄様の目が細くなったので、慌てて手をふる。そういえば、ニィ兄様もなぜかお父さんのことが大好きな人だった。


「あっ、いえ。……シャンマオさんが、そう教えてくれたことがあったんです。秘密だぞ、って言って」

「ああ……、なるほどな」


 カルナちゃんを抱きしめていたナナ姉様がこちらに顔をむける。


「それって、ほら、あの時のことじゃない? ずっと前の、四罪の」

「だろうな。しかし、あれを勝ったというかよ」

「シャンマオさん、ロクのことラブだったからね」

「まぁ、色眼鏡だろうよ。夜絵はどう思う?」

「あの時のことですか?」


 夜絵さんはお母様の側に座っていた。

 二人とも姿勢がとても良い正座だから、並んで座ると二対の生け花のような品格がある。


「そうですね。私はロクの勝ちでよろしいかと、」

「ほう、そのこころは」

「布津野のお義父とうさまは、あれで頑固なところがあります。お義母かあ様を助けようと一心に決めたあの人を引き止めたのは、確かにロクの勝ちと言えるかと」

「……ふむ、一理あるか」


 どうやら、皆さんは昔のことを思い出しているらしい。

 お母様から何度も聞かされていた。ロク兄様が大活躍した事件だから、大好きな話だ。


「それにしても、ロク兄様もお茶目なところがあったんですね。ドローンのプログラムを忘れてしまうなんて」


 大人たちの会話に入りたかったのかも知れない。

 自分だってその時のことはよく知っている事をアピールしてみる。実際、私もそこにいたらしい。お母様のお腹の中だったけれど。

 ニィ兄様が口元を苦めて笑いにした。


「……そうかな?」

「ニィ兄様?」

「あいつが本当に、プログラムの実装を忘れると思うか」

「……違うのですか?」


 ニィ兄様は「さて」と背を壁にもたれかけて天井を仰ぎ見る。


「どうやって説明したものかな?」

「ねぇ、ニィ兄様」

「ふむ……紅白。もし、オートキリングに無差別殺人の実装がされていたら、戦争はどうなると思う?」

「えっ」

「そしたら、皆殺し、さ」


 ニィ兄様の指が、すぅ、と伸びて私の眉間に触れた。


「お前には少し難しいかも知れないが……。戦争は人間同士がやるから止まるんだ。戦場で相手を皆殺しにすることはほとんどない。戦死のほとんどが餓死や病死によるもので、戦闘で殺されることは少ない。命令されたとはいえ、無抵抗を殺せる人間など、ほとんどいない。やったとしても、今度は自分が自殺しちまう」


 とん、とニィ兄様の指が私の額を小突いた。


「それが、オートキリングなら無抵抗でも殺せる。人間の戦争を、皆殺しに変えることができる。軍人も民間人も関係ない。皆殺しを実現できちまう」

「……」

「ロクがそのプログラムを忘れたのか? 無抵抗も、女子どもも関係なく殺戮するプログラムをだ。……そんなものは、あいつには書けなかった、そうじゃないのか?」


 ニィ兄様は、くすり、と笑って「正確には、」と言葉を続けた。「書けなくなってしまった。そういう風に育てられてしまった」


 顎をなでて頷くニィ兄様を見ながら、ほぅとため息がこぼれる。何と言うことかしら。私の家族は本当にすばらしい人ばかりだ。


 その時、稽古場の入り口から黒が流れ込んできた。


「あっ、ロク兄様だ!」


 思わず手をふって、声をかけた。

 しかし、姿を現したロク兄様はこちらに気がついた様子もなく、ただ真っ直ぐ前の遙か向こうの虚空を見据えて歩みを止めない。

 その色は、まさに深海の群青。

 深く深く、黒へとその色を落としている。


「ロクも気負ってるねぇ」


 ナナ姉様が顎をカルナちゃんの頭の上にのせて、その紅い瞳を輝かせた。


「無理もないね。今日は特別だから」

「お父さんとの仕合ですか?」

「そだね。紅白ちゃんにはどう見えるの?」

「とても美しい色です。流石はロク兄様。海のように群青が深くて、それを濁す邪念なんてありません。姉様は、気負っていると言いますが、勝ちたいという気持ちが海に映る月のように輝いている」

「紅白ちゃんは詩人だな〜。まぁ、あの青かったロクがここまでになったのは、私にも感慨深いものがあるけどね」


 すると、その美しい海に漂う藻屑もくずのようなぼやけた緑が向こうから姿を現した。

 ……トラだ。


「トラちゃ、だ!」


 カルナちゃんが姉様の抱擁をふりほどいて、ぱっと駆け出す。

 たたっ、と一直線に駆けだしてトラの胸に飛び込むとすっかりとその胸の中に抱き上げられてしまっている。

 トラも慣れたもので、カルナちゃんの背中をとんとんと叩きながら、しがみついてくるのを適当にあやしながらこちらに近づいてくる。


「トラちゃ、トラちゃ」

「はいはい、トラだよー。カルナちゃん大きくなったねぇ。何歳?」

「6さい」

「おおー、すごい。6歳はすごいよー」


 ……あいつ、何言ってんだ。


 いつも不思議に思うのだが、もの凄いカッコイイ人ぞろいの家族の中で、お父さんとトラだけがいつも寝ぼけた感じがぬぐえない。私にはそれが何だかすごくもったいない気がするのだ。

 百歩譲って、お父さんはもういい。あの人はもう色々としょうがない。私もあきらめました。

 しかし、トラ。お前は違うだろ。

 世界で一番かっこいいロク兄様が父親で、最高にクールなシャンマオさんが母親なんだぞ。もの凄いことだぞ。お前だって、背も高くて顔も悪くはないんだ。ぼけっとすんな。

 私なんてなぁ、あのお父さんの子どもなんだぞ! 私の身長が伸びないのも、絶対に、お父さんのせいなんだからな!


「トラ! ぼーっとしてないで、こっちに座りなさいよ」

「あ、うん」


 私がわざわざ身を寄せてやったスペースに、トラはのろのろとやってきて腰を下ろす。ちょうど、私とナナ姉様に挟まれる形になった。


「あら、トラくん」と姉様が手を叩いた。

「あっ、ナナおばさん」

「もう、おばさんはイヤよ。女心がわかってないわ」

「はぁ、なんか、すみません」


 お前ぇ……。

 あのナナ姉様に向かって、なんて口の利き方。お前は一応はそろそろ思春期だろ。わきまえろよ。お前の周りにいるのは、本当に一流の男女たちなんだぞ。

 すべからく、さまをつけて呼ぶべし。

 兄様、姉様、お母様。男性なら叔父様は許すが、女性は叔母様はわきまえろ。おばさんなんて言語道断。ナナ姉様はもう見た目からしてお姉様だろ馬鹿野郎。お前に目玉めんたまついてんのか?


「それにしても、ますますお父さんに似てきたねぇ」


 ナナ姉様はトラの頭をしきりに撫でながら目を細めている。

 そうですよ、お姉様。ちゃんと言ってやってください。そのままだと、お父さんみたいになってしまいますよって。


「そうですか?」

「これは、きっと将来はモテモテだね」

「はぁ」


 はぁっ!?

 お姉様、何を寝ぼけた事をのたまってやがりますか?


「トラくんは、マリモみたいな緑色だからね」

「はぁ、マリモみたいだとモテますか」

「モテるわよ〜。ねぇ、グランマ?」


 話を振られたお母様は、ちらりとトラに視線を流して微笑んだ。


「さて、恋沙汰は私には分からないですけれど、ナナがそう見立てたのならそういう事もあるのでしょう。マリモに似ているなら、それはよろしいと思いますよ」

「でしょ、でしょ。トラくんの将来は有望だな〜」


 なに、この謎のマリモし?


「あっ」とマリモに似ていると褒め称えられていたトラが小さく叫んだ。「じいちゃんが来るよ」


 その声を聞いた後、私の視界は闇に覆われた。

 私の右の赤目が見開き、左の白目がうずきはじめた。

 これだから、あの親父の色は大変なのだ。

 善悪のコントラストがキツすぎて、目がとても痛い。

 ロク兄様が海の群青だとすれば、それはもう宇宙だ。全ての光を吸い込み、逃れようのない闇。

 ……年甲斐もなく本気ですか。そうですか。まったく!

 絶対にロク兄様に怪我なんてさせないでよ。


「さぁ、はやく始めようよ。冴子さんの料理を早く食べたいんだ」


 やる気満々のくせに、お父さんはそんな事を言っている。

 対面に控えていたロク兄様は、ふっと息を吐いてこちらの方を見てくれた。

 きゃー、ロク兄様〜。こっちですー。


「トラ、」


 あっ、違った。トラのほうだった。


「なに?」

「よく見ておきなさい。昔は覚石先生がいらっしゃったが……。お父さんの本気は、なかなか見ることなど出来ない。僕でもその呼び水にすらなれるかどうか」

「……わかりました」


 トラは、なぜかこういった所では妙にわきまえがあって、いつものぼけっとした表情を改めて、ハッキリとそう答えた。


「え〜、ダメだよ」


 それを茶化すような暢気な声は、やっぱりお父さんのだった。


「トラが見ているんだったら、ロクは絶対に勝たないと」


 ロク兄様の色がゆらいで、その表情を困らせた。


「難しいことを、」

「僕は、」とお父さんが兄様を遮る。「ロクに絶対に勝つつもりだよ」

「……」


 お父さんの手が左にすぅと伸びて、こちらの方を指し示した。

 ん、私かな?


「だって、紅白が見ているからね」


 ……もう。


「だから、紅白が大好きなロクを、ここでぼっこぼこにしてお父さんの威厳を取り戻したいのです。ただでさえ、年頃の娘につらく当たられて肩身が狭いから」

「相変わらずですね。……さて、始めましょう」


 ロク兄様は立ち上がって構えをとられた。

 美しく半身を切る。

 まるで抜き身の白刃のような、切り立った立ち姿。


「僕たちは、」と、お父さんも立ち上がる。

 その構えはまるで水底でゆらぐマリモのような、あるがままの自然体だった。


「お父さんだからね」




 ——『僕は、お父さんだから』 完結

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る