[epilogue-2] 全員集合
覚石は、数年前に老衰で大往生を遂げた。
「おじいちゃんは死ぬ直前までピンピンしてたじゃない? だから、道場の引き継ぎとかはちゃんとした考えがあったんだよ」
「そうなんですか」
ロクは相づちを打ちながら、道場の師範室で出された茶に口をつけた。
「それにしても、また男前を上げたねぇ」
紅葉は履いた袴の裾を払って畳に腰を下ろし、ロクを覗き込む。
「もう
「子どもまでいるもんね。まさか、私たちのアイドルだったロク君がシャンマオさんと子どもまで作るなんてね。びっくりだったんだよ」
「ええ、でも、トラのことは父さんとグランマに頼りっきりで」
ロクは顔を困らせて、湯飲みを畳に置いた。
「シャンマオさんも、早くに逝かれてしまったね」
「あれにしてはよく長続きしたほうなんですよ。そのことについては承知の上でしたから」
「せめて、子どもを、か」
「複合生殖のお陰ですよ、僕たちみたいのでも子どもが持てる」
「ロク君よりも、なんだか布津野先輩に似た子だけどね〜」
「ええ……」とロクは湯飲みを再び引き上げて「そうですね」とこぼす。
手にした湯飲みを回して口に運ぶ。
ほど良い苦みだ。
シャンマオは最後の瞬間は微笑んでいた。
病床から立てなくなるようになると「危覧の気持ちがようやく分かったよ」と呟くようになった。
それから、手を伸ばして付き添っていたトラの頭の上に手をのせると「大丈夫、お父さんがいるからね」と言い残すと、後はゆっくりと逝ってしまった。
「……それで、」
飲み干した茶を戻して、ロクは紅葉をみた。
「ん?」
「道場の後継者について、覚石先生はどのような考えだったんですか?」
「ああ、そうそう。それね」
紅葉は手を叩いて声を明るく切り替える。
「本当はやっぱり布津野先輩に、とおじいちゃんは希望していたみたいなんだ」
「そうですか」
「あっ、私に気なんて使わないでよ。今でも、私は先輩が代わってくれるなら大歓迎なんだから」
「でも、道場長は紅葉さんになって、父さんは、」
「私の師匠役だよー」
この人はいつまでも若いな、とおどけてみせる紅葉を見てロクは表情を崩した。
「確か、道場長の紅葉さんの師匠という妙な立ち位置なんですよね。実際、どうなんですか? やりにくかったりしませんか?」
「ん、最高だよ〜。先輩に直接稽古つけてもらえる機会増えたからね。これって凄いことだよ。なんだって、今や先輩の稽古を目当てにして世界中から人が押しかけてくるんだからね」
「……みたいですね」
紅葉さんの代になって、覚石に連なる門下は大きく拡大した。
その理由の一つは父さんだ。
今や世界で一番有名な武道家といえば、父さんだ。ニィが拡散した朱烈との闘いの映像だけではなく、アメリカ大統領選で銃弾を斬り払った事例も有名だ。この二つの事件は、世界の最適化に対する態度を変えた象徴的事件として、教科書に掲載されていたりする。
それだけじゃない。
暗殺された宇津々首相の後を引き継いで、混乱期の日本を5年にわたって指導した元首相としても有名だ。
「あの先輩が指導役についている道場だよ。もう入門希望者が山ほどなんだから」
「たしか、新しい道場も開いたと聞きましたよ」
「もうとっくに手狭だったからね〜。海外からの希望者も多いから、交通の便が良いところを選んで、どーんとね」
「意外に、紅葉さんは商売上手だったんですね」
「へへ」
ロクは顎をなでて、ふむ、と息をこぼした。
こう思い返してみると、子どもの頃の自分は随分と贅沢な経験をしてきたのだろう。その指導を求めて全世界から人が押し寄せてくるような達人に毎日稽古をつけて貰い、その極意を幾度も体感することが出来たのだ。
「それで、ロク首相、最近はどうなのよ」
「ロクと呼んでください。紅葉さんにそう言われるとむず痒くて」
「じゃあ、ロク君。首相になられて随分たちますが、どんな感じかね?」
「安定してますよ。実は、父さんの時代に色々と大きな構造改革はやってしまいましたからね」
「おうおう頼もしいね。我ら国民のために、せいぜい頑張りたまえよ」
「はいはい」
ロクは紅葉の背後の壁にかけられた時計に目をやる。そろそろ予定の時間だ。
「時間ですが、父さんは?」
「ああ、そろそろ稽古場に来ているかも」
「では行きますか」
「遅れたらもったいないよ。先輩の稽古は貴重だからね。門下生も気合い入りすぎて、私、道場長なのに稽古中にうるさいと怒られちゃうくらいなんだ。ほらほれ、立った、立った」
紅葉が鶏を追い立てるようにしてくるので、ロクは湯飲みを畳に置きっ放しにして師範室を出ていった。
◇
「よう、ロク」
久しい声を聞いて、ロクは眉を開いた。
「ニィ、来ていたか」
「ああ、年に一回はみんなで集まる約束だったからな。しかも、親父の稽古が受けられるとあれば、まぁ、外すわけにはいかないな」
ニィは上げた手を降ろして、しめた袴の腰紐に親指をかけて右肩をだらけさせた。いつもの事だが、ニィの着こなしはだらしない。昔はそれが不真面目だと妙に気にかかっていたものだ。
ふと、ニィの背後に控えている小柄な女性の気がついた。
「榊か、よく来てくれた。父さんも孫の顔が見れて喜ぶよ」
「ええ、久しぶりね」
不思議なものだ、とロクは頭を振る。
昔、自分には榊のことが好きだった時期が確かにあった。
その彼女が可愛らしい女の子の手を引いているのだ。トラや紅白とは歳が離れていて、確か6歳くらいの子だ。自分に何か思うところが出てくるか、と恐れていたが、胸にざわつくものは感じない。
その子は、浅黒い褐色の肌に深い緑の瞳をぱちくりとさせてこちらを見ている。そのよく焼けた肌については、おそらくニィが外に連れ出して遊びたおしていて日焼けしているせいもあるだろう。しかし、明らかに中東系の遺伝的形質が見て取れる。それは、二人の遺伝的形質とは独立した子どもだった。
その子は、口に指をしゃぶらせながらニィの後ろにさっと隠れた。
「相変わらず、カルナに警戒されているようだな」とニィは笑う。
「残念だよ」
「親父にはよく懐いているところから見ても、カルナはよく分かっているな。紅白と違ってな」
「お前の親バカも、相変わらずだな」
ロクは肩をすくめて、もう一度だけチャレンジだと思ってカルナにむかってかがみ込んでみた。
すると、ニィの足裏あたりから顔を覗かせたカルナは、その幼い目元に皺を寄せてロクをじっと見つめて動かない。
……無言の数秒間。
幼いカルナの幼い瞳は、ますます険しくなっていく。
ロクはため息を吐いて立ち上がった。
「ニィ、大変な子を引き取ったみたいだな」
カルナが人見知りが激しいことを言っているわけではない。明らかに遺伝子的に違うこの子を二人が迎え入れたことには、事情があるのだろう。
「……まぁな。手は焼いているが、なかなか楽しいぞ。ただ、自分ではどうしようもなくて、実際には夜絵に助けられてばかりだ」
「まるで、父さんみたいだな」
父さんも、困ったらすぐにグランマに頼ってしまう。
「合気道ではお前に譲ったがな。だが、子育てじゃあ、負けるつもりはない。ちゃんと育てきってみせるさ」
「……なるほど」
ロクは唸って、さてその通りだな、と内心ではすでに降参していた。
シャンマオを失った自分に、子育てという偉業をなす自信はまったくなかった。合理的判断という名目の、実のところ単なる妥協の末に、我が子であるトラを父さんとグランマに育てて欲しいと頼んだ。
シャンマオに託されたトラには、自分よりも父さんを見て育って欲しい。それが、自分の限界だ。
トラの成長を見る限りそれはどうやら正解だったようだ。……そう思ってしまう自分は、かつてのニィが言ったように一生をかけても父さんのようにはなれないのだろう。
「あっ、ロク兄様、ニィ兄様!」
元気の良い声が道場の玄関から上がって、ロクとニィは顔を見合わせた。
……さて、お嬢様のお出ましだ。
「やぁ、紅白ちゃん。それにトラも。お前達はいつも一緒だな」
ニィが手を上げてそれに応える。
「ニィ兄様こそ……。夜絵姉様とカルナちゃんもお久しぶりです」
「大きくなったわね、紅白ちゃん」と榊が微笑む。
「……分かります?」
分からなかったなぁ、とロクは内心含み笑いをしながら紅白の伸び悩む背丈ごしに、自分の息子のほうに目をやった。
——トラは、また成長したな。
一目見ればすぐに分かる。
身長や体つきはもちろんだが、練り込まれた鍛錬もだ。
すでに立ち姿に懐の深さが窺える。父さんはトラをちゃんと鍛えてくれている。トラもシャンマオゆずりのストイックさでそれに応えているのだろう。
目算ではあるが、トラは自分が同じ年齢の時よりも、すでに数段は上のレベルにいるだろう。呼吸が深く、まとまりがある。むらっ気の強い紅白とは、すでに違うステージに足を置いていることだろう。
「トラ、久しぶりだ」
「ええ、お久しぶりです。……父さん」
トラが父親としての自分を曖昧に認識していることは自覚がある。仕方ないことだ。それでいいとも思っている。
「あ、みんなもう揃っている?」
父さんの声が背後からした。
振り返ると、背後にナナを引き連れて随分と頭に白いのが混じり始めた父さんがそこにいた。
「父さん、トラがお世話になってます」
すぐに頭を下げてみるが、ひらひらと振られた父さんの手が肩に降りてきた。
「いや〜、ロクみたいにしっかりとした子だから、もう世話なんてなにもないよ」
「そうですか」
「ロクこそ忙しいのに、よく来てくれたね。ニィ君も夜絵さんもね。……おっ、カルナちゃん!」
父さんが手を上げると、ニィの後ろで周囲を警戒していたカルナが、ぱっと駆けだして、父さんに飛びついた。
父さんはそれをやわらかく受け止めて、カルナがすりよせる頬を、ん〜、と堪能する。
「久しぶりだね〜」
「じいちゃ、会いたかった」
カルナがそういうのを聞いてとても驚いた。
この子、日本語をしゃべることが出来たのか。
「こら、お父さん。そんなところでデレデレすると、邪魔!」
すぐ側にいた紅白が、父さんの背中を手で押す。
「わっ、わっ、危ない」
抱きついてきたカルナを守りながらも、父さんはよろめく体を立て直す。
「……あぶないじゃないか、紅白」と父さんが口をとがらす。
「重心が浮いてんのよ。腕、落ちたんじゃないの?」
「もう、年なんだよ」
「
紅白のきつい言い方に、父さんの顔が曖昧になっていく。
こういうのを見ると、どうにもいけないなぁと思ってしまう。自分も幼いころは紅白みたいだった、とナナから口酸っぱく言われているのだ。
そうだっけ?
自分はもう少し、
「じいちゃ、大丈夫?」と、カルナが父さんを気遣う。
「大丈夫だよ。ギリギリだけど」
へらり、と父さんはカルナに笑ってみせる。
顔を曇らせたカルナは、紅白のほうを見ると幼いながらも顔もすごみのある目で睨みつけた。
「……何よ」
紅白は悪ぶっているところがあるが、妙に気の弱いところもある。年下のカルナに睨みつけられて、バツの悪そうな顔になった。
「だめなのに。なんで?」
「はぁ?」
「なんで? いじわる?」
「もう、カルナちゃん、何をいってるのよ。さぁ、稽古よ稽古。今日はロク兄様とニィ兄様に稽古をつけてもらうんだから」
紅白は曖昧に笑うと、玄関から稽古場へと逃げていった。
「あっ、そうだよ。懐かしいから話し込んじゃったけど、今日は年に一度のみんなで稽古だからね。家では、冴子さんが美味しい料理を作って待ってるんだ。はやく始めようよ」
「ええ、そうですね」
「ほら。行こう、行こう」
父さんがそうやって、せき立てると、布津野の一族はわらわらと稽古場へ移動した。
◇
「さて、」
父さんが稽古場の真ん中に袴のすそを払って膝を折り畳めば、一族の団らんの雰囲気も流石に引き締まる。
年に一度の稽古が恒例になったのは、子どもたちがある程度大きくなって、合気の技量が随分と整ってきてからだ。数年くらい前からだっただろうか。
それ以来、子どもの成長を合気で計るような、妙な雰囲気が自分たちの中にある。
「ロク、前に来てよ」
「はい」
稽古着姿の一族郎党の中で、自分が父さんに呼ばれるのを誇りに思う。
合気の稽古では、指導者が弟子の中から一人を選んで技の受けを取らせて教える。この受けをとる弟子は、技の種別や指導の目的にもよるが最も実力が高いものを選ぶことが多い。
足を抜いて、父さんに相対して座る。
「さて、ロク」
「はい」
「今日は、発表があります」
「はぁ、……なんでしょうか」
とは言え、あの父さんなのだから、そんな稽古での弟子の優劣みたいなところは無頓着だ。
実のところ、父さんは実力に関係なく、元気の良さみたいなところで相手を選ぶ。後、紅白やトラなどの年少組に相手をしてもらうのが楽しいのか、よく呼びつけて受けをとらせる事も多い。前なんか、受けを取らせた紅白に技の解説を「訳わかんないんだけど」などと言われて、道場生の前で立ち往生していた。
……本当に昔の僕は、あんなに生意気だっただろうか?
父さんは稽古着の襟を整え直しながら、「おほん」とわざとらしい咳払いをしてこちらを見てくる。
「ロクは、今日から免許皆伝です」
「……」
目の前で父さんが懐に手を入れてごそごそとする。
するとそこから折り畳んだ白い書状が出てきた。
「これ、免状。僕の字だから汚いけど、許してね。何ヶ月も練習したんだよ。これが精一杯でした」
父さんが両手で回して差し出した書状の表には、『皆伝状』と毛筆がぎこちない様子で走っていた。
それを目の前にして、咄嗟に身動きを取れなかった。
「ロク、ほら」と父さんが急かす。
指先が震えたまま、腕を伸ばして書状を両手で押し頂く。
やわらかい和紙の感触が、指の震えを優しく受け止めている。
「今年で三十歳だよね?」
「……はい」
「確か、僕がロクに初めて出会った時と同じ年だね」
無意識に頭が下がった。
そう、もう三十歳だ。
しかし、果たして僕にあの時の父さんと同じことが出来るのだろうか?
「僕の師、覚石先生は言いました」
「……」
「皆伝とは、つまり、ロクと僕は互角です」
……互角?
この僕が、この人と互角?
そんな訳、あるわけがない。
シャンマオが言っていたのだ、最後の最後、死の間際だ。「お前はあの人の優しさを受け継いだが、」と目を閉じ、口をゆるめて「恐ろしさについては、まだまだ」と。
「……そうでしょうか?」
「実際、ロクのほうが強いのも事実」
しかし、父さんはそんな適当な事を言うのだ。
もし、自分が十代の時だったら、それに腹を立てただろう。自分が二十代だったら、慌てて否定したかもしれない。
でも、自分はもう子どものいる父親なのだから……。
「そうなれるよう、がんばります」
「……ほどほどにね。さて、これもあげる」
父さんは再び懐に手を入れて、そこから紫色の刀袋を取り出した。
寸尺から小太刀と分かる。父さんは、金糸の刀紐を解いて、その黒柄を掴んで鞘ごと取り出した。
父さんの小太刀だ。
「これはプレゼントです」
「……もう少し、言い方がありませんか?」
「五百万円もするらしいです」
「知ってます」
同じ刀が欲しくて、複製を依頼した際に鑑定もしたのは自分自身だ。
当時で五百万の価値があると言われた古刀。しかし、今なら数億以上の値がついてもおかしくない。これが父さんの愛刀であることは世界中が知っている。
「大変貴重なものなので、間違っても銃弾とか切っちゃダメだよ」
「切りませんよ」
「実は、あの時のがちょっと傷になっているのは内緒」
ハハッ、と父さんはいつのものように笑うと、刀の向きを返して両手で掲げるようにして差し出した。
「せめて、誰かを守るために使ってください」
「……はい」
差し出した両手で柄と
これは覚石先生は父さんにこの刀を授けた。今だから、先生が考えていたことが分かる。この名刀は適当に見繕ったものなどでは断じてない。
父さんの器に恥じぬ刀を、先生は授けたのだ。
「精進させていただきます」
「まぁ、適当にね。ロクは真面目すぎるから」
「……はい」
押し頂いた小太刀を膝上にのせて、その鞘をなでた。
視線を前にむけると、うんうん、と頷いている父さんの顔がある。
髪に白いものが混じり始めて、すでに初老だ。
出会ってから、長い年月が流れたのだ。
もう20年になる。
それなのに、この人との間にある相対的な距離は、初めて出会った頃とまったく変わらない気がする。
「じゃあ、そういうことで、今回の指導はロクにやってもらいます」
父さんがそう言うと、背後に並んでいるみんなの中で、紅白のものらしき拍手が鳴り響いた。
「……父さん、それはちょっと」
「ほら、紅白も喜んでる」
「みんなは父さんの稽古を楽しみにしているのに。もちろん、僕もです」
「そう? まぁ、いいじゃん」
相変わらず、適当な人だ。
「もう歳なんだから、楽させてよ」
「でも、」
「ダメです。首相の稽古だよ。みんな、楽しいさ」
「……分かりました。では、代わりに一つだけお願いがあります」
「なに?」
「家に帰ってからで構いません。一度はトラに見せてやりたかったのです。ちょうど良い機会です。あの時と同じですから……」
両手を畳について頭を下げた。
「父さん、仕合をお願いします」
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