[5-11] 恐ろしい人
部屋を出た布津野は、後頭部に手を当てて髪をかき乱し、そのまま目線を床に落とした。
——しまった。
困ったな。あんな大見得を切ってしまった手前、もう後戻りはできない。どうしたものだろう。本当に困った。一体どうすれば、いいんだ。
——敵はどこにいるの?
思い出せ。
シャンマオさんのクローンさんたちが10人くらいいて、モニタに映っていて、走り回っていて、多分だけど、どこかを目指している。
問題はその方向がこの廊下の右なのか左なのか、自分には全然分からない、ということだ。
ああ、やっぱり。恥ずかしいけど。
「部屋に戻って、ロクに聞こ」
布津野が振り返ろうとした瞬間、布津野の携帯端末から着信が鳴り響いた。取り出してみると、呼び元はまさにロクだった。
「あっ、ロクぅ?」と変なイントネーションになった。
「……父さん、まさかとは思うのですが」
「どっちに行けばいいの?」
「やっぱり、ですか……」急に、ロクの声が小さくなって、聞き取れなくなる。「……ちょっと、カッコ良かったのに」
「ん?」
「何でも、ありませんよ」
何でもなかったらしい。
まぁ、よかった。これでどこに行けばいいのか、バッチリだ。安心、安心。
「父さん、相手はシャンマオのクローンです」
「ああ、ちゃんと殺さないよ」
「無理はしないでください。あれは、シャンマオではありません。これは、僕の気の迷いなんです」
「そうかい? まぁ、頑張るよ」
気の迷い、か。
あのロクが迷うほどに、誰かを好きになったのなら、お父さんとしてはほっとけないじゃないか。
「本当に無理はしないでください」
「ああ。ねぇ、ロク、教えてよ。僕はどこに行けばいいの?」
「……そのまま、下に降りてください。敵の目標である受精配合施設は、そこから一つ下の階です。すでに、敵はそこに向かってます」
「わかった」
布津野はそういうと、足音を殺した運足で滑るように非常階段を降りていく。
「そこで、敵を迎えうつことになります」
ロクの説明を聞きながらも階段を下っていく。急いで降りたものだから、膝が少し痛い。踊り場で膝を揉んで、駆け足で急ぐ。
「そこは右です。……ああ、戻ってください。行きすぎました」
「はぁ、はぁ」
「大丈夫ですか? 息が上がってますよ」
「もう、おじさんだからね」
「まだ、38でしょ」
38って、もう大概だよ。膝も痛いし、筋肉痛は二日後だし、寝起きにいきなり肉離れもする。10代とは違うの。体中の筋が、干からびたゴムみたいになってんだから。
「ここ?」と布津野は両膝に両手をついて、肩で息をする。
「ええ、そこが受精配合の施設前です」
「ふぅ、ようやく、着いた」
布津野は背中を扉にもたれかけさせて、深呼吸をした。どうやら、一番のりだったらしい。シャンマオさんのクローンさんは、まだ一人も見当たらないが……。
「父さん!」
「ああ、来たね」
すでに、ぴりり、と殺気を右頬に感じた。
横目だけをそちらに向けると、廊下の向こうに人影がぞろぞろと見える。同時に何人も来ましたか。手間が省けてちょうどいいや。
「後はなんとかするよ」
「父さん。殺してください。無理することなんてどこにも無いんですから」
「わかったよ。無理はしないよ。それじゃ、ありがとうね」
布津野は携帯端末をきって、それをポケットにしまいこむ。
右手からの気配が濃いが、反対側にも何人か潜んでいるな。どうやら、囲まれているらしい。相手はロクの恋人のクローン。
ふふ、なんだかなぁ。ロクの恋人かぁ。
僕は今、とても嬉しいんだ。
咄嗟に首を傾ける。
銃撃音、かすめる銃弾、背後に着弾してはじけた。
布津野は右側から発砲した相手を眺めた。煙をゆらめかせた銃口を構える女たちがそこに立っていた。
はっ、と息を吐いて、布津野は殺気を発した。
すると、女はガクガクと震えだして、銃をと落としてしまった。
「殺すつもりはないけど、」
布津野は、扉に預けていた背中を起こして、初めに右側の敵から処理するために、右を振り向く。
「ちょっと、痛いかもしれない」
女達の白眼には、彼女たちが見たこともないほどの殺意が広がっていた。
◇
「やはり、恐ろしい人だな。お前の父親は」
シャンマオは、自分のクローンを打ち倒し続ける布津野の映像を見ながら嘆息をもらした。
その横でロクも同じ映像をじっと見ていた。
「……心配は無用だったみたいだな。圧倒している」
「殺意で圧しているのよ」
シャンマオは目を細めた。
同じ目をもつこそ分かる事がある。モニタ上では悪意の色は見えないが、クローンたちの感情がこの胸に痛みとなって理解できた。
おそらく、クローンたちは今、かつて無いほどの圧倒的な殺意にあてられて怯えているだろう。それは視界を焼いて潰すほどの黒い炎だ。その証拠に、あの場から逃げだす個体が何体か見て取れた。
「……本当は、殺すつもりなど毛ほどもないというのにな」
「どういうことだ?」
少年がこちらを振り返る。
「お前は、あんな恐ろしい男になりたいのか?」
「また、わけの分からんこと」
シャンマオは曖昧に顔を崩して、ロクの肩に手をおいた。
今日は少しだけ丁寧に教えてやろう。もう、この少年に教えてやることも少なくなってきた。
「ほら、あの画面を見ろ。逃げ出す奴がいるだろう?」
「ああ……」
「四罪の精鋭は逃げ出すことなどない。しかし、よほどの恐怖にかられたと見える」
「……なるほど、威嚇か」
「そうだ。あれは色の見える私達にとっては、獅子の咆哮みたいなものさ」
「気で圧したのか」
「優しい男だよ。同時にお前の父親は恐ろしい」
シャンマオは悲しくなった。
お前が必死に学ぼうとしているのはそんな優しさなのだ、と少年に教えてやっても良かった。でも、それは言葉で伝えてはいけない気がして、いつも躊躇してしまうのだ。
もとより、あれは圧倒的な強者でこその優しさなのだ。
少年にはまだ早すぎる。
少年は「逃げる、か」と自分の頬を軽く叩いて、顎を撫でた。
「そうか、逃げるのか」
「無理はない。あれの恐ろしさは色が見えなければ分かるまい」
「……そうだ、ナナ」
少年は首をまわして、後ろの赤目の少女を読んだ。
「何よ?」
「ニィにメールをしてくれ。クローンが逃げる、とな」
「何よそれ、説明足りてない」
「あいつには、それだけで十分だよ」
少女は頬を膨らませて、もう、と鼻息を荒くした。
「なによ。自分ですればいいじゃない」
「僕は……忙しいんだ。父さんのフォローで」
「何よそれ、良くないわ。偉そうで、素直じゃない。誤魔化してる」
「緊急事態だ」
「本当に、もう。ロクだってダメなんだから。お父さんよりも、ダメダメなんだから」
少女の言い分は、要領は得ないのだがいつも核心をついている。
それでも、ぶつぶつと文句をこぼしながらも携帯を取り出してメールを打ち込んでいる様子を見ると、この少女はなんだかんだと言って兄弟想いなんだな、と頬を緩めてしまう。
本当に良い家族なのだ。そんな中に、自分みたいなのが加わっても良いのだろうか。
も〜、と口を尖らせた少女の、宝石のように美しい瞳に見る。
その目は人の善意を見るのだという。どんな光景なのだろう。悪意ではなく、善意が色彩豊かに世界を彩るという彼女の世界は……。
「残りは3人か、」
少年のため息に、視線がモニタへと引き戻される。
すでに、何人ものクローンが倒れている。逃げ出した数名をのぞくと、あの3人で最後だろう。打ち下ろしのモニタ越しでも、彼女たちが震えて立つのがやっとだというのが分かる。
「もはや、勝負はついたな」
「シャンマオ、本当にあれは強いのか?」
「私のクローンか?」
「ああ、そうだ」
視線をモニタから少年に移動させた。
「強いよ。私よりも若く、技に未熟は見られたが、その分だけ体は強い。ただ、お前の父親と戦うには経験不足だったな。あんなの初めてで錯乱しただろう」
「気に当てられただけでか?」
ふぅ、とため息が出た。
「少年よ。父親といつも稽古しているだろう」
「ああ」
「私からすれば、あんなもの正気の沙汰ではないよ。あれと毎日、相対するなど心臓が冷えて縮む」
「……」
シャンマオは少年の頭に手を置いて、その白い髪を撫でた。
「お前は、父親が優しく技を指導している、などと思っているのかもしれない。だとしたら、それは無垢な勘違いだよ」
「……」
「お前達の稽古は何度も見てきたさ。横で見ていていつもハラハラしてたよ。あんなもの、四罪の実戦訓練のほうが生やさしい」
「どういうことだ?」
「お前の父親は毎日、お前を殺すつもりで鍛えていた。それほどの殺気を常に浴びせ続けていた。何年も毎日な。……今のお前なら、そろそろ気がついても良い頃合いだぞ」
机においていたロクの手が、ぴくりと痙攣する。
シャンマオは顔をロクの耳に寄せる。その唇がロクの耳をすこし舐めて、くすぐるように呟いた。
「お前は、強くなったよ。……だが、それはお前の力じゃない」
「……分かってるつもりだ」
「ああ、お前は分かっている。余計なことだったな」
シャンマオはロクの頭を後ろから抱きしめて「すまない。すこし意地悪だったよ」と謝った。
実際に意地悪だった。見えぬ者が、気がつかないからといって、それを不心得だとなじるのは酷だろう。
「……終わった」
少年のつぶやきに釣られて、モニタに目線を映す。
そこには男が一人だけ立っていて、足元には累々と人が倒れていた。先ほどまで残っていた数名も、足元に伏している。
少年の目標であるその立ち姿は、誰一人とて並び立つことが出来ないだろう。
ひたすらに孤高だ、とシャンマオは思った。
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