[5-07] ロクとニィと女たち

 ロクは呼吸を整えた。

 目の前にいるのは、片目が白眼の女。

 細く呼吸を落とせば、すでに彼女と和合している。もう、慣れてしまった。幾度も繰り返した彼女との仕合。呼吸に、匂い、鼓動も。

 もう十分になじんでいる。


 ハァッ!


 と、鋭い気合いの彼女の声は、しかし、すでに予感の範疇にあった。

 シャンマオの体軸が捻転して、

 蹴り、裏打ち、フェイント、誘い、打ち下ろし。

 十分な威力と速度の連打は、空気を裂いて自分に迫る。


 無色。


 彼女がいうところの、没色メイスェ。その境地に自分はまだほど遠いだろう。

 でも、彼女の事はよく知っているつもりだ。

 彼女の癖も、欠点も、残酷さも、

 ……意外なかわいらしさも。


 彼女の重心が落ちてまとまり始めている。

 寸勁の気配。

 その打ち出しを、ロクはあえて待った。


 それが打ち出されると同時に、ロクは消える。

 シャンマオが空気を破って着きだした拳は、虚空を貫いた。

 すでに背後に回り込んでいたロクは、そっ、と隙だらけの背中を抱きしめた。


「……もう、私では及ばんな」


 吐息のようなそのつぶやきが、ロクの鼓膜をなでる。


「すまないな」とシャンマオの力がぬける。「私はここまでだ。もうお前の相手にはなれんよ」

「そんな事は、」

「お前の色」と彼女は遮る。「薄くなった、見えにくくなった。かつては無様だった殺気も、もはや見る影はない」

「まだ、父さんには及ばないよ」

「本当に、お前は強くなったよ」


 シャンマオはそのまま抱きとめられたまま、背後のロクに体重を預けた。

 緊張をゆるめた女の体の、意外な柔らかさにロクは抱きとめる。この女を愛おしいと思うようになったのはいつからだろう? 

 自分の感情の変化に思い悩んでいた頃もあった。

 もしかしたら、彼女が何となくグランマに似ているからかもしれない、と仮定した時のことを思うと笑うしかなかった。外見はまったく違う。でも、本質は同じような気がするのだ。

 例えば、与えられた物に従順なところ。

 強くも一途で頑固なところとかも。


「あと、どのくらいだ」とロクは問う。

「さぁ、分からんよ。私は雑種ザージャンで、事例が少ないからな……。心配してくれるのか」

「ああ」


 シャンマオが、ふふ、と息をこぼした。


「弱くなっただろう。私は」

「……」

「だったら、もうすぐだ」


 シャンマオの手がのびて、背後のロクの頬をなでた。


「もう死にかけかもしれん」

「そうは見えない」

「強化個体は、肉体的な全盛期を過ぎれば急激に老いて死ぬ。すでに峠は越えているだろうよ」


 ロクは後ろから抱きしめていた両手をゆるめた。

 シャンマオは、振り返ってかすかに笑った。その長い指がのびてロクの頬をなでる。


「こんな私を愛してくれたのだろう。本当に変なやつだ」

「僕は、」

「言うなよ。山猫は人知れず死ぬ。楽しかったぞ。うれしかったんだ。うれしいままで、いいだろう?」

「……」

「私は……女だったんだ。知らなかったよ」


 ふふん、と猫が鼻を鳴らすようにシャンマオは笑って見せた。その可愛らしい仕草に気がついたのは、つい最近のような気がする。

 自分はひどく鈍感で、手遅ればかりだ。そういう所だけ、父さんに似てしまったのだ。


「なぁ」

「うん?」

「抱いてもいいか?」

「さっきから、今だって、抱いてくれてるだろう」

「もっとだ」

「もう死にかけなんだ。……優しくしろ」

「ああ」

「お前は、本当にがんばり屋さんだからな。昔から、相手をするのが大変ッ、」


 シャンマオの口を、ロクの唇がふさいだ。


 ……


 しかるべき時間が経過した。

 火照った体も、荒い息づかいも、体の奥底から沸き上がる蠢動しゅんどうも。

 一通りに絡み合って、燃え上がり。果ての先まで二人で駆け抜けてしまった後。

 ひとまずは、それが治まった頃合い。


「ニィのことだが、」


 そう言い始めたのはロクだったが、彼はつづけられずに黙ってしまった。


「……どうした? 歯切れの悪い」


 お前らしくないぞ、とシャンマオは耳元でささやく。


「いや、どうにもな」

「まとまらないか?」

「ああ、……あいつは」

「ふむ」

「あいつは、凄いやつなんだな」


 くすり、とシャンマオは笑ってしまい思わずロクを抱きしめた。


「なんだ?」


 少年の声は不機嫌だ。


「いや、なんとも、な」

「おかしいか?」

「いや、そうじゃない。不機嫌になるな」

「別に、」


 ロクはふて腐れたように、眉をしかめる。


「どうして、そう思ったんだ?」


 シャンマオの声がやわらいだ。


「いや、な」

「ん?」

「……こういう事を、さ」

「ああ、こういう事だな」


 シャンマオの指がロクの体を這う。

 少年の肌は透き通っていて白磁のように滑らかで美しい。それでいて、十分以上に鍛え上げられてしなやかだ。


「あいつは、好きでもない奴らとやったんだろう。仲間のために」


 少年の体を抱きしめて、肌を密着させる。火照った体はすでに冷え始めている。

 少年の、いや、男の体のぬくもりが心地よい。


「……そうだな」

「男も女も、関係なく」

「そうだ」

「不思議だったんだ。お前がニィを認めている事が」

「んっ?」


 シャンマオはロクを見上げた。

 決まりの悪そうな表情をしている。とても珍しいことだが、しかし、その表情はこの少年の父親に似ていた。


「やきもちか?」

「……」

「やきもち、と言ってくれ。教えてやるから」

「やきもち、かもしれない」


 くすくす。


「ニィの色はな、悪意の結晶だ。あれほど美しい色はないよ」


 ふん、と少年は鼻をならして、頬を私の乳房に寄せた。

 機嫌を損ねたか? 面倒くさいやつだ。


「お前が大好きな父親の色だが、」


 ふん、とまた鼻がなる。


「前にも言ったと思うが、私には恐ろしく見てられんよ」

「見えないから?」

「それもある。見えないのに、誰よりも激しいからだろうな」

「……」

「あの男は、悪意がなくとも殺せるし、悪意があっても殺さぬ。……あれも極まっているという意味では、ニィと同じだな」

「ニィは?」

「本当に珍しいな。お前がニィのことを聞くのは」


 シャンマオは自分の胸元に抱き寄せたロクの顔に視線を落とす。


「別に……いいじゃないか」


 顔をうずめてきて、少年は表情を隠した。


「ニィの色はな、純粋な悪意だ」

「……」

「それは、純粋な善意なのかもしれない」

「……ナナも、そんな事を言ってたかも、な」

「だったら、あながち間違ってはないのだろうよ。……ゆえに恐ろしいのだよ。分からないのさ、色もなく人を殺せる人間というのは」


 胸にうずめた少年の頭が、もぞもぞ、と動いて、目だけがこちらを見上げてくる。


「父さん?」

「ああ、あれは善意ではない」

「悪意でも、ない?」

「ああ、もちろんだ」


 シャンマオは両手で、少年の頭を抱きしめた。


「あれは、感情が善と悪に分かれる以前。その状態だよ」

「……」

「色を発する以前の、あるがままさ」


 体を丸めたシャンマオの背を、ロクの両腕が抱きしめた。



 ◇


 榊は口をほころばせて、ニィを見上げた。


「それは、ロクを褒めているんですか?」

「そう聞こえたのなら、言い方が間違っていたのだろうな」


 ニィは表情を歪めてみせる。

 榊はその変化を眺めながら、いい加減にされたらいいのに、と思った。しかし、それを口にすることはなく、やや大股になったニィに歩調を合わせるために足を速めた。


「ただ事実として、アレはとんでもないな」

「オートキリング、ですか」

「そうだ」

「ニィ隊長は勝ちました」

「……問題は、あれが量産可能だということだ」


 ニィが急に足を止めたのに、榊はピタリと歩調を合わせてみせる。


「自動化された殺人単位の量産……。榊、あれに勝てるか?」

「いいえ……。聞くところによると、GOAも惨敗だとか」

「戦争の歴史を一段階押し上げたな。あれを導入すれば殺傷率は跳ね上がるだろうよ。一方的に、な」

「それこそが、ゲーミング・ウォー構想なのでは?」

「統制された計画的戦争、か」


 ニィはこんどはゆっくりと、榊の歩幅にあわせた速度で歩き出した。


「その概念の実体こそ、あのドローンだ」

「はぁ」

「まさにみょうだ。頭のない高性能な犬、あいつが打ち出した構想のなれの果てがあのかたちだ。滑稽だと思わないか?」


 くつくつ、と悦に入るニィを、榊は困った顔をして首をながめた。彼女には、この尊敬すべき隊長のユーモアセンスがいまいち分からない。


「たしかに、あの四足のドローンは脅威ですね」


 先ほどの実戦テストの光景はまだ鮮明に覚えている。

 あれに囲まれて生き残れる自信は、自分にはない。仮に鬼子の部隊を総動員して同数のドローン部隊と戦ってみたらどうなるだろうか。少なくとも容易に勝てるとは断言できない。


「ああ」


 それとも、ニィ隊長であれば問題ないのだろうか?

 そうかもしれない。あの地獄から自分たちを引き上げた彼なら、何だってやってのける気がする。


「ニィ隊長は、勝ちましたね」

「……確かに勝った、な」

「余裕でしたか」

「いや……、実のところギリギリだったな」


 意外だ。

 この人は弱みを見せたなんて、一度もなかった。自分たちの前では、常に余裕たっぷりで、不敵で、全てを敵にまわしても平然と振る舞っていた。

 ああ、変わっていくんだなぁ、と胸に落ちてくる。

 布津野さんの息子になってから、この人は本当にやわらかくなった。


「オートキリングは……脅威だ」

「いけないのですか?」

「あれでは、本当に戦争はゲームになる。しかも、ヌルゲーだ。あれを凡百の政治家が操れば戦争で遊び出すぞ」

「……」

「だからこそ、親父しかいないと言うのに、ロクのやつはなぜ分からん」


 ニィの声が独り言に落ちて、ぶつぶつ、と変わっていく。

 二人きりの時間を取られたみたいで少し悔しかったが、榊は黙って思考に落ちていくニィを眺めていた。隊長である彼の思考を邪魔しないこと、それは彼女の体に染みついた日常でもあった。

 榊はそっと携帯端末を取り出して、次のニィの予定を確認した。

 ニィが日本にもどってからは、その副官として様々な事務処理を担当するようになった。ロクとは対象的にニィは自由奔放の限りを尽くしていたが、それでも政府と関係する仕事はいくつかこなしていた。

 その一つに四罪および純人会への対処がある。

 無色化計画は、中国とカリフォルニアにつづいて南アジアに展開している。すでに外国人の最適化出産も実現した。特に南アジアで始動を控えている最適化センターは大規模なもので、複合生殖による遺伝子継承にも対応した一大海外拠点だ。

 こうした動きに対して、四罪と純人会のテロ活動は急増している。

 最適化センターを狙った破壊工作はもちろんだが、日本政府が外国人用の最適化には劣等遺伝子を使っている、などのフェイクニュース活動も活発だ。こういった妨害工作に対して、対処するのがニィの仕事だ。

 榊が確認したニィの予定はすでに詰め込まれており、各所諜報機関からの報告メールは積み重なってきりがない。


「あっ」


 榊は思わず声を漏らして、メールの件名を流していたスクロールをピタリと止めた。


「どうした?」

「……」


 榊は左右に視線を走らせて周囲に誰もいない事を確認すると、つっとニィの袖を掴んで体を寄せた。


「……危覧ウェイランからです」

「見せろ」


 榊は携帯端末のモニタをニィにむけた。危覧はニィが四罪の内部に忍ばせた間諜の中でも、最も重要な人物だ。

 ニィの瞳がさっと動いて、ものの一瞬でメールの内容を読み解いた。


「四罪め、動き出すか」

「罠、という線は?」

「罠なら飛び込むだけだ」


 ニィは拳を手の平に打ちつけて、不敵に笑った。


「……奴らの次の狙いは、南アジアの最適化センターだ」

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