[2-12]決断
二ィは決断をすることにした。
決断とは、『切り捨てる』ことだ。迷いを断ち切り、他の可能性を捨てさって顧みないことだ。
『決』は中国古語において堤防の決壊を意味し、状況の変化と流動を現す。
『断』はその漢字の成り立ちから、糸を
英語でも、決定を表すdecideは、分離を表すdeと切断を表すcideで構成されている。
二ィは迷っていた。無数にある小さく断片化された可能性の海に溺れていた。
今、自分達が置かれているこの状況は複雑で困難だった。これを解決するための仮説は無数にあったが、どれも十分ではなく、すがりつくには心もとなかった。
しかし、二ィは切り捨てることにした。無数の可能性を全て切り捨てて、偶然に出会っただけのこの不可解な未調整の中年に全てを託してしまうことを決断した。
理由というものは常にして後付けで、この決断にもやはり理由なんてものなどは無い。
ただ二ィの脳ではなく全身が、心の臓の鼓動がすでに決断を下していた。脳はその決断の理由付けという後始末をしているに過ぎない。
それでも、その思考による後始末によれば、この状況を動かせるのは目の前の未調整以外にいないと言う事になるのだろう。
少なくとも、改良素体である自分自身でさえ、この膠着状態を打開することは出来ない。出来ないからこそ可能性に溺れていたのだ。そうだから、フラフラと無目的に
もしかしたら、自分は悩むのにもう疲れ果てたのかもしれない。疲れ果てて、音をあげて、放棄してしまっただけかもしれない。
しかし、それも決断なのだ。
俺は、この人を、布津野さんを選ぶことにした。
「布津野さん、見せたいものがあるんです」
二ィはそう言って、馬乗りになった布津野の指を絡めるように握ると、彼の身を引いて起こす。そしてそのまま、二人だけだった小さな部屋を出た。
外の廊下を二人は並んで歩いた。
二ィは油断なく周囲を警戒していた。このビルのこの区画は自分達にあてがわれたもので、中国マフィアの構成員は滅多に立ち入ってこないが、稀に彼らがここに様子を見に来ることもある。彼らに布津野さんを見られるとなにかと面倒だ。彼らには自分達の正体を明かしていないのだから。
しかし、運悪く一人の中国マフィアの構成員が向いの曲がり角から姿を現した。
「喂、
「
二ィはそっけなくそう答えると、相手を睨みつける。
「
二ィは言い捨てると、構成員はグッと口を引き結んで目を困惑に揺らした。彼が黙り込んでしまった隙に、二ィは布津野をつれてその場を通り過ぎていく。
ここに来て二週間も経つのか、と二ィは歩きながらも思考を走らせた。
マフィアどももそろそろ疑い出す頃合いだ。早く、それでいて慎重に事態を動かさなければならない。停滞することだけは、絶対にあってはならない。それは現状で最も忌避すべき悪手だ。
さて、ロクがどう出るか。核心はそこにある。
二ィはちらりと後ろを振り返って、布津野を見る。
布津野は周りの状況を飲み込み切れてないのだろう、キョロキョロしながらついて来ていたが、二ィの視線に気が付くと首を傾げてみせた。
しかし、この人ならロクを動かせるかもしれない。
「着きましたよ。ここです」
足を止めた二ィは、目の前の扉を指し示した。
「この扉の向こうには、真実があります。そして、これを解決するのは貴方です」
「ん? どういうことだい」
「解決出来なくても、貴方が決断しなければなりません」
二ィは扉のドアノブに手をかけた。
「少なくとも、俺は貴方に任せることを決断しました」
扉がゆっくりと開かれた。その向こうに広がる空間には何十人もの少年少女たちがいた。彼らの目が一斉に布津野に集中する。
一目で、彼らが日本人であることが分かった。
全員が最適化個体特有の美しい容姿をしていた。年齢はまちまちで十歳程度の小さな子供から青年の域に差し掛かった者もいる。
しかし、彼らはみな疲弊し、ぼろ布のようにやつれ切っていた。
そこに並ぶ数十の瞳は虚ろで、皆は総じて頬がこけ年齢不相応の険しい表情が張り付いている。彼らが着ている服からはホコリっぽい匂い立ち込めていて、その内の相当数は緑色の擦り切れた軍服をまとっていた。
「……二ィ君、彼らは、いったい」
二ィは立ち尽くした布津野の背中を押して部屋の中に押し込むと、後ろで扉を閉じた。そのまま、布津野の背中に向かって答える。
「生き残りですよ。誘拐被害者の」
その言葉の意味と、目の前の光景はすぐに整合した。
部屋の片隅にうずくまる少女の長袖はぺらぺらで、彼女が動くとヒラヒラと揺れている。おそらく、その袖の中にあったはずの彼女の片腕はもう無くなってしまったのだろう。
正面にたってこちらを見ている少年の頭半分は包帯に覆われていて、ところどころに血糊の斑点が浮かび上がっている。
右端のほうにもたれかかっている痩せた青年は、まるで目につくもの全てが敵だといわんばかりに布津野を睨みつけていた。
そこに広がっているのは、平和な日本とは正反対の光景で、むせかえるほどに絶望らしき匂いが立ち込めていた。布津野は吐き戻しそうになった何かを飲み込んだ。
「貴方はここで決断しなければなりません」
二ィの声が布津野を現実に引き戻す。
「彼らをどうするのか、貴方が断ずるのです」
「どういう、ことだい」
目の前の光景から目を背けるように、布津野は二ィを振り返った。
二ィは扉を背にもたれかかって、まっすぐこちらを見据えていた。彼の赤い瞳が布津野を捉えて離さない。
「順を追って、説明してみましょう。しかし、貴方にはここから逃げる権利はありません」
二ィはカチャりと扉のロックをかけると、赤い瞳が布津野に近づいてくる。
「まず、俺が中国人民解放軍の特務少尉と言ったのは、あれは半分くらい嘘です」
二ィは目の前で立ち止まった。
「本当は、中国共産党の人民解放軍から脱走した実験兵で、俺が持っていた特務少尉の階級はすでに剥奪されているはずです」
布津野には近くから聞こえる二ィの声が、やけに遠くに感じられた。
「ここにいる彼らの多くも、同じです。中共の遺伝子技術戦略は、日本の最適化個体を誘拐し、その生殖細胞を採取しつつ、誘拐した個体の性能を調べることです。特に積極的で無配慮な実験が行われているのが軍部でした。悲惨でしょ、五体満足じゃないのが沢山いるでしょ。でも、彼らは生きていることを考えると、割と幸運なほうに分類されちゃうんですよ」
布津野はもう一度、恐る恐る彼らの方を見た。
布津野を見つめる彼らの瞳は、ひどく乾いている。
それは彼らが経てきた悲惨な状況を物語っていて、ここに押し込められている現状から察するに、彼の状況は十分に好転しているわけではないことは布津野にも容易に想像がついた。
「ちなみに、勘違いしてはいけないので補足しておきますが、中国政府が残酷であるという先入観です。日本の子供たちは世界各国に誘拐されて、それなりの扱いを受けています。彼ら以上の悲惨な状況は他にもあるでしょうし、割と良い待遇を受けていることもあります。そして肝要なのは、日本のほうがもっと非人道的なことを平然とやってのけているという事実です」
二ィの声が蛇のように布津野の鼓膜を這い回った。
「俺が生まれたあの研究所が何人の生命を生み出し、壊れることを前提とした耐久試験のような実験を繰り返し、粗大ゴミを処分するように殺してきたと思います? ロクに聞いてみてください。きっと教えてくれませんから」
二ィはクツクツと笑ってそう言うと、「さて、話を戻しましょう」と仕切り直す。
「俺たちは、軍から脱走しここまでたどり着きました。中国マフィアを中国共産党の工作員だと騙し、人質を使って日本政府と交渉しにきたと偽ったのです。
「どうして」
「ん?」
「どうして、政府に助けを求めないんだい」
「ええ、問題の核心はそこです。言い換えれば、ロクこそがこの事態の原因と言えます」
二ィは布津野の後ろから手を回して、肩にもたれかかった。
彼は顎を布津野の肩にのせ、恋人のように耳元で呟く。
「もしロクがロクならば、あいつは俺たちを見捨てます」
「そんなこと」
「ありますよ。それを見極めるために俺は貴方に近づいたんです。あいつは、最適解のままでした。正しさを振りかざして、躊躇なくサンを殺した、あの時のロクのままでした」
ぎゅっと、布津野の肩にもたれ掛かる二ィの腕が肩を締め付けた。
「ロクの考えることは、手に取るように分かります。俺は第七世代品種改良素体のナンバー2で、誘拐される前はロクと一緒に仕事してきましたから」
「僕には、分からないよ」
「俺たちのような存在が公表されることは日本にはデメリットしかないのです。そんなことになったら、中国と日本は戦争になります。少なくとも、その可能性は非常に高くなる。そうなると、どうなるでしょう。何人が死ぬか、布津野さんは想像ができますか?」
布津野には全く想像出来なかったが、二ィの言わんとしていることは理解できた。要は、目の前の数十人よるもはるかに多くの人が死ぬことになると言いたいのだろう。
「日本と中国が戦争になったとすれば、他の主要国は中国側につきます。遺伝子最適化を合法化し、世界経済を支配する日本が外交的に孤立していること。各国の経済力が日本の発展により打撃を受けていること。日本は国内外の世論を重視してきたため軍事力強化を避けてきたこと。国家間の競争ゲームの論理からすれば、機会があれば日本を叩いておきたいというのがセオリーです。
そして、仮にそのセオリー通りに世界大戦が起きたとしましょう。第二次世界大戦の主要国の人口損耗率は3%程度で6,000万人が死亡したと言われています。今回は何人が死ぬことなるでしょう。ロクが上手く立ち回ったとしても、1,000万人は下らないでしょうね」
二ィの腕が解かれて、その白い手が布津野の頭を挟み込んだ。その手は力強く布津野の顔を真っ直ぐと誘拐被害者たちの方に固定する。
「見なさい」
二ィは目を背けることを許さないように、布津野の頭を前に固定する。
「この光景を公開して、どうなると思います。日本は残念ながら民主主義です。感情的で扇動的な政治機構です。
二ィがクックッと音を押し殺して
「毅然とした態度ですって。愚かで盲目で、綺麗なだけの言葉だと思いませんか? 中には何も入ってない、外側だけ着飾ったアホが使う言葉ですよ。諸外国が日本と戦争をしたがっているこの国際情勢で、毅然とした態度ですよ。国民は具体的に何をして欲しいのでしょうか? 中国共産党に謝罪してもらい、誘拐被害者を返還? もう死んでしまっているなら、せめて遺体だけでも? それで収まりがつきます? そもそも、相手は戦争をしたがっているんですよ。
Japanese Gene and Economic Hazard ――『日本による遺伝子と経済破壊』と悪評名高いこの現状、各国の経済発展は抑制され貧困が蔓延した、というのが定説である諸外国に共通する国民感情なのです。日本のグローバル経済支配は絶対的ではありますが、軍事的な優位性はそれほど進んではいません。パックス・ジャポニカ――日本の覇権的平和と言うには程遠い。軍事費のGDP比率1.0%以下という基本原則を順守してきた日本の軍事力は世界大戦を物理的に抑え込むことは可能でしょうか」
二ィの笑いに狂気が混じって、カラカラと回る。
「この状況で、毅然とした態度という曖昧な綺麗事が意味するところを理解している国民が一体何人いると思います? その要求が戦争に直結するという事実を認識して発言している国民は何%だと思います? そういった綺麗事だけを並び立てたがる人達に限って戦争反対なんていう高度な自己矛盾を平気でやったりするんですよ」
途端に、狂ったように笑っていた二ィは声のトーンが消えるように落ちて、冷静な声色が布津野の耳元で囁かれた。
「平和なんて理想的な状況。犠牲を払わずして手に入るわけ、ないじゃないですか」
二ィの手がすぅと前に伸びて、彼らを指し示す。
「その犠牲が、ほら、俺たちですよ。いい具合に絶望が凝縮されているでしょう?」
布津野はよろめきそうになったが、後ろから絡みつく二ィの腕がそれを許さなかった。
目を背けたくなったが、頭を固定する二ィの手がそれを許さなかった。
片腕を失った少女が布津野を見て薄く笑った。半顔を包帯で覆った少年が布津野をみてくしゃりと表情を歪ませた。痩せた青年の怒りに満ちた眼光が布津野を貫いた。
――分かるわけないでしょう! 未調整のくせに!
不意に、ロクの声が布津野の胸を突き上げるように、浮かび上がった。
「ロクは、迷わず俺たちを犠牲にするでしょう。大多数の平和を望む国民のために、国民の愚かな綺麗事を封殺するために、俺たちを殺し、俺たちの存在を隠ぺいし、闇に葬る。あいつは馬鹿でも偽善者でもない。いわゆる最適解ですからね」
さて、と二ィは息をついて「ここからが本題です」と言う。
「布津野さん、彼ら48名の誘拐被害者、存在してはいけない犠牲者のその命運を貴方に委ねます」
「どうして、僕になんだい」
布津野のその呟きに対して、二ィは即答した。
「それは、貴方がロクの父親だからですよ」
「……」
「俺が提示できる可能性は二つです。
一つ、この端末でロクと連絡をとりロクに判断を任せること。
二つ、俺たちの現実をメディアに公表すること。
どちらにしても、行き着く結果は分かりやすいです。
ロクが彼らの存在を知れば、彼らを殺すでしょう。サンを殺したように、跡形もなくね。メディアが彼らの存在を公表すれば、彼らの命は守られます。例えロクにだって、公表されたものを無かったことには出来ませんから。そして、誘拐被害者の救済をもとめる世論が強まり、戦争の可能性が高まります。現政権に批判的な野党や純人会系列のメディアに情報を渡せば、特に効果的ですよ。
決断はお早めに。ここに彼らを匿っていられるのも時間の問題です。具体的には後、数日もないでしょう」
二ィはようやく布津野を解放して、彼から離れる。
自由になった布津野は二ィの方を振り返ると彼に問いかけた。
「二ィ君は、どうするんだい?」
「俺はロクと会いにいきますよ。あいつを殺すかどうか、もう一度見極めるために、ね」
そう言って二ィは後ろを向いて入って来たドアから外に出ると、バタンと扉を閉めた。
布津野は顔をあげた。
そこには薄暗い部屋のなかに48人がうずくまりながら
彼らの虚ろな瞳の全部が布津野を見ていた。
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