[2-11]八つ当たり

 布津野忠人は二ィの顔を眺めながら、既視感デジャヴに戸惑っていた。


 彼は手狭な一室をあてがわれて、そこにニィと一緒に押し込められていた。

 それは三年くらい前の正月に彼が置かれた状況と似ていた。自由行動は制限され部屋には簡素なベッドと机があるだけで、自分がこれからどうなるのか分からず宙ぶらりんな状況であることも全く当時と一緒だった。

 そして、あの時は白髪赤目の二人の子供がよく遊びに来た。


 ロクとナナに初めて会った時も、こんな感じだったっけ。


 あの時との違いがあるとすれば、当時は無職だったので気楽なものだったが今は公務員なので一体、次の出勤日までにここから解放してもらえるのか不安でしょうがないということだ。幸い今日は金曜日だから明日、明後日は問題あるまい。次の出勤日までには帰してもらいたいのだけど……。


「さて、布津野さん、これから貴方は捕らわれの身となりました。監禁、拘束、尋問、エトセトラ。俺のやりたい放題ですよ」


 目の前にはあの時と同様に白髪赤目の少年がいる。しかし、当時と違ってその美しい口から発せられる言葉、かなり結構、物騒だった。

 布津野とは対照的に、目の前の二ィは本当に楽しそうに笑っている。

 布津野はその不穏な単語の数々に思わず身をすくませてしまう。


「お手柔らかに、頼むよ」

「何からしましょうか? 希望はありますか? 俺は精神的な拷問が得意なんですけど」

「そう、なんだ。まあ、まずはお話しからしてもらえると助かるなぁ」

「分かりました。では尋問ですね」


 二ィはそう言うと笑いを浮かべて机から椅子を引っ張り出してそこに座ると、布津野にベッドを指差してそこに腰かけるように促した。

 布津野は大人しくベッドに座った。ちょうど二ィと向かい合う形になる。

 二ィは腕を組むと下目づかいに布津野を見る。


「布津野さん、最初に今、貴方が考えていることを聞かせてもらいましょう」

「僕の考えていること?」


 次の出勤までに帰してもらえるのかな、布津野の頭に浮かんだのはそれだった。


「そうです。布津野さん、貴方が置かれた状況は控えめに言って複雑怪奇で、大袈裟に言えば世界情勢に大きな影響を与えうる局面です。極東アジア情勢は複雑怪奇、と言うわけです。そして、現実的にはロクが犯した罪を償うためのとばっちりに、貴方は攫われてしまいました」

「はぁ」

 

 色々と取り留めがないなぁ、と布津野は思いながらも彼は「ロクが犯した罪」というフレーズが気になった。

 それは罪なのだろうか。……いや、きっと、二ィにとっては罪なのだろう。

 布津野はロクが彼らの殺害を命令した背景を十分には知らなかったが、しかし、ロクが下した判断が間違ったものであるとは思わなかった。きっとあのロクが下した判断なのだ。何か深い事情があったに違いない。

 ロクは皆のためになるのであれば、自分の命すら簡単に差し出してしまうような子だ。

 だから、それは良くないことだとは思うけど、ロクは皆のために、二ィやサンを殺すように命じたのだと思う。


 布津野は、目を細めて二ィを見る。

 でも、きっとそう言ったことも全部、この二ィ君は分かっているのだろうし、承知してもいるのだろう。

 そして、その上でロクを許せないのだろう。


「二ィ君の復讐は、どこで終わるのかな?」

「復讐……ときましたか」


 二ィの口が複雑に歪んだ。


「取り急ぎ、とりあえず、まずは、布津野さん、貴方をロクの目の前で殺すことですよ」

「その後は?」

「そのままロクを殺しますよ。俺の手で」


 二ィは両手を胸元まで上げて、ひらひらと揺らして見せた。


「ロクはきっと不幸のどん底で死にますよ。俺の目の前で、サンと同じように」


 布津野は、二ィの目を見た。

 虚ろな目だ。虚ろとしか表現しようのない乾いた色に塗りつぶされている。

 布津野には彼のその凶行じみた発言を咎める自信は微塵もなかった。

 しかし、彼には一言だけ、唯一の言える事、言うべき事があると思った。だから、彼は素直にそれを口にした。


「じゃあ、僕は君に殺されないようにしなきゃね」

「ふふ」


 乾いた二ィの瞳がきらりと色彩を取り戻して、口がニンマリと歪む。


「貴方は不思議なことを言いますね」

「そうかなぁ。でも君の言う通りなら、僕が死ななければロクは殺せないだろ? まぁ、君が約束を守るつもりがないのなら、どうしようもないけど」


 二ィは肩をすくめた。


「約束は守るつもりですよ。俺はロクにとって最低の、俺にとっては最高の死を突き付けてやるつもりなんですから。例えば、仮にロクが貴方を守ろうとここに飛び込んできて、そのせいでロクが死んでしまうみたいな、割と良い死に方をさせるつもりなんてありませんよ」

「そんなこと、僕もさせるつもりはないよ」

「ええ、そうでしょう。ちなみに俺が想像する最高の展開はロクが貴方を見捨てることです。そうやって死んだ貴方の前で、俺がロクを殺すことですよ」


 二ィの声がかすかに高揚に浮きたっている。その目はまるで欲しかった玩具を与えられた少年のようにキラキラと光っている。

 布津野はため息を一つこぼした。


「じゃあ、僕がやることは一つだけだ。君に殺されないように頑張るよ」

「簡単に言いますね。この状況で、貴方が生き残る可能性はほとんどない。改良素体を甘く見ないことですね。俺がその気になれば、今ここで、貴方を素手でくびき殺すことだってそれこそ赤子の手をひねるほどに簡単なことですよ」

「そう、かもしれないね」


 ハハッ、と布津野は曖昧に笑った。


「でも、誰かを殺すことよりもずっと簡単だよ。少なくとも、気持ち的にはね」

「まぁ、そうかもしれませんね」


 二ィも布津野につられて少し笑う。

 さてと、と声を出して二ィは立ち上がり、一歩だけ布津野が腰かけるベッドに近づいた。

 布津野は二ィを見上げた。

 近くで見ると均整のとれた二ィの体は、少年らしい柔軟さが伺える反面、覗いた腕には少年らしからぬ鍛えられた筋が見え隠れしていた。

 豹のようなしなやかさで二ィは体の重心を下げるのを布津野は感じた、次の瞬間、二ィは布津野に覆いかぶさるように飛び掛かった。

 布津野は二ィに押し倒され、ベッドの上に馬乗りにされた。俗に言うマウントポジションの形になる。

 二ィの手にいつの間にか握られたナイフが、天井の蛍光灯を反射してキラリと目を刺す。彼はそれを布津野の見せびらかすように、ひらひらと弄んで見せる。意地の悪そうな赤い目が布津野を見下した。


「でも、俺は貴方を簡単に殺せますよ。このナイフで首をかき切るだけです」


 布津野は思う。

 本当に殺そうとしているなら、そんな風に刃物を見せびらかしたりはしない。

 いくら有利なマウントポジションを取ったとは言え、組み伏せた相手の上半身を自由にはさせない。

 

「どうですか? もし、貴方が殺されるはずはない、なんて甘い考えを持っているなら、速やかに捨てたほうが良いですよ」

「そう……みたいだね」


 布津野は一つ息をついた。

 呼吸を整えて体の力を、すぅと抜く。

 武においての肝は、相手と呼吸を合わせ相手の呼吸を乱すことだ。少なくとも自分はそう学んできた。


「二ィ君」

「なんですか?」

「君は、もしかして、ナナのことが好きだったりするのかい?」

「はぃ?」


 二ィの顔が怪訝に歪むのを、布津野は真剣な顔で見返した。


「ナナの父親として、君にナナをあげるわけにはいかないよ」

「また、検討違いなことをッ……!」


 次の瞬間、二ィは驚愕した。

 彼の手にあったナイフが無くなっていた。

 我を取り戻す前に、布津野の手が彼の襟を掴んで、ぐいっと引き寄せられる。

 布津野の顔が急接近して、止まる。

 そして、後頭部の首筋に冷たく鋭い感触が二ィを総毛立たせた。


 布津野がナイフを奪い、自分の首の裏筋、つまり頸椎に押し当てている。


「二ィ君」

 

 間近に聞こえる布津野の声は変わらず呑気なものだったが、目の前の彼の黒い瞳は底なしの穴のように深かった。


「頸椎を切ると人は即死する。苦しまなくいいから、ずっと簡単に死ねるね」


 二ィは絶句した。

 声を出すことも躊躇された。

 首の後ろ、頸椎に押し当てられた刃はすでに皮を切り裂いて彼の感覚を凍り付かせていた。その刃はすでに頸椎の運動神経束に隣接しているであろう。それがわずかにでも傷つけば、妥当で即死、運が良くても半身不随は免れない。

 呼吸すらはばかられる状況で、唯一、動かせるのは思考だけだった。

 

 どうして、

 なぜ、

 この人は、どうやって、


 二ィの額に脂汗がにじみ浮き出る。

 先ほどのナナについての発言はこちらの意識を乱すためのブラフだったのだ。自分はそれにまんまと乗せられ、今や文字通り指一本、呼吸さえもはばかられる状態に追い込まれた。

 目下のこの未調整に改良素体である自分は生殺与奪の全てを握られている。

 彼は布津野の乾いた目を、吸い込まれるように見た。


 この人は、一体、何者だ。


 布津野の目が、急に笑った。

 二ィの後頭部に押し当てられた刃の感触がふっと消えてなくなり、二ィは思わず体の硬直を解いてしまい、そのまま布津野の胸に倒れ込んだ。

 トク、トク、と穏やかな心音を二ィは全身で聞いた。


「やっぱり、君を殺すことは難しいよ」


 心音に混じって布津野の声がこだまのように響く。


「やっぱり、なんとか上手くいく方法なんてないのかなぁ」


 布津野の呑気なその口調もその思考も、二ィは全身で聞いた。


「……ありませんよ」

「そう、だよね」


 布津野は二ィから奪ったナイフをベッドの上に放り投げた。

 二ィは視界の隅に投げ出されたナイフはクルリとベッドの上で跳ねて、白い反射光を辺りに散らした。


 どうしてナイフを手放したんですか? と布津野に問いかけようとして、二ィはやめてしまった。

 何となく、答えは分かるような気がした。


「本当にロクを守りたいなら、今ここで俺を殺すべきですよ。貴方が俺を殺したくなくても俺はロクを殺してやりたい。それは変わらないのだから」

「そう」

「貴方はきっと後悔しますよ。全救済的な中途半端は悪です。この世界は全てを助けられるようには出来ていません。それこそ、ロクが俺とサンを殺せと命じたのだって、そういった現実がゆえです」


 布津野の手がゆっくりと上がり、二ィの頭を撫でた。

 二ィはそう言ったことをされるのに慣れてなかったが、目を閉じて布津野の鼓動に耳をすませることにした。それは大地の鳴動のように力強い鼓動だった。

 どくん、とくん。

 ゆっくりとして、安心感のある重低音。


「僕は、ロクとナナを助けようとして、人を殺したことがある」


 布津野の声に、二ィは耳をすませた。


「僕は、その殺してしまった人の娘を守ろうとして、死なせてしまったことがある」


 布津野は目を閉じた。

 忘れもしない、二年前の年末年始。

 僕はロクとナナを助けようとして、二人を誘拐しようとした刑事を殺した。

 そして赤羽組事務所への突撃作戦の際、その刑事の娘に出会った。そして彼女は自分をかばって銃弾に撃たれて死んだのだ。

 彼女を撃ったヤクザは、僕が殺さないように手加減をした相手だった。


 誰かを助けるために、誰かを殺す。

 誰かが死んで、誰かが不幸になる。

 だから、誰も殺さず、誰かを助ける。

 そして、殺さなかった誰かが、誰かを殺す。


 どうしようもない螺旋が絡み合って、これが現実なんだろう。

 布津野は情けない顔で笑った。



「でも、どうしようもないかもしれないけど、本当にどうにかならないのかな? 僕には無理だろうけど、君達ならもしかしたら、ね」

「……随分と投げやりですね。無責任とさえ言えますよ」

「本当に、ね」

「……」


 二ィは布津野に覆いかぶさるようにして身を起こして、布津野を覗き込んだ。

 目の前には、ハハッ、と笑う布津野の顔がある。

 この人は、良く笑う。


「布津野さん」

「何だい」


 二ィは何かに気がついたように、口をつく。


「俺を抱く気は、ありませんか?」

「ひゃぃ!?」


 布津野は素っ頓狂な声を上げて、思わず身を固くした。

 しかし、二ィの顔は落ち着いていた冗談を言っているようには見えない。彼には珍しいくらい真剣な目でこちらを見ている。

 二ィの唇が動く。


「俺を抱かないかと言ったんです。提案です。直接的な表現で言い直すと、セックス、性交渉、交尾です」


 この子は、突然、いったい何を言い出すんだ。

 布津野は錯乱して何度も瞬きを繰り返した。

 もしかして、彼はそういうタイプの子だったんだろうか? 男同士で、出来てしまう子だったんだろうか? それとも、冗談を言っているのだろうか。どうだろうか。

 しかし、何度も見直しても、目の前の二ィの乾いた目が嫌に真剣味を帯びている。

 布津野は、二ィの真顔に割と本気で恐怖した。配置的には布津野は二ィ馬乗りに覆いかぶさられているし、単純な筋力では彼に敵わないことを思い出した。


「え、あ、いや、いいや」

「どうですか? はっきり答えてください」

「あ、はい。嫌です。ごめんなさい」


 布津野はキッパリと言うことが出来て安堵した。自分はNOと言える日本人だったのだ。

 二ィの顔が、ふっと息をついて砕けた。


「そう、嫌、ですか。残念です」

「……あの、君はその、何というか」

「勘違いしないでください。俺は同性愛者ではありませんよ」


 そう言って、二ィは髪をかき上げた。

 布津野は思わずその姿に見とれた。完璧といっても差し支えのない彼の容貌では、そう言ったイケメン的な仕草は本当によく絵になる。

 

「布津野さんは、男に抱かれたことは?」

「あるわけ、ないよ」


 ぶんぶん、と布津野は頭を振る。

 男との経験が未体験だからといって、それを二ィ君にあげる気もない。

 それはきっと、墓まで持っていくべきものなんだ。


「俺は、ありますよ」


 涙を吐露するように二ィがそう呟くのを見て、布津野は絶句した。

 彼は自分の肩を抱くようにして、目を閉じた。


「何度も、何度も、いろんな奴らに抱かれてきました。男も女も関係ない、言われるがままに誰とでも寝てきました。俺は人気者でした。中国共産党の高官どもはこぞって、俺を抱きたがりましたよ。パーティーの出し物として、アホ共に囲まれて弄ばれたことだってありますよ」


 自嘲気味にふるえる二ィの声に、布津野は息を飲み込んだ。


「俺のように、外国に攫われた最適化個体がどういった扱いを受けるか、布津野さんは想像できますか」


 想像は出来た。有名な噂話でもある。

 日本は世界から孤立してまで人の遺伝子最適化を合法化し急激な経済成長を実現した結果、世界一の大国となった。

 輝かしいその発展の影で、日本の子供たちは遺伝技術の盗用を目的とした外国工作員の餌食となったのだ。

 多くの場合が誘拐した子供の精子や卵子を採取し人工授精を行い代理母に出産させることで優秀な個体を得ようとしているらしいことは有名な話でもある。一部では誘拐した子供に直接、子を産ませることもあるらしい。

 そういった目的で誘拐された子供たちが、まっとうな扱いを受けているわけがない。


 二ィは目を開けて布津野を見下ろした。その口元が歪む。


「別に俺が不幸であることを嘆いでいるわけではありません。俺以上に不幸な奴は攫われた中には沢山いましたよ。俺なんかはどちらかというと、あの中じゃあ、運が良い方に分類される。少なくとも、改良素体ということで丁重には扱われましたからね。散々に弄ばれてボロボロになって死んだ奴だって少なくなかった」


 トン、と二ィの拳が布津野の胸を叩いた。

 布津野はその拳が小刻みに震えているのを感じた。


「でもね、許せないのは。俺が許せなかったのはッ」


 二ィの声がかすれて細り、途切れた。


「ロクの奴が……幸せそうにしていやがった」


 ドン、と今度は力強く二ィは布津野の胸を叩く。


「こんな父親なんてものも、いて。サンを殺したくせに、見殺しにしたくせに。正義面して、幸せそうにしていやがった」


 ドン、ドン、と打ち下ろされる二ィの八つ当たりを布津野は黙ったまま受け入れた。


「ただ、それが許せなかったんだ」


 絞り出すような二ィの嗚咽を聞きながら、布津野は耐えきれずに目を閉じた。


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