[2-08]洗い物

 トルルゥ、トルルゥ、トルルゥ……と先ほどから鳴らし続けている携帯端末にロクの反応は無かった。

 冴子は途方に暮れてしまう。ロクが出ない理由は何となく分かる。それだけに、どうするべきかが分からない。

 あのロクがこういった行動に出たことは初めてで前例はない。当然、参考にすべき事例もない。

 目を閉じて思いを巡らせてみる。

 ふと、そう言えば、ロクのことは宮本に頼むつもりであったことを思い出した。どうやら自分の考えすら忘れてしまうほどに、私は動揺しているらしい。

 まずは落ち着かねばならない。今、ここにロクはいないのだから。


 ふぅ、とついた溜息の音が妙に耳についた。


 冴子は、しかし、とりあえず食器を洗うことにした。

 頭の中を綺麗すべきだと思った。それは食器を洗うことに似ている気がした。

 それに、カレーの油汚れはすぐに洗い落とさなければ後で後悔することになることを、彼女はこの数年の生活から学び取っていた。

 蛇口をひねるとサーと流れる音が妙にハッキリと聞こえる。

 油汚れはなかなか落ちない。まずはお湯ですすぐべきだったと、蛇口のボタンを押して温水モードに切り替える。

 徐々に、手に流れる水の冷たさが温もりに変わっていく。


 状況はとても複雑であって、対応すべきことは山積みではるのだけども……。


 冴子は、しかし、すぐに行動を起こすことに倦怠を感じた。

 良く響く水音が妙に心に引っかかる。

 十分に熱をもった温水が、こびりついたカレーを溶かして洗い流していく。

 忙しく手を動かすと、しつこいはずの油汚れなんて、あっと言う間だった。

 カチャカチャと隣で音がすると思ったら、ナナが洗い終わった食器の水気をふき取っている。


 終わってしまった。と冴子は落胆した。

 食器洗いは終わってしまったのだ。そして、私はこの事態に対応しなければならないのだ。

 おそらく、今すぐにでも。

 冴子は顔を上げてリビングを見た。

 そこは、まるで吹きさらしのように閑散としていた。

 大きなテーブルに引きっぱなしの椅子、奥に見えるソファ、白く照らす照明。無駄に広い空間。こんなに、広かったかしら。

 いつもならソファで忠人さんがぼぅとしていて、ロクが合気道について教えろとせがんできて、ナナが忠人さんの横にくっついてそれを邪魔している時間だ。

 

 冴子は、ふと、唇を触った。

 そこには確かな感触がのこっている。

 忠人さんとの口づけは、彼との名残を惜しむために交わしたものではなかったはずだった。しかし、結果として彼の名残をそこに確かに感じる。

 どうしてなのかしら。


「さあ」と冴子は声を出した。

 シーンとした空間は何も返事はしない。

「さあ」ともう一度、

「さあ」と隣のナナが返事をした。

 ナナの紅玉の瞳が覗き込んでくる。

 ナナの目は素体たちの中でも特に美しい。それは彼女の能力に関係しているのかもしれない。吸い込まれるようなその魅力に思わず視線が釘付けになる。

「さあ」とナナがもう一度声をだして、ニコリと笑った。

 冴子はつられて笑ってしまった。さあ、やるべきことが沢山あるわね。


「さあ、さあ、忙しくなってきました」

「うん、グランマ。どうするの」

「そうですね。とりあえず、ロクを連れて帰って、忠人さんを助けないといけませんね」

「うん!」


 ナナは満面の笑みを揺らして、頷いた。

 冴子はふいに冴えわたる気分になった。そうだわ、やることは明白だった。ロクを連れ戻して、忠人さんを助けて、また賑やかなリビングにするのだ。

 早速、携帯端末を取り出して電話機能を呼び出す。

 誰からにしようかしら、と一瞬だけ考えた結果、初めに宮本を呼び出すことにした。


 トルルッ、と耳元で騒ぐ呼び出し音はすぐに止んだ。

「宮本だ。冴子か、どうした?」

 無骨でざっくばらんな宮本の物言いになんとなく安心する。

 冴子は少しだけ息を整えた。

「宮本、命令があります」

「ほう、ほう。『命令』と来たか。どうした。らしくない。まるで昔みたいじゃないか」

「しばらく、ロクに変わって私が指揮を取ろうと思います」


 冴子は、ストンとお腹のそこに何かが落ち着く感覚がした。

 これは覚悟なのかもしれない、もしくは後悔なのかもしれない。

 ロクを最高意思決定顧問に指名したのは数年前、それ以来、私は第五世代の最適解として政府の意思決定に直接かかわることを避けてきた。

 わずか十歳にして、あらゆる素体よりも優れた能力を発揮したロクに全てを託したのは確かに合理的な判断だったのかもしれない。事実、ロクは数多くの実績を上げてきた。

 しかし、その結果が今のこの状態でもあるのだ。

 十歳だったロクに、二ィとサンの殺害を立案させ、責任を押し付ける。それが私のしたことなのだろう。

 それなのに、私は、

 忠人さんのようにロクを叱ってやることすら出来なかったのね。

 

「宮本、ロクを探してください。それに二ィについても、早急に対処する必要があります。忠人さんが彼に誘拐されました」

「おいおい、どうなってやがる」

「順を追ってお話しします。手は打ってあります。忠人さんには発信機を飲み込ませましたから」

「……どうやら、ただ事じゃあ、ねぇようだな。グランドマザー」



 グランドマザーか、宮本にコードネームで呼ばれるのは本当に久しぶりだ。

 宮本に状況を説明しながらも、頭は今後の対策について整理をする。

 ロクについては問題ないだろう。あの子はしっかりした子だ。自分できっと立ち直って、またいつもの通りみんなを導いてくれると信じている。問題があるとすれば、それはロクが立ち直る時間だけだ。

 忠人さんのほうが深刻ではある。

 二ィが忠人さんを連れ去った理由は不安定だ。次の行動を想定することは不可能に近い。

 放置してしまえば忠人さんの身に危険が及ぶかもしれない。あの人は簡単にやられるような人ではないが、しかし、簡単に騙されてしまうような迂闊さがある。

 咄嗟の口づけで忠人さんに飲み込ませた発信機は受信型だ。こちらからの応答リクエストを送信しない限りGPS情報を発信したりはしない。金属探知機での検査でもされない限り、二ィに気づかれることはない。


「……なるほど、しかし、まぁ。旦那も大変なことだ」

「まさか二ィとこれほど早く接触することになるとは、想定外でした」

「まぁ、なんというか、旦那らしいと言えば、そうなんだがな」

「宮本、現状のGOAの戦力は?」

「即応は六部隊だ。中国マフィア程度であれば問題ない。後、ロクに言われて諜報班を二班、すでに展開済みだ。実は数名のマフィアの構成員を、下っ端だけどな、確保済みだ」


 状況の進捗は可及的速やかであると言える。

 二ィの出現をロクが黒条百合華から聞き、まだ六時間しか経っていない。すでに二ィに対する包囲網は形成されつつある。これはロクの判断とGOAの実行力が為せる技だ。

 問題は二ィがこの状況をどれだけ読み込んでいるか、だ。

 二ィは第七世代における総合的な能力テストで二番目だった。そのポテンシャルは私を優に超える。

 そんな彼がこの状況に対して対策を施していないわけがない。

 そして、その上で、彼は忠人さんを誘拐するという、何のアドバンテージもない行動をしたのだ。それが不可解で不気味だった。

 思わず頭を抱えてしまいたくなる。ここにロクが要れば二ィに対抗できるのに。


「宮本、ロクの捜索をお願いできますか?」

「構わんが、しかし、ロクが家出か。なんだか信じられないな」

「家出……、そうですね、なるほど。これは家出ですか」

「親父に叱られて、家を飛び出したんだ。こいつは古典的な家出ってやつだ」


 国家の大難を目の前に、最高意思決定顧問が家出をする。

 それが無責任であることは当然ではある。しかし、十三歳の子供が家出をすることが無責任であると断じることも、やはり無責任なのだろう。

 そう言った、当然のことさえ、私は知らなかったのだ。


「宮本、私たちはロクを探すべきなのでしょうか?」


 判断がつかなくなって、宮本に聞いてしまった。

 この男は複雑な思考に特化した遺伝子調整はされてないが、こういった状況では不思議と頼りに思う。


「当然、探すべきだろう。それが家出ってもんだ」

「……そう、なんですね」


 なぜか納得してしまう。


「ああ」

「では、お願いします」

「まかせとけ」


 宮本はそう請け負うと、電話を切った。

 ふぅと音を立てて深いため息をつく。

 がらんとしたリビングが不安な気持ちを煽ってくる。次に何をすべきだろうか。状況を見極めるべきか、先手を打つべきか。

 どちらにせよ、あの二ィを相手に一定の賭けをする必要はある。


 ふと、妙なアイデアが浮かんだ。

 それは通常の思考ではあり得ないと思われるアイデアではあるが、しかし、二ィを出し抜くためには素直な思考では不可能なのかもしれない。

 なぜなら、彼女はあのロクも認める謀略家なのだ。


 手にした携帯端末をじっと見てしばらく悩む。本当に意味はあるのか、しかし、あの彼女が忠人さんを放っておくわけがない。

 曖昧な判断ではあるが、意を決して電話をかけることにした。


 トルルゥ、トルルゥ……と鳴らした電話の呼び出し音が長く感じられた。


「はい、黒条ですわ。夜半遅くにお電話頂けて嬉しいわ。布津野の奥様」


 鼓膜に絡みつくような険のある声色。

 その含みのある言い方に気が付かないほど、私は鈍感ではない。


「お久しぶりです。黒条会長」

「お久しぶりですわ。マリモ好きの冴子さん」


 彼女、黒条百合華が私に好意を持っていないことは良く知っているつもりだった。もしかしたら彼女の助けを請うというアイデアは失敗だったのかもしれない。

 言葉に窮している間に百合華さんの声が割り込む。


「何用でございますか? 貴方が私に電話してくるなんて、初めてかしら」

「そう、でした。貴方ほどの重要人物とのコンタクトを怠ってしまい申し訳ありません」

「あら、そういう事を言っているわけではないのよ。私は単純に驚いただけ。憎き恋敵からの電話は、思った以上に不快ではない、とね」


 ああ、この人はこういう人だったな。

 前後の脈絡のない曖昧なものの言い方を好む割に、自分の意図や想いをハッキリと突き刺すように伝えてくる。

 最後に彼女と話したのは、たしか赤羽組を襲撃した時だったかしら。

 本当に、久しぶりだ。


「助けてほしいことがありまして、」

「あら、素敵なご用件ね」

「貴方ならば、この状況、どうにかできるではないかと思いまして」

「それは、まぁ、随分と買いかぶられたものね。人に頼られるのは嫌いじゃないけど、具体的な説明が必要よね。お金かしら? 資金かしら? それとも人材かしら?」

「忠人さんが、貴方が教えてくださった白髪の少年に誘拐されました」


 受話器の向こうに、しばらく無言が居座っていた。

 返事をじっと待つ。ロクも認めるほどに優秀な彼女はこの状況をどう打破するのだろうか。


「……それで、冴子さん。貴方はどうなさるおつもり?」


 しかし、初めに返ってきたのは答えではなく質問だった。

 私はどうすべきなのだろう。それを彼女に聞くために電話をしたのだ。


「まさか、貴方は私に頼りに来たのではないでしょうね」


 彼女の声色が硬くなり、声色に明らかな不快感が露わになる。


「……いけませんか」

「いえ、いいえ。いけないわけではないわ。当然よ。でも少し、正直なところ、率直に申し上げまして、目眩がしたわ。卒倒してしまいそうよ。まさか、この私からあに様を奪った女が、この程度の女だったなんて衝撃。沸き上がる自己嫌悪に血液が蒸発してしまいそうよ」


 それは明確な批判だったが、不思議に腹が立たなかった。

 それは全くをもって正当な指摘なのかもしれない。

 彼女はこう言っているのだ。忠人さんを救うべきはお前なのではないか、と。

 あきれ果てた怒りを含む声が鼓膜を刺してくる。


「冴子さん、貴方が出来ないのであれば、わたくしが兄様を助けますわ。ご安心くださいませ。この身を走り荒れ狂う自己嫌悪は、黒条のシマでなめ腐ったことした中国のチンピラども相手に八つ当たりでもして冷ましてあげましょう。せっかくだから、兄様はそのまま、私が貰ってしまいますわね」

「お待ちください、こちらもGOAを出動させま……」

「必要ありませんわ。腑抜けた女に率いられた政府の狗なぞ、臭くて耐えられません」


 ガチャ、と電話が切れた。

 しん、と体温が凍るような錯覚とともに思考が走す。


 そうだ。忠人さんを救うのは私なのだ。

 断じて黒条百合華などではない。


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