[2-07]サンプル02番の二ィ
布津野忠人と二ィの邂逅は、ロクと宮本が二ィ出現の対策を練っている時と重なる。
それはGOAでの定期講習を終えた帰り道で、自宅からほんの数百メートルの路地だった。
午後八時くらいの暗がりの中、布津野は人の気配が薄くなったその路地をいつものようにブラブラと歩きながら、思いを巡らせていた。
今日はロクもナナも冴子さんも帰りが遅いらしい。
晩御飯はどうしようかな。三人は晩御飯はいるのかな?
一人だけなら久しぶりにカップラーメンなんかも乙だよなぁ。いかにも体に悪そうなヤツを食べたい。でも、きっとロクや冴子さんがあまり良い顔をしないだろう。
何か作りおきが出来そうものを用意しておくのがベストなんだろう。簡単なものがいい。あまり料理得意じゃないし。
ふむ、カレーかシチューか……この究極の二択に絞られた。
カレーは先週も作ってしまったが、しかし、シチューはあまり得意ではない。前回は具材を痛めすぎてホワイトシチューが茶色く濁ってしまった。玉ねぎを良く炒めたら甘味が出ると聞いて、念入りに炒めたらやり過ぎたのだ。
焦げた匂いがついてしまい、味は普通だった。
――そうか! ビーフシチューという手もある。
布津野は思い付いた名案に気分が良くなり顔を上げた。
すると目の前に、白い髪をした背が高い少年がこちらをじっと見ていることに気が付いた。
布津野はその姿があまりにも見慣れたものと似通っていたので思わず、
「あれ、ロク? 今日は遅くなるんじゃぁ」と声をかけた。
「俺はロクじゃないぜ」
その少年は、そう言って笑った。
なるほど、よく見るとロクとは顔立ちも声も違う。
しかし、ロクとナナと同じ白い髪に赤い瞳、なにより完璧なほどに整ったその容貌は、彼が二人と無関係であるわけがないと、布津野はそう思った。
「あれ、ああ、もしかして、ロクの友達かい?」
「友達? ……どうだろうね」
少年は笑いを複雑にゆがめた。
「珍しいね」と布津野は口をついた。
「珍しい?」
「珍しいよ。その髪と目。君はロクやナナと同じなのかい?」
「さて、まぁ。少なくとも似たようなものかな」
少年はそう言って肩をすくめてみせる。
その彼の曖昧な答えは当然なのかもしれない。品種改良素体の存在は極秘なのだと、ロクからよく聞かされている。
「それにしても、ロクやナナと同じような子がこんなところにいるなんてね。知らなかったよ」
「まぁ、偶然だ」
「偶然?」
「ああ、偶然の成り行き任せの結果論。結局、出会ったのは貴方だった」
少年はすぅと目を細めた。
「ちょうど考え事をしていたんだ。目的は曖昧で良く分からなくて、とりあえず飛び込んでみたんだけど、どうやら溺れてしまったみたいだ。気が付いたらここに流れ着いた。そんな感じ」
「へぇ、君たちみたいな優秀な人でも悩むことなんてあるんだね」
きっと自分には想像もつかないことだろうね、と布津野はハハッと笑う。
そんな布津野に向かって、少年は一歩近づいた。
「貴方が布津野忠人さん?」
「ん、ああ、そうだよ」
「ロクのお父さん?」
「そうだね、一応」
「ふーん」
と少年は布津野の顔を覗き込んだ。
その赤い宝石のような瞳はロクとナナのように美しかったが、どことなく陰りを感じる。もしかしたら、辺りが暗くて良く見なかったせいなのかもしれない。
「さて漂着した先はなんと言うか、一見、拍子抜けするほどに普通。が、しかし、この偶然に意味を持たせるのは俺の役割、か」
「ん、どうかしたかい?」
「いや、独り言」
少年は曖昧に笑う。まるで遊園地で友達とはぐれてしまったかのように。
「俺はやはり迷っていて、悩んでいて、溺れているんだ。俺はロクと同じで13歳になる。それってそういった気分になりがちな時期だろ。だから、このまましばらく成り行き任せも悪くない、そう思っているんだ」
何やら小難しいことを言っているなぁ。
とは言え、しょせん13歳の子供が言うことだ、と軽視することは出来ない。彼らは普通の13歳ではないのだ。そんな彼が思い悩むのであれば、それは相当に重要なことなんだろう。
「君たちの考えることは僕にはどうにも難しすぎるよ」
「もしかしたら、考えないほうが良いのかもしれない。感情的に、衝動的に、目につくもの全てに当たり散らかすと気分が晴れるのかも。それこそ十代のいわゆる危険な若者のように」
「なにやら物騒だなぁ」
「壊してしまってから後悔なんてしてみるのも、悪くないのかもしれない」
少年はじっとこちらを見ている。
その目は言葉と裏腹に何の感情的なものを読み取ることが出来ない。一体、彼はこんな夜遅くに外に出て歩いて何をしているのだろうか?
「もう遅いよ、家は?」
「家か……」
「そう、家さ。君が帰るところ」
「帰る? どこに?」
「どこにって……、みんなのところだよ」
「みんなとは何だ? 貴方の言うみんなは随分と曖昧だ」
むぅと布津野は唸った。なんだか面倒臭い感じが否めない。
どう答えたものかと頭を捻ると、ぽっと浮かんだイメージをそのまま口に出す。
「ん~、僕にとってはロクとナナと冴子さんだね」
少年は、そうか、と頷いた。まるで何か大切なことに今しがた気が付いたように。
「ああ、そうか、ロクには家族がいるんだな」
「ん」
「俺には、いない」
「家族がいない……」
それは、改良素体にとっては普通なのかもしれない。
ロクとナナが僕の家族になったことは、あまり一般的なことではないと冴子さんから聞いたことがある。
「陳腐だが、もしかしたらそれが決定的なのかも知れない」
少年はそう言って、また何やら考え込みだした。
さっきからロク、ロクと妙にロクを意識しているようだ。
「もしかして、ロクに何か相談かい?」
「ロクに相談……」
少年は、今度はぽかんと口を開ける。
「それは、
「ちょくさい? 何それ?」
「直截、は直接と同じ。ちょくせつ、と読んでも良い」
「じゃあ、直接的と言えばいいじゃないか」
「しかし、俺の率直な感想は、
そうか、違うのであればしょうがない、のかな?
「でも、相手が理解出来なければ意味がないじゃないか」
「その場合は、理解出来ない相手が悪いという考えもある」
「ひどいなぁ」
「それに、俺は迷っているんだ」
「何に?」
「それが何か分からないから、悩んでいるんだ」
少年は寂しそうに笑った。
本当にロクに似ている。
独特な外見や背格好、歳も同じくらい、何より理屈っぽいところが一緒だ。強いて違いを言うなれば、ロクは理系ぽくて、彼は文系ぽい。
やれやれ、あまり理屈は苦手なんだ。お腹が空いてきたよ。
「ご飯は食べたのかい?」
「ん」と少年は首を傾げた。
「晩御飯」
「食べてないな」
「なら、僕の家で食べていくかい?」
「家で……」
「もしかしたら、ロクも帰ってくるかもしれない。今日は遅くなるそうだから保証できないけど」
「ロクの家で、俺が夕食か」
少年の表情は呆然と硬直していたが、やがて、にんまりと剥がれ落ちるように崩れた。
「それはすごく良い」
どうやら彼も腹を減らしていたらしい。なんだかとても嬉しそうだ。
「ロクの家で、夕食を食べながらロクを待つ。最高だ。ロクに会うのにそこ以上の場所はない。それ以上のタイミングもないのかも知れない」
「そうかい、じゃあ決まりだね。ところで」
何やら興奮しているこの謎の少年に対して、確認しておかなければならないことがある。
「君について聞かねばならないことがあったんだ」
「なんですか」
と少年の顔が少しこわばった。
「カレーとビーフシチュー、どっちがいい?」
「……個人的にはカレーですね」
「そうか、鉄板だな」と布津野は力強く頷いた。
二人はその後、一緒に玉ねぎと人参とジャガイモと牛肉とカレーのルゥを近くのスーパーで買って、家に帰った。
布津野は牛肉がタイムセールで3割引きだったので、とても嬉しかった。
◇
「ルゥを複数の種類混ぜると旨くなるというのは本当だったんだなぁ。君の言う通りにして間違いなかったよ」
カレーライスを頬張りながら、布津野は関心した。
「別にルゥだけが工夫したところではないですがね」
と少年は笑って答える。
二人は自宅のリビングで向かい合うように座って出来たばかりのカレーを食べていた。
とても旨い、と布津野は思う。これほどに旨いのは初めてかもしれない。もしかしたら冴子さんのカレーを超えたのかもしれない。
この少年と一緒に家に帰って、早速カレーを作ろうとした。
はじめは自分一人だけで作ろうとしたのだ。しかし、手持ち無沙汰に耐えかねたのか、彼から手伝いの申し出があったのだ。
残念ながらこの布津野忠人。幼いころからのずっと未調整をやっていたので、自分一人で何かを成し遂げた経験に乏しい。
ゆえに、差し伸べられる手には全力ですがるのがこちらのモットー。例えそれがお客さんだとしても気おくれすることはほとんどない。
ましてや、苦手な料理だ。しかも、この出来上がったものは家族全員で消化しきらないといけないのだ。これは自分だけの問題ではない。
ゆえに、その申し出を恥ずかしげもなく快諾して、全工程の七割近くを少年に託した末に出来上がったカレーライスは、極上であった。
旨い。口に入れた瞬間、辛さと甘さが複雑に絡み合って……なんだかよく分からないけど、とりあえず旨い!
いやはや、やはり品種改良素体は何でも出来るんだなぁ。ロクだけじゃないんだなぁ。
「そう言えば」
「どうしました?」と少年はスプーンを止める。
「君の名前は?」
「ニィ、です」
と名乗った少年は、なぜか驚いた様子で自分の口に手を当てた。まるで、うっかりと口を滑らせてしまったように。
布津野は彼らの存在が極秘であることを思い出す。
「気にしなくても大丈夫だよ。品種改良素体についてはロクから聞かされているからね」
そう笑いかけて、カレーを咀嚼する。
「え~と、二ィ、君かな? ああ、もしかして二番の人?」
「二番? ……ああ、そう言うことですか。ええ、二番目です。サンプル02です」
「じゃあ、ロクのお兄さんなんだね」
「え?」
ニィと名乗った少年は、目を見開いて咀嚼を止めた。
「あれ? 違うのかい。ロクは六番の改良素体で、君は二番なんだろ? だからお兄さんだ」
「ああ、なるほど。そういう考え方ですか」
ニィは結び目がほどけるように笑う。
「布津野さんは不思議な人ですね」
「そうかい?」
「ええ、そうか。なるほど、貴方がロクの父親ですか」
「どうだろうねぇ。父親らしいことなんて、全然」
「もしかしたら、貴方だからこそ、かもしれませんよ」
二ィはそう言うと、カレーを口に入れて曖昧に笑う。
カレーは本当に美味しい。
ロクとナナは自分のお兄さんが作ったカレーだと知ると、一体どんな顔をするのだろうか。なんだかとても楽しみになってくる。
はやく、みんな帰ってこないだろうか。
「ロクはいつも一番でした」とニィは思い出したように言う。
「へぇ~。やっぱりそうなんだ。なんだろ、最適解ってやつ?」
「ええ、そうです。ロクは最適解だった。俺は二番目、いつもロクの次でした」
「そう」
二番目か……正直、うらやましい。
ニィ君の浮かない顔を見ると、二番目だった自分に対して不満があるようだが、こちらとしては幼いころからずっと未調整だった身だ。
二番目どころかいつも最下位のドベで、ブービーすら叶わぬ夢だった。
「別にロクに勝てなかったことを、気にしているわけではないですよ」
「あ、そうなの?」
と、心を読まれてしまったようだ。
「ただ、不思議なんですよ」
「不思議?」
「ええ、不可思議で、どうも理解出来ないんです」
「それは納得いかないってこと?」
「納得、か」
二ィ君は、初めて納得という言葉を聞いたかのように、納得、納得と何度もつぶやく。
「納得、はしているつもり。でもとても苦しいんだ」
青春かな~、と思ったが口にはしなかった。大体、二ィ君やロクやナナのような子たちの青春って、どんなのだろう?
「ナナは元気ですか?」
二ィは話題を変えてきた。
そう言えば、二ィはロクのことばかりでナナのことはあまり話さなかった。
「元気だよ」
「そうですか、それも僕とは違う」
ニィは天井を見上げた。
「違う?」
「ええ、ロクと俺は色々違う。けど、それが特に重要な違いだと思うんです」
「ナナが、かい?」
「いいえ、サンが、です」
「サン?」
「貴方の表現を借りるなら、僕の妹のことです」
サン、妹?
「分かりませんか、サンです。サンプルナンバー03のサン」
「ああ、なるほど」
「もう彼女はいません」
突然、二ィの声が虚ろに聞こえたことにひどく戸惑った。
「死にました。殺されたんです」
絶句が布津野の口の中に広がる。
分かりやすいはずのその発言の意味は、なかなか理解に追いついてこなかった。
やがて追いついてきた後は、すぅと胸にしみ込むようだった。
それは、それはきっと、とても悲しいことだ。どうしようもないくらいに、やるせないことなんだろう。目の前の二ィ君はそれでとても参ってしまっているのだろう。
例えばもし、ナナがいなくなってしまったら、僕はきっとダメだろうなぁ。もしナナが死んでしまったら……想像しただけで泣いてしまいそうになる。
「貴方は、本当に良い人ですね」
「えっ」
「泣いていますよ」
「あっ」
慌てて、袖で目をこする。
三十を超えたいい大人が、これは恥ずかしい。
「そのなんて言うか、なんにも言うことは分からないけど、その……」
「いいですよ。こちらこそ、こんな話をしてすみません」
「いや、うん。ごめん」
ふふっ、とわずかに声をこらえてニィは笑った。
どうやら情けない奴だと思われてしまったに違いない。ロクにいつもそう言われる。
「ねぇ、布津野さん」
「ん」
なかなか涙が止まらない。やだなぁ、歳をとると涙腺がゆるくなって、もう。
「ロクも悲しんだでしょうか?」
「えっ」
「サンが死んだとき、ロクも悲しんだと思いますか? 今の貴方のように」
「それは、当然、」
悲しかったに決まっている。
そう言いかけた時、ふと昔のことを思い出した。
ロクに初めて出会った時、彼は作戦の成否と自分の命を冷静に天秤にかけていた。自分が死んでも致命的な損失にはならない。品種改良素体にはクローン体がある。
彼はそう言って、ナナと危険な囮役を自ら引き受けたのだ。
「ただいま」「お父さんただいま」
とその時、ロクとナナの声が玄関からした。
二ィの目がすぅと細くなり表情が張り付いた。それを横目で見流して、二人の声がしたほうに振り向く。
「ロク、ナナ、お帰りなさい」
布津野はそう言いながら玄関に向かう。そこには冴子も含めて三人が帰ってきたところだった。
「あれ、誰か来ているのですか?」とロクが玄関にある二ィ君の靴を見付けて言う。
「本当だ、誰?」とナナも興味深々だ。
「二人の友達だよ」
「友達?」
ナナが首を傾げる。
「ああ、確か二ィ君と言ったな」
「はぃ?」
ロクが目を見開いて、まるで珍しい虫をみるような目で僕を見た。
「忠人さん、確かに二ィなのですか?」
と冴子さんが引き継いだ。
「ん、多分」
冴子さんは綺麗な顔立ちを怪訝にゆがめる。
「彼の外見は?」
「ああ、白い髪をした……」
突然、ロクが駆け出して布津野を横にはねのけた。
廊下を二足で駆け抜け、リビング扉をまるで打ち壊さんばかりに勢いよく開いた。
「馬鹿、な……」とロクが凍り付いた。
二ィは変わらずリビングのテーブルでカレーを食べていた。まるでそこが自分の家であるかのように平然と、そしてまるで来客を出迎えるようにロクに向かって笑いかけた。
「やぁ、久しぶり。座りなよ」
「二ィ、なのか?」
「別の者に見えるのか? 興味があるな、ロク、俺が二ィでないなら何に見える?」
「馬鹿な、なぜ、二ィがここにいる」
けらけら、と二ィはとても愉快そうに笑った。まるでピエロの道化劇を鑑賞するようにロクを見る。
「落ち着けよロク。最適解の名が泣くぜ。まぁ、カレーでも食おうぜ。俺と布津野さんで作ったんだ」
「父さんと?」
ロクは見開いた目をキッと強めて僕のほうを振り向いた。やばい、これは怒っている。
「また、父さんですか!」
「え、あれ、なんか、その、ごめん?」
どうやら、また何かやらかしてしまったらしい。
ロクに怒られることは珍しいことではないが、この様子は不味いやつだ。
「どうして、父さんはいつも僕が慎重に事を進めている時に、こんなことになっているのですか!?」
「ああ、え~と、その」
どう、説明したものだろうか?
とりあえず落ち着こう、下手な返事を許してもらえそうにない。大体、どうして自分がロクを怒らせてしまったのかもまったく分からない。さっきはクセで反射的に誤ってしまった。
こういう時は、事実をありのままに告げるしかない。ありのままに告げてもどうにもならないかもしれないけど……。
「実は、家に帰っている途中で二ィ君と会って、カレーを買って、家で一緒に作って、食べていたんだ」
「そんなことは聞いてません!」
えぇ、そうですよね。
どうしよう。そう言われても、これ以上に説明する内容なんてどこにもない。
助けを求めるように、冴子さんのほうを振り向いた。
冴子さんは、残念ながらこちらもロクほどではないが緊張した面持ちで二ィ君をじっと見ている。
一体、二ィ君が何をしたというのだろうか?
冴子さんはやがて、僕の助けを懇願する目線に気が付いて、ふぅとため息をついてロクに声をかけた。
「ロク、忠人さんを問い詰めている場合ではありません」
「でも、グランマ」
「落ち着いてください。今、重要なのは目の前にいる二ィの存在であって、二ィを連れてきた忠人さんではないはずです」
「……そう、ですね」
ロクは奥歯で虫を噛み潰したような苦い顔をしながら、くるりと二ィのほうを振り向いた。どうやらひとまず助かったらしい。
それにしても、この部屋中に張り詰めている緊張感は一体どういうことだろう? もしかしたら二ィ君はとんでもない問題児なのだろうか?
「どうした、ロク。カレー食べないのか?」
と、その問題児は笑いながらカレーを食べている。
「二ィ、質問がある」
「座れよ。三年ぶりの再会だ」
「質問だ」
そう問い詰めるロクの姿を、二ィはあきれた様子で見上げる。
「ロク、その質問は沢山あるんだろう? 場合によっては無限に膨らむ可能性もある。そして、俺にも質問がある。だが、こちらは数個しかない。利害が一致しているが偏っている。とりあえず、座ってカレーを食べたほうが良い」
「二ィ、お前をここで拘束するという選択肢を僕は持っている」
ロクがわずかに重心を落とした。すぐにでも飛び掛かることが出来る構えだ。
なんだか剣呑だ。あまり好きな雰囲気ではない。二人はあまり仲良くないのかもしれない。少なくともロクは二ィ君のことを警戒しているようだ。
二ィ君はしかし、ロクとは違い平然としている。
「好きな時にいつでもこいよ。でも、今、重要なことはカレーだ。布津野さんと俺が一生懸命作ったもので、とても旨い」
「……」
ロクは二ィを見下ろしたまま、しばらく考え込んでいた。しかし、やがて二ィの向いの席に腰をかける。
睨み付けるロクの視線と、伺うような二ィの視線がテーブルの上で交錯する。
「向いの位置か」と二ィがこぼす。
「それがどうかしたのか」とロク。
「いい位置だ。適切で最適な、正解と表現したくなるような位置だ。ロクらしい」
「二ィ、」
「ちなみに、布津野さんは僕の隣でカレーを食べた」
「それが何の関係がある?」
「さて、とりあえず、まずはカレーだな。布津野さん」
といきなり呼ばれたので驚いた。
「なんだい」
「俺、カレーをおかわりいいですか?」
「ん、もちろん。ニィ君が作ったものだしね」
そうだ、せっかく美味しくできたのだから二ィ君がいうようにみんなで一緒に食べるべきだ。
どうやらロクと二ィ君は仲が悪いようだが、それはこれから時間をかけてなんとかなるだろう。
「ナナも食べようよ」逃げる様にナナに声をかける。
「うん、お父さん、私も手伝うよ」とナナがすり寄ってくる。
ああ、ナナは良い子だなぁ。
「冴子さんは食べます?」
冴子さんは細い指を下あごにあてて思案しながらロクと二ィ君の様子を見ていたが、こちらをちらりと見ると、小さく「頂きます」と言った。
「ロクは、カレーいるかい?」
キッと部屋を真っ二つに寸断せんばかりの鋭い視線でロクに睨まれる。ロクは怖い子だなぁ。
「ほら、君のお父さんもこう言っているじゃないか。ディナーミーティングとしようぜ」
と二ィ君は我が意を得たりとご機嫌だ。
「……頂きましょう」
ロクは頭痛を絞り出すようにそう答えた。
◇
そこにいる全員にカレーが行き渡った。
リビングにスパイシーな匂いが立ち込めている。
そこで、五人は食卓を囲っていた。
布津野忠人を起点に時計回りにナナ、ロク、冴子、二ィの順番に席についている。
その団らんのためのスペースには今、緊張が張り詰めていた。
ロクは目の前にあるカレーを食べようとはせず、この現状を見定めようとしていた。
油断ならぬ事態であり、異常な状況であり、滑稽な展開でもあった。
原因は明らかで向いに座ってニヤニヤと笑っている二ィと名乗る少年だ。そしてこの状況を作り出した真犯人は明白で、二ィの隣に座っている自分の父親である。
なぜ、二ィの隣に父さんが座っているんだ。と突っ込みたくなる。
まともな思考能力があるのであれば、この状況が只ならぬもので、その原因が二ィにあることを推して図ることは容易であるはずだ。
それなのに、その隣に平気で座って、いつものような、ぼぅとした顔をして、あまつさえカレーなんて食べている神経が、ロクにとっては理解不能だった。
しかし、これは……
冷静になってみれば、非常に都合が良い席の配置だ。理想的とすら言えるかもしれない。
ロク自身は二ィの正面に位置し、彼を十分に観察することが出来る。
万が一、二ィが何らかの実力行使に出た場合、ナナを人質に取ることが想定されるが、ナナと二ィの間には父さんがいる。ゆえにナナは絶対に安全だ。
そして、そのナナだ。
人間性を見極める異能の目をもったナナがここにいる。
二ィの出現という最重要課題を見極める上で、これ以上にないほどの有利な状況と言える。
これは父さんに感謝すべきなのだろうか? いや、あの父さんがそんな事まで考えているはずなんてない。
とにかく、この状況でやるべきことは一つだ。
ナナに二ィの人間性を聞くだけだ。
こちらに敵意があるなら拘束する。ないのであれば、中国政府に誘拐された後、どうして今ここにいるのかを聞き出す。
ロクがナナに声をかけようとした矢先に、
「ナナ、久しぶりだな」と二ィがそれを遮った。
「うん、二ィもね」
ナナは不思議そうな顔をして二ィを見ている。
「実はナナに教えて欲しいことがあるんだ」
二ィは前のめりになって、ナナを覗き込む。
ロクは思わず立ち上がって身構えた。
二ィはナナの能力を知っている。何か大胆な行動を起こす可能性はある。
「なぁに?」
「俺の
ロクは顔をしかめた。どういうことだ。
二ィにとって、ナナに視られることは不利な要素しかないはずだ。ナナの異能は相手の敵意を見抜く。
それとも、これはニィからの意思表示なのかもしれない。こちらと敵対するつもりはない、と。
「二ィの色? う~ん、青色だよ。基本的に昔と同じ」
「へぇ、昔とまったく同じかい?」
「ううん、前とはだいぶ違う」
「どんな風にだい? 詳しく教えて欲しいんだ。ほら、ロクも知りたがっている」
ニィはこちらに視線を流しながら、そう言った。
ロクは、本当にこいつはどういうつもりなのだろうか、と怪しんだ。
三年前に中国政府に誘拐され、今は中国系マフィアに出入りしている二ィが単純にこちらの味方である可能性は低い。二ィにとって自分自身の人間性という情報を日本政府に提供することは、例え敵意を持たないにせよ不都合であるはずだ。
状況がメチャクチャな上に、二ィの行動は合理性と一貫性に欠けている。ひどく見通しが立てづらい。
これも全部、父さんのせいだ。
ナナはロクと二ィを見比べた。
「ん、そうだね。二ィは昔に比べて色の真ん中に濁りが出てきているよ。全体的にも色が深くなってまるで海の色みたい。昔はロクと同じような空みたいな色だったのにね」
「俺の色は変わった、か」
「うん」
「昔はロクと同じだった、けど」
「うん、同じ青だけど、今は違う青」
そうか、と二ィは嬉しそうに口の端から笑いをこぼした。
「そうか、そうか、思った以上に愉快だ。ところでナナ」
「なに?」
「俺のその変わってしまった色は、嫌な感じはするかい? これは正直に答えて欲しい。みんなにとって、俺にも重要なことなんだ。ほら、ロクなんか物凄い顔でこっちを睨んでいるだろう?」
二ィはこぼしていた笑いを止めて、真剣な表情に改めた。
「俺は、ナナにとって、ワルイ人に見えるか?」
ロクは腰を下ろして席についた。
布津野を覗く全員が固唾を呑んでナナを見ていた。
しかし、ナナはさらりと答える。
「見えないよ」
ナナは二ィから布津野へと視線を移動する。
「だって、二ィの色はお父さんの色に少し似ているもの」
「布津野さん、に?」
「うん、お父さんの黒く濁った抹茶色。二ィの濁りだした青色はお父さんの色に少し似ている」
「濁っていると、ワルイ人ではないのか?」
「ん~、良く分かんない。嫌な感じはしないよ」
「そうか、俺は濁っているのか。布津野さんと一緒か」
二ィはどこか放心したように呟いた。
「あ、でも、お父さんのほうがず~っと濁ってるからね」
ナナは念を押すようにそう言い添えた。
布津野はそれを横で聞いていて、悲しくなった。僕の色はそんなに濁っているのか……。
年頃の娘にそう言われると傷ついてしまう。その濁りはお風呂で洗えば取れるのだろうか。
「つまり、二ィは僕らの敵ではない、と」とロクが慎重に問いかける。
「どうなのかな、私には分からないよ。私がそう感じているだけ、二ィの色は嫌いじゃない。でも不安な気持ちになる」
ナナはそう言って、布津野の椅子をよせて布津野のそばに寄り添った。
「どうしてだろう、お父さんのような綺麗な濁り方にまだなってないの。濁りが染み出し始めた感じ」
布津野は、自分の濁った色を綺麗と呼んでくれるナナの優しさに感謝した。
「敵か、随分と警戒されたものだ」
二ィは改めてロクを見る。
「それは当然だろう」
「なぜそう思う?」
「なぜ中国政府に誘拐されたはずのお前が、自由な身でここにいる」
「それは布津野さんに招かれたからだろ」
「はぐらかすな。二ィ、今のお前は一体、何者なんだ」
ロクの睨みつけるような視線を、二ィはあざ笑いながら正面から受け止めた。
「お前は何者か、容易に答えるべきではない質問だ。ならばこちらからも聞かせてもらおう。ロク、お前こそ一体何者なんだ?」
「日本内閣府、最高意思決定顧問。第七世代品種改良素体のサンプル06番。ロクだ」
「そうか」
二ィは目を閉じた。
「ロク、お前はつまらない奴だ」とため息をこぼす。
「答えろ。二ィ」
二ィはもう一つ、大きなため息をついた。
「分かった。お前が望んだ解答をしてやろう。俺は中国共産党人民解放軍特務少尉。第七世代品種改良素体のサンプル02番の二ィ。どうだ、これで満足か?」
うんざりとした様子で二ィはロクを眺める。
「やはり、中国政府の者か」
「なにが、やはり、だ。俺には
「詭弁だ。お前は今や中国政府の人間であることは事実だ」
「布津野さんは、俺のことをお前の兄と呼んだ」
まるで分からず屋の弟を諭すように、二ィはそう問いかけた。
「それだって、事実だっただろ。みんなで旨いカレーを食べることだって出来たはずだ」
「改良素体に兄弟という概念は存在しない」
だが、ロクは叩き付けるように言い放つ。
「相変わらずだな。安易な正論で可能性を潰すのは、」
二ィは寂しそうに一瞬笑って、表情を消した。
その目は、布津野が初めて会ったばかりの彼と同じ虚ろな目だった。
「そうだ、お前はいつもそうだ……。そうやって今回も、お前は壊して居直っている。自分だけが正しい言いながら」
「何のことだ」
「確かめるまでもなかった。でも会って改めて確信した。俺は迷っていたんだ」
「答えろ。中国政府の目的は何だ」
「でもようやくだ。自分のやるべき事という曖昧な塊が今、確実な形を為そうとしている。もしかしたらそれを言葉にすることだって、出来るかもしない」
二ィは両手で自分の耳をふさぎ、目を閉じた。
周りの情報を遮断し何か集中するように深呼吸を一つゆっくりと吐いた。
「ロク」
再び開かれた二ィの目は、ロクのそれ以上に鋭い眼光を放っていた。
「俺の質問に答えろ」
「……なんだ」
ロクも負けじと、二ィを睨み返す。
「サンを殺せと命じたのはお前か?」
二ィの言葉が駆け抜けた後、沈黙が立ち込める。
その沈黙を深めるように、二ィが言葉を追い打った。
「三年前のあの時、GOAを船に潜入させて俺とサンを殺せと命じたのはお前か?」
ロクは答えない。
彼の端正な顔に、硬直した表情が張り付いた。
「攫われた品種改良素体を、生死を問わず奪還しろと命じたのは、ロク、お前か?」
二ィは声を裂いて叫んだ。
「サンは俺の目の前で死んだ! 助けに来たはずのGOAに射殺された! 今でも鼓膜に張り付いて疼いてやがる。『救出は無理だ。殺せ』。知っているかロク、人は撃たれてもすぐに死なない。サンもそうだった。奴らは念入りに転がって動けずにいるサンを何度も撃った。跳ねてちぎれ飛ぶサンの姿を、お前は知っているか!」
二ィのその叫びを前にして、ロクは無言だった。
二ィは急に声を落として、ロクに小さな声で語りかけた。
「……どうだ?」
それはまるで呟くような、小さな問い。
ロクは目を閉じた。
「どうした、ロク? これは質問だ。イエスかノー、単純で明快な二項選択だ。得意だろ?」
広いリビングには、息のつまるような沈黙で張り詰めていた。
皆がロクを見ていた。
ロクは、ゆっくりと目を開いた。
「……イエスだ」
その後は、重々しい沈黙が降りてきて、まるで深海にいるかのような息苦しさに締め付けられそうになった。
「……そうか」
二ィはまるで重荷を下ろすような深いため息をつき、椅子にもたれかかった。
「そう、だろうな。知っていたはずだ。確信していたさ。でも、確かめずにはいられなかった」
二ィは両手で目を覆う。まるでこの世のあらゆる現実に絶望し目を背けるように。
布津野は自分のそばに寄り添ってきたナナを抱きしめた。冴子はまるで葬式に参加するように静かな面持ちでそこに座っている。
ふと布津野はロクと目があった。
目があった瞬間、ロクの表情がぐしゃりと歪んで、赤い宝石のような瞳が揺らぐのが見えた。
布津野は驚いた。それは彼が初めて見るロクの怯えた顔だった。
ロクは布津野の視線を避けるように視線をそらして二ィを見た。
「仕方なかったんだ」
そのロクの発言に、二ィはぴくりと体を震わせた。
「あれが最善だった。奪還は困難だった。殺して、出来ればその場で焼却するのが合理的だった」
「……だまれよ」
二ィの声が低く響いた。
しかし、ロクは黙らなかった。言い訳を重ねる子供のように、言葉を重ねる。
「品種改良素体は日本の遺伝子改良技術の結晶だ。生きたサンプルを渡すわけにはいかない。死体でも十分な損失なんだ。当時の判断としては、これが最適だったんだ」
「うるさいと言ってるんだ」
「他に対策はなかっただろ。日本政府は戦争するわけにはいかなかったんだ。戦争になれば最適化を認めてない全世界を相手にすることになる。国内の純人会勢力もまだ十分に勢力があった。最適な状況は、サンと二ィを奪還するか、それが無理なら殺すしかなかった」
ガタッと音を立てて、二ィが立ち上がる。その赤い目は燃えていた。
ロクはそれでも止まらない。
「二ィが今、ここにいることだってリスクなんだ。あの時、二ィを殺していればこんなことにはならなかったんだ」
「ロクッ!」
パンッ! と大きな音がして、ロクは頬をはたかれた。
ロクは叩かれた頬を手で押さえて、自分がぶたれた方をゆっくりと振り向いた。
そこには布津野がいた。
布津野は振りぬいた腕をそのままにして、ロクを見据えている。
「ロク、わかるだろう」
と布津野は、しかし悲しい声で言う。
「……わかりませんよ」
ロクの声は、湿っていた。
「だって、僕は悪くないでしょう。父さんに何が分かるって言うのですか」
「分からないよ。でも、こんなロクは見たくないんだ」
「そんな勝手知りませんよ! 僕は間違ってない。最適な答えを出し続けただけじゃないか。周りはそれを望んでいたじゃないか。いつだって、出来るだけ多くの人が幸せになるように努力してきたじゃないか!」
「それは分かってるよ」
「分かるわけないでしょう! 未調整のくせに!」
ロクはそう言った直後に、ハッと目を見開き震える手で口を抑える。
布津野はしかし、そんなロクを一層悲しそうな目で見た。
ロクは首を振りながら、後ずさりした。
「違う。そんなつもりじゃあ。僕は、そんなの……」
「ロク、落ち着いて」
と近寄る布津野から逃げるように、ロクは後ずさった。
「嫌だ、こんなの、なんだよ」
「ロク」
「なんなんだよ!」
「ロク、落ち着いて」
その布津野の呼びかけが合図だったかのように、ロクは脱兎のごとく駆け出した。彼は、リビングのドアをはね開けて、玄関を通り抜けて外へ駆け出して行った。
「ロク!」
と追いかけようとする布津野の袖を冴子が引いて止める。
「冴子さん、ロクが」
「追いかけないで下さい」
「でも、」
「ロクは忠人さんだけには見られたくないのです。追いかけていけば、さらに逃げようとするはずです」
それでも心配そうな顔をしている布津野に、冴子は諭すように言う。
「ロクなら心配ありません。しっかりした子です。宮本に対応してもらえるように連絡しておきます。こういった時は、彼のような男が適任です」
「そう、だよね。まぁ、僕なんかよりも」
布津野はそう言って、頭をくしゃくしゃとかき回した。
「冴子さん、すみません」
「忠人さんは間違ってはいません。ロクも」
「ええ、もちろんです」
「大人たちが、ロクに頼り過ぎていたのです。大きな決断の責任を彼に押し付けてきた原因は私にこそあります」
冴子はそういって、その秀麗な顔を曇らせて二ィを見た。
「二ィへの対応をロクに任せた。私の責任です」
二ィは冴子を見上げた。しかし、彼はどこか放心したようで、その眼は焦点が合っていないように虚ろだった。
「二ィ、久しぶりですね」
「グランマ」
「初めに、貴方の無事を私たちは喜ぶべきだったのでしょうね。そういった基本的なことを私たちは学ばずにいました」
冴子はちらりと布津野を見たが、また二ィに視線を戻す。
「しかし、理解してほしいのです。私たちには素直に貴方の帰還を喜べる立場にありません。貴方が中国の軍に所属しているのであればなおのことです。中国共産党の一員である貴方が日本に来た理由をお聞かせ下さいますか?」
「単なる視察ですよ」
二ィは心ここに在らず、といった様子である。
「そうですか。そうであれば、これは非公式の視察となりますね」
「ああ」
「我々としては、過去に攫われた改良素体が現れたのです。これを保護して貴方が中国政府でどのように過ごしてきたのか調査したいところですが」
冴子はそう言いながらも、この事態がそれほど単純にいくわけがないことを予感していた。
ここで簡単に二ィを保護できるほど中国政府が無能だとは思えない。もし、保護可能であったとしても、それが罠である可能性が高い。
加えて先ほどのロクと二ィのやり取りから考えられるように、二ィ自身も必ずしも日本政府に対して好意的な感情を抱いていない。
局面は複雑だ。それは、一時の感情で十分に揺れ動くほどに微妙なバランスのもとにある。
そう思い悩んでいる冴子を無視して、二ィは布津野のほうに振り向いた。
「布津野さん、」
二ィに声をかけられた布津野は驚いた。
「さっきは、ありがとうございます」
「えっ」
「ロクを叱ってくれて、」
「いや、こちらこそ……」
布津野は言葉に詰まり、首をふった。
「本当にごめん。ロクが、その君の妹を、ね……」
ロクが目の前の少年の妹を殺せと命じたのは、多分、自分がロクとナナと出会う前のことで、自分は全然知らなかった。
何も知らなかった。
――分かるわけないでしょう。未調整のくせに……か。
本当に自分は何も分かっていない。ロクが抱えていた責任も、二ィの怒りも。
政府間の争いに、命の危険にさらされ続け、生死与奪の判断を下さなければならない品種改良素体たちの苦悩を何一つ分かってやれなかった。
何も分かってないのに衝動的にまるで父親のようにロクをぶったんだ。
布津野は、じん、とした感触がまだ残る手のひらを見た。この手でぶったのだ。傷ついていたロクをさらに傷つけてしまった。
「ごめんね」
布津野は、自分を嫌悪した。
僕は、ごめんね、としか言えない。いつもそうだ。多分もこれからもそうなのだろう。
未調整のくせに、ロクの父親になったつもりでいた。
ナナがいつの間にか近づいて来て、そっと寄り添って来てくれた。ナナの深い瞳には潤んでいた。
きっと慰められている、本当に情けない。
「ごめん」
そう呟くように謝る布津野を見て、二ィは笑った。それは少し複雑なものを含んだ感じのする笑いだった。
「布津野さん、俺はね、ロクに復讐するつもりでした。サンを殺したアイツに同じ苦しみを味わせてやれば、この胸を穿つ空洞とか、欠けてしまった歯車とか、色々と変われる気がしたんだ」
二ィは自分の両手を目の前に掲げて広げて見せる。
「この手でロクの目の前で、サンが殺されたようにナナを殺してみようかと幾度も妄想しました。ロクが一番傷つき絶望する状況は何だろう、とずっとそればかりを考えてきました。そういった無意味などす黒い妄想を続けることが、俺の生き甲斐だったんだ」
布津野はナナの肩を抱いて一歩前に進み出た。
布津野が冴子に向かって視線をやると、冴子は頷いて布津野の背中の後ろへ隠れるように数歩引く。
二ィはしかし、目を閉じて続ける。
「どうすれば、この自分の心臓を食いちぎられるような苦しみから解放されるのか。分からなかった。ロクに会えば分かるのかもしれない。ナナに視てもらえば分かるのかもしない。そう考えて俺はさまよっていた」
二ィは、口をゆがめて嗤う。
「でもね。結果は最高だった! こんな痛快なのは生まれて初めてだ、これを生き甲斐だと断定しても良い。貴方に頬をはたかれて、泣きそうな顔で喚くロク! しまいには、哀れなウサギのように逃げ出しやがった! 滑稽、愉快だ。無様な最適解。俺が重ね続けてきた陰惨な妄想のどれよりも、あのロクは惨めだった!」
ニィは、アハァーーと奇妙な嗤い声を吐きながら、深呼吸をした。
深く吸って、また奇妙な声と一緒に息を吐く。
それを数度繰り返した二ィは、ふと真顔になってぼそりと呟いた。
「もう、ロクを殺していいかな?」
布津野はさらに一歩前に踏み出した。その表情はまるで稽古中の彼のように無表情で、真剣な目をしている。
「二ィ君、君達に対してロクがやったことは許されることではない」
二ィは布津野を椅子に座ったまま見上げた。
布津野の目が悲しそうに歪んで、二ィを見下ろしていた。
「ロクを恨む君の気持ちも、当然のものだ」
布津野は想像した。
もし、誰かがロクやナナを殺したら、自分はきっと相手を許すことが出来ないだろう。
だから、きっとこれはもう、どうしようもないことなんだ。
「でも、君がロクやナナを傷つけるというのなら……」
どうしようもない事ばかりで、自分に出来ることはほとんどない。
二年半前に救えなかった佐伯少女との記憶が疼いた。あの時、僕がちゃんと敵を殺していれば彼女が今も生きていたはずだ。
ロクやナナがいないのは、僕には耐えられないから。
「僕は、二ィ君を殺すしかないよ」
二ィは、弾かれたようにゲラゲラと声を上げて笑った。
喉を押し上げて、嬉しそうに、呼吸にむせびながらも、ゲラゲラとなかなか止まない。
「ハァーーッ、布津野さん、最ッ高だ! 未調整の貴方が俺を、ふふ。それは、もう、滑稽を通り越して美しさすら感じる。やばい、泣けてきましたよ。これじゃ、貴方みたいだ。ふふ、そうだっ!」
二ィはテーブルを叩いて、布津野を指差した。
「いいことを思い付いた。貴方を殺してからロクを殺しましょう」
布津野の眉をひそめる。
そんな布津野に対して、二ィは嬉しそうに続けた。
「どうです!? 俺はもしかしたら最適解かもしれませんよ。そうだ、こうしましょう。うん、これは名案ですよ」
ニンマリと歪んだ二ィの唇が歓喜に上下する。
「布津野さん、貴方は俺に誘拐されるんです」
「僕が、君に誘拐?」
「ええ。そう、まるで俺とサンが誘拐されたように、貴方も誘拐されるんです」
「どういうこと?」
「意味なんてありませんよ。もし貴方がお役所仕事のごとく、自身の行動について逐一の意味が必要ならば、僕がそれを与えてあげましょう。約束しますよ。俺は貴方が死ぬまでは、貴方の家族には一切手を出しません。悪くないでしょう? 貴方は少なくとも生きている限り、ロクとナナを守れるんです」
二ィはそう提案すると、両手を大きく広げて首を傾けてみせた。
「さぁ、どうです。イエスかノー、俺に誘拐されますか? 俺としてはイエスを切望しますよ。ノーであれば貴方達を殺しましょう。軍で訓練を受けた俺であれば一瞬です」
ナナが後ろから布津野に抱き着いた。
布津野は後ろに振り向くと、その赤い瞳に吸い込まれそうになる。
「お父さん」
声をかけたナナは、しかしそれ以上は何も言わずにゆっくりと首を振った。
ナナには布津野の色が見えていた。
布津野の水底にゆらぐマリモのような深緑色が、濁りを深めて漆黒に染まりだしている。複雑な感情と深い優しさが折り重なって深まった黒は固い決意を表していた。
それはナナが一番好きな色だった。
きっとお父さんは行ってしまう。
ナナは二ィを視た。彼の色は荒波のように不安定で濁った深海のような青。
お父さんの今いるべき場所はその深い水底なのかもしれない。
あの荒れすさんだ二ィの色を鎮めることが出来るのは、お父さんだけなのかもしれない。
「忠人さん」
と冴子が布津野に声をかけた。
冴子は一歩、布津野に近づいて困った顔を浮かべながら、やがてあきらめたように言う。
「どうなさるおつもりですか」
「冴子さん、僕はどうするべきでしょうか」
「貴方に二ィが殺せますか?」
「あまり自信がないよ。正直ね」
冴子は、この人は本心から嘘を言う人なんだから、と不思議な気持ちになる。
布津野の実力をもってすれば二ィを倒すことは容易なはずだ。ましてや、二ィは忠人さんのことを侮っている。
でも、この人はやっぱり二ィを殺せないのでしょう。
こうやって二ィから誰も死なないかもしれない可能性を提示されてしまっては、この人はたとえそれが罠だとしても飛び込んでしまう。
「では、もう決まっているのでしょう」
「申し訳ありません」
「本当に」
冴子はため息をついた。
本当に馬鹿な人。貴方がもし死んでしまえば悲しむ人がこんなに大勢いることに気が付かないのだから。
「これだけはちゃんと心にとめておいてください。忠人さんがロクとナナを守りたいように、ロクもナナも貴方のことが大好きなのです」
「分かってるよ。でも僕のほうが二人のこと大好きだから」
そうでしょうね、と冴子は呟いた。
「これは贈り物です」
冴子はすぅと顔を寄せると、布津野の顎に手を当てて唇を重ねた。
それは長いキスだった。時折、冴子の息が零れる。
布津野は突然のことに驚いたが、すぐに違和感に気が付いた。冴子から口移しで何か小さな金属の破片が口の中へと押し込まれたことに気が付く。
冴子の舌がそれを自分の喉に押し込もうと口内に這うように動く。布津野は押し込められるがままに、冴子の唾液と一緒にその金属の破片を飲み干した。
やがて、冴子は唇を離すが相変わらずじっと布津野を見ている。
「さぁ、お別れはすみましたか?」
二ィの声に布津野は名残惜しさを振り払って、二ィを見た。
「わかった。僕は君と一緒に行くよ。二ィ君」
二ィは嗤った。
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