[1-14]マリモ

 ――作戦開始まで、あと十五分。


 冴子はラブホテルの一室に待機したまま、部屋に運ばせたノートPCを眺めながら、時間が過ぎるのを気にしていた。

 戦術的停電処置に必要な各電力会社への緊急通達、各隊員のGPS情報による配置情報、そして携帯通信会社への個人情報アクセス要請。必要な手続きは全て終えた。他に見落としていることはないだろうか……。


「グランド・マザー、こちらアサルト・ワン、配置につきました」

 冴子はヘッドホンから告げられる現場部隊の報告に、即答する。

「アサルト・ワン、こちらグランド・マザー、確認しました。状況開始までその場で待機」

「了解。オーバー」


 ノートPC上に表示される各部隊のGPS情報を確認する。突撃部隊アサルトチームの位置情報が目標ビルの屋上に点滅している。周囲の包囲網が完了しつつあった。これまでは、作戦は順調に進捗しつつあるように思えた。

 迅速に人質の位置を把握し、外壁外窓からの突入によって一気に身柄を確保、運搬する。搬出の要になるビル外周部および一階フロアの制圧が上手く行けば、おそらく問題はあるまい。


 ――順調だわ。


 冴子は同じ部屋に待機している黒条百合華を見た。


「黒条組長、配備は完了しました。十分後に赤羽事務所に電話をお願いします」

「ええ、気の乗らない相手だけど、しょうがないわね」

「十分後に、手筈通りにお願い致します」

「ふふ、演技には自惚れがありますゆえ」

「お願い致します」

「本当に、これだけでよろしくって?」

「はい、本作戦ではこれ以上のご協力は必要ありません。組長にはむしろ、事後処理に注力頂ければと。純人会派の壊滅、秩序の再構築をお願いしたいと考えています」

「ええ、そちらは本職ですのでお任せ下さい。純人会派の頭目である赤羽を潰した後、奴らを一気呵成に駆逐いたしましょう。多分、それなりに死人が出る抗争になりますが、大目に見てくださると助かるのですが」

「約束しかねますが、現在、東京都の警察能力は一時的に麻痺しています。暴力団同士の抗争への介入については、一般人の死傷者が出ない限り一ケ月間は不可能です」

「一ケ月ね、十分よ」


 黒条組長は紅い口を手で抑えて笑っていた。

 優秀な人だ、と冴子は黒条組長に対する印象をさらに深めていた。

 彼女の年齢は資料によると十五歳だったはずだ。ということは、その遺伝子は第三世代ベースでの調整が行われていることになる。第三世代は、各能力が高度にバランスよくまとまった汎用性にすぐれた遺伝子情報群だ。特に健康能力においては、以降の世代よりも秀でており、一般大衆向けの遺伝子として広く利用されている。

 彼女より上の年齢の世代には、第一世代や第二世代をベースにしている。これらの世代に比べ、第三世代は飛躍的な能力向上が実現されている。これにより十五歳の少年少女たちがこれからの社会の牽引役となると見なされていおり、彼女はその一つの具体例といえる。

 先行試験型として、二十年前に実験的に導入された第三世代の個体も各方面で大きな成果を出している。さらに汎用性に優れる第三世代をベースに、様々な特化調整型の投入も成功している。宮本やOGAの隊員たちは第三世代戦闘特化調整型もそれに相当する。

 しかし、彼女については第三世代の能力だけでは説明できないほどの結果を出している。それは彼女が一大組織の長として生まれた事が大きな要因であろう。事実、彼女の周りには同じ第三世代であるはずの若者たちが付き従っている。そこには明確な上下関係が見て取れた。


「少し、時間に余裕があるわね。世間話してもよろしくて?」

 百合華が問いかけてきた。

「作戦前ですので、無関係な話は遠慮いただきたいのですが」

「ふふ、貴方のそう言うところ、嫌いじゃないわ。では、私が独りでしゃべるから、気が向いたら答えてちょうだい」

「……畏まりました」


 優秀なはずの彼女は、このような非合理的な言動をよくする。


「聞きたいのは布津野さんのことなんだけど、あの人は何者なのかしら」


 彼はきわめて一般的な未調整の男性である。

 作戦状況は問題なく進行している。モドキーズの面々にも最低限の装備を給付した。彼らはスタンガンや催涙スプレー、拘束バンドなどの装備類はすでに自前で所持していたため、配備に必要な装備はほとんど必要なかった。これらの自前の装備は黒条組が供給しているものであろう。必要最低限の装備が十分に共有されていた。

「これは想像なんだけど。布津野さんって、おそらく、異常な普通の人間なのだと思うの」

 異常と普通は両立困難であり、それを両立した瞬間にそれは稀有な存在となり、それは結局のところ異常だ。しかし、彼は異常な人とは言えるだろうか。

 異常な普通の人間という定義は論理破たんしているが、彼に関しては妙にあてはまる。

 冴子はモニタにポップアップしてきた通知に気がついた。

 PCに携帯通信会社に要請していた端末個別識別コードが送られて来たのだ。これで、被害者の携帯デバイスにハッキングをかけ遠隔操作することが出来る。強引に取得できなくもなかったが、後処理が面倒になるので助かった。


「私、気が付いたら布津野さんのことばかり考えているわ。根拠はないのだけど、あの人がいれば何も問題がないような気がするのよ」


 ロクもナナも宮本も、布津野さんに対して根拠のない信頼を寄せている。

 いや、ナナについては絶対的な根拠があるのかもしれない。彼女だけが見る事の出来る『色』だけが絶対的な確信を保証しうる。

 ロクもナナの判断を根拠にしているようであるが、明らかにおかしい。どちらかと言うと、ナナの判断を根拠にして布津野さんについて冷静に対応することを放棄しているように見える。それはロクらしくない行動パターンだ。

 この聡明な黒条組の組長にしても、同様らしい。無条件の信頼を布津野さんに寄せて、平然としている。どうしてだろう。


「貴方は、どうして布津野さんと盃を交わしたのですか?」


 不意に口をついたことに自分で驚いた。それは現行の作戦に影響はない。まぁ、いい。準備は全て終わったのだ。五分ほど時間には余裕がある。問題は何もない。

 黒条百合華は、ニンマリと笑った。


「さあ、どうしてかしら。そうした方が、面白そうだと思ったことは確かよ。布津野さんが私の兄弟になる……良い響き、官能的といってもいいわ」

「組長である貴方の、それも黒条組ほどの大組織と交わされる盃の意味を考えれば、理解しがたい行動です」


 極道組織における盃は、疑似的な血縁関係を模した組織階級の認定である。

 組長と五分の盃を交わしたということは、布津野さんは組長と同じ権限もつ『兄弟』となる。新参の意味不明の男が突然、組織のナンバー2となれば、内部からの反発も当然あるだろう。面白そうだからという理由で交わすものではない。


「あらら、意味なんて考えていたら楽しめないじゃない」

「本当に、それだけですか」


 もしそうであれば、彼女に対する評価を改めなければなるまい。

 ロクの計画では、今後の体制において黒条組には巨大な権力を持つことを黙認する予定だ。それは現状では、妥当な判断ではあるが、黒条組が暴走した場合に大きなリスクを負う事になる。そのトップである彼女が狂っているのであれば、方針を再考せねばなるまい。


「では、質問を返させて頂こうかしら? 冴子さん、貴方はどうして布津野さんに従っているのかしら?」

「従っている?」

「ええ、従っているわ。確実にね」

「そんなつもりはありません」

「あら、だとすれば重症ね。まるで心酔しているかのようだったわ」


 百合華は目を見開いて見せた。その目はキラキラと輝いている。


「……それは、貴方が布津野さんを代表者として指名したからです」

「では、どうして私のその指名に従っているの?」

「それは、貴方が黒条組の組長であり、現状において貴方の判断が……」

「嘘ね」


 ぴしゃりと話を遮られた。


「貴方は、私に対して布津野さんを排除するように要望もしなかった。貴方なら、重要な交渉の判断を彼に委ねるリスクくらい検討していたのではなくて? 交渉の前に私に直接連絡を取り、説得する時間も手段もあった。それなのに、貴方はただ唯々諾々と布津野さんに付き従って、彼の顔色を常に伺って、彼の判断を常に確認してきた。それはどうしてなのかしら?」

「それは……確かにそのような対処は有効ではありましたが……」

「どうして? それをしなかったのかしら? あるいは、思いもつかなかったのかしら? 頭の良いはずの貴方が、どうして?」


 紅い唇が歪んで、問い詰めるように迫ってくる。

 どうして、そう言えば、なぜ、なのだろう。

 私は今まで当然のように布津野さんの言う通りにしてきたのだろうか?

 布津野さんは私の判断を否定せず、全て肯定するのでそれでも問題がなかったからだろうか?

 そうであれば、彼がここにいる理由はなおさらない。

 どこかで、彼がいるほうが良いという思いが、したのだろうか……

 冴子はふと、ナナの言葉を思い出した。クリスマス・イブの事件の直後、ナナから布津野の色について説明を受けていた時のことだ。ナナはいつも以上に興奮した様子でいかに彼の色が素晴らしいかを説明しようと必死になっていた。



 ――布津野の色はね。マリモみたいなの。


 ナナはそう言って満面の笑みを浮かべた。


「マリモ?」

「うん、グランマが育てているおっきなマリモ。ゆらゆらで、じ〜として、濃い緑色だよ」


 私は自分の個室でマリモを育てていた。

 マリモは丸くて大きな藻の集合体。環境を整えるのが大変だが、それを維持しさえすれば特別な手間のかかるものではない。毎日の状態を確認して、水温やら水中の酸素濃度やら光量を調整する。ただそれだけで、マリモは大きくなる。

 気が付いたらマリモをジッと見ていることがある。疲労を感じている時は特にそうだ。ナナもマリモを眺めるのが好きだったので、何もない日は二人で本を読みながらマリモを眺めたりもした。

 マリモはこちらに感謝などしない。ただ与えられた環境に合わせて藻を張り巡らせて、大きくなったり小さくなったりするだけだ。こちらもマリモには何の反応を求めていない。ただ、何となくマリモが生息しやすいと思われるように気を配るだけ。

 何の利害関係もないマリモとの共生関係が、私の個室で続けられてきた。


「マリモに似ているから……」

「ん?」

「彼がマリモに似ているせいかもしれません」

「マリモ?」

「私が飼っているマリモです」


 不意をつかれたのか、組長は口をあけて黙っていたが、やがて弾かれたように笑い声を上げた。


「アーハハ、何それ、最高よ! 貴方、思った以上に面白いわ」

「そうですか、確かに少し変ではあります」

「それだけに、真実に近いところにあるわ……あら、いけない、もう時間ね」

「ええ。赤羽組長への電話をお願いします」


 冴子はPCモニタの状況を確認した。各員の配置は完璧だった。

 後、五分もしたらこのビルの中に布津野さんが入る。

 きっと彼は、呆けたように、とぼとぼと、ゆるく笑いながら、作戦目標のビルに入っていくのだろう。

 まるで水槽の中のマリモのようにユラユラと……。


 ◇

 黒条百合華は、自分が偏りのある人間であることを自覚していた。

 自分にはどこか欠けてしまった人間を好む癖がある。それが、彼女が他人から奇異に思われる原因となっていることは十分に自覚があった。

 しかし、その偏りこそが黒条百合華が黒条百合華であるゆえんであることを、彼女自身は頑なに信じて曲げることなどしなかった。

 欠落した人間は、それゆえに自己の奥底に空白という名の自由を得る。その空白に何を描くか、それによって人間の面白さが決まる。それは百合華の信念であり、哲学であり、盲信する宗教でもあった。

 その教義に基づいて考えると、布津野という存在は、彼女の信仰を集めるには十分だった。少なくとも、十五年という彼女の決して長くないが、多様な人間を見てきた人生において、布津野の抱える空白は圧倒的だった。

 自分の布津野に対する感情を安易に解釈すれば恋といえる。

 百合華はそう思っていた。

 もし、自分が布津野さんと恋人になったとしたら……。そういう仮説を遊ばせてみて、彼に恋する自分を思い描いてはそれも悪くないと満足する。彼が困った顔で、自分に口づけする様子を思い描いてみる。ぎこちなく這う彼の舌に応じ、彼が望むままに服を脱ぐ。胸を優しく愛撫され、下腹から痺れるような快楽がせせり上がる。やがてベッドに押し倒されて、意外に積極的な彼を発見する……

 そのイメージには、十分な快楽を感じた。しかし、絶頂エクスタシーとはまた違う。

 それは幸せであって、悦楽ではない。

 女の幸せとして、それは最良の未来なのかもしれない。しかし、自分が心のそこから求める布津野に対する真の理想は違った。根本的に違う。そういった最良とは程遠い、あるいはまったく逆方向のベクトルの先に、もしかしたら最悪の中に、布津野に対して自分が求める理想がある気がする。


「マリモ……ねぇ」


 それは一つの解であり、この白髪の不思議な美女にとっての理想であろう。

 この女はマリモのような男を潜在的に求めている。それが布津野であり、そのマリモに従い尽くすのがこの女の快楽なのだ。

 それを「マリモに似ているから……」と表現するしかない彼女の欠落性と、それを覆い隠す聡明さ、あるいは無知さは、一周半まわりきって極上の喜劇コメディと昇華され、もはや芸術的ですらある。


 ――飽きない。


 布津野と出会ってからの自分の人生がいかに高揚したかは疑う余地がなかった。彼を中心して起こる事象や人間模様は劇的で、自分は常にそれに高揚している。


「赤羽組長への電話をお願いします」


 マリモを愛する女がそう声をかけてきて、幸せな思索を中断した。


「ええ、分かりましたわ」


 布津野について思いを馳せた後に、赤羽の組長などという俗物と会話しなければならないという不幸を呪いながらも、百合華は携帯を取り出して、赤羽組の組長に電話をかける。

 呼び出し音が五回ほど鳴ったあと、


「なんだ」という不機嫌な声が耳元になる。

「お久しぶりです、黒条です」

「黒条の御嬢さんかい、久しぶりじゃないか。ワシはてっきり、誘拐でもされたんか思っとったわ」

 私の誘拐を手引きした張本人が、シャアシャアといってのける。まあ、いい。

「お蔭様で、明けましておめでとうございます」

「おう、何の用じゃ」

「せっかちですわね」

「互いに、正月の挨拶かわす仲じゃなかろう。何の用じゃ」

「そうですわね。では、手短に。そちらの事務所に五人の学生がいるでしょ?」

「……なんのことじゃ?」

「まあ、お聞きなさい。その内の一人、五億で引き取らせて頂くわ」

「ほう……」


 赤羽組長の声が低くなった。遺伝子最適化された子供の闇市場の取引価格は約二億である。


「なんのことが分からんが、五億とは豪勢な話じゃ」

「あんたたちが、子供攫ってシノギしてることは分かってんのさ。ところが、お前たちの攫った中に、金持ちの子供が混ざってしまってねぇ。警察もあてになんないから、私たちに泣きついて来たってわけさ」

「まあ、何を勘違いしとるか分からんが、ウチにそんなガキはおらんよ。他あたれや」

「はぁ、めんどくさい駆け引きは好きじゃないんだよ。あんたみたいなオヤジ相手ならなおさらね。分かったわ、七億出すわ」

「おいおい、何、勘違いしてんだ? そんなガキいねぇと言ったろ」

「そうかい、じゃあ勘違いだったんだろ。邪魔したわね」


 百合華は電話を切った。

 しかし、十五秒ほどして、電話がまた鳴った。番号は赤羽組長のものだ。


「いきなり、切るんじゃあねぇよ……、女はせっかちでいけねぇ。さっき、ウチの若いもんがな、そのガキがいるかもしれねぇと言ってたんだ。十億出してもらえれば、調べてやる」

「七億よ」

「嬢ちゃん、八億五千あたりじゃないかね」

「……はぁ、ウチの取り分なんてあったもんじゃないね。分かった、今日はそれでいい。ただし、本人の確認はさせてもらうよ」

「まぁ、かまわんよ。本人を電話に出せばいいか?」


 先ほどまでの茶番も何もあったもんじゃないわね、と百合華は不快さに笑い飛ばすのに苦労した。人間的にも役者としても三文以下の低俗さ。電話で交わす一字一句すら不愉快で何一つ興味の引かれるところがない。


「それじゃあ、信頼できないね。今から、こっちからその金持ちの子供の携帯に電話をかける。その携帯を本人のところに持っていって本人に出させな。そこで確認を行う」

「チッ、面倒なこった。まぁいい、好きにしな。切るぜ」


 百合華は、ふぅと息をついた。

 頭痛がひどく数r。こういった輩と話すだけで耳が腐ってしまうのではないかと心配になる。先程まで、布津野と不思議な美女との関係について、至福の思考を巡らせていただけにその落差が凄まじい。

 その冴子が百合華を振り返った。


「完璧と言えますね。流石です」

「ありがとう」


 マリモ好きの美女のその賞賛は、百合華のイライラをある程度は和らげてくれた。


「それで、次はどこに電話を?」

「この番号にお願いします」


 そう言ってマリモ好きは、手元のノートPCのディスプレイを指し示した。テキストエディタ上に電話番号と氏名が書かれている。『山口祥平』と書かれている下に電話番号が記載されていた。

 百合華はその番号を携帯に入力した。

 呼び出し音が数回した。

「対象の携帯デバイスへのハッキング完了。GPS情報を取得……問題ありませんね」

 マリモ好きは、そう言ってディスプレイ上に見える赤羽事務所ビルの間取り図中に点滅する一点を指し示した。どうやらそれが、今、電話をかけている山口祥平とやらの携帯端末の位置を示したものなのだろう。


「おう、この携帯かい」と不快な声が携帯から漏れる。

「ええ、名前は山口祥平らしいですわ。本人のところに行ってくださるかしら」

「まてや、部屋を移る」


 PCディスプレイの点滅が移動していく。場所は三階、大きな部屋を出ていく様子がうかがえる。

 なるほど、こうやってターゲットの場所を特定するのか、と感心した。

 やはり、今後の抗争や戦闘における要点は情報である。情報が勝利における大きなファクターであることは古今東西に共通したことであって、現代に限った事ではない。しかし、現代における情報戦はさらにその密度と専門性を高めている。

 このシステムと技術をどのように黒条組の能力として取り入れるか、それが現状の課題の一つであろう。それに気が付けただけでも、この共闘の大きな成果であると言える。

 やがて、廊下に出た光点は小さな部屋の中に入った。間取り図では302号室と書いてある。


「おい! 山口って奴はどのガキだ?」

 電話の向こうから下品な怒鳴り散らす声がする。しばらくもしないうちに、再び耳元から不快な声がする。

「ほら、こいつが山口祥平だとよ。替わるぜ」

 携帯を受け渡す雑音の後、若い男の怯えた声がした。


「はい、山口です」

「黒条組の組長だけど、貴方、お母さんの名前は何ていうのかしら?」

「えっ?」

「本人確認よ、即答しなさい」

「は、はい。山口洋子です」


 マリモ好きの冴子が頷いた。どうやら本人らしい。


「そう、大変だったわね。他の4人もそこにいるのかしら?」

「はい」

「今、他には部屋に何人いるの? さっきのオヤジだけ?」

「え、はぁ、他には四人ですが……」

「そう、わかったわ。じゃあ、用事は終わったわ。それじゃあ、大人しくしてなさい」

「えっ」


 ブッと百合華が電話を切ると、冴子が良く通る声で、マイクに向かって叫んだ。


「全部隊に告げます。目標の人質は全員、302号室。なお同室には四名の敵がいる模様。繰り返す、全目標は302、敵は四。目標ビルの電源を五秒後に停止します。カウントダウン……三、二、一、状況開始!」


 冴子の指がノートPCのキーを弾いて、火ぶたが切って落とされた。



 ◇

 冴子によって作戦開始が告げられる十分ほど前に、布津野は赤羽事務所ビルの正面玄関を押し開けた。

 玄関を抜けたすぐ側の壁には各階のネームプレートがかけてあった。目的の赤羽ファイナンスは一階で、二から六階は、赤羽企画とか赤羽建設などの表札が見える。どうやら赤羽組の関係する事務所ばかりがここに集まっているのだろう。

 玄関入ってすぐは、手狭なエレベータホールであり、そのすぐそばには赤羽ファイナンスのドアがあった。

 盗撮眼鏡がオンになっているかを確認して、エレベータホールの周囲を見渡す。すると耳元に詰めた無線イヤホンから千葉の声がする。


「こちらファイブ・リーダー。布津野さんエレベータホールOKです」


 どうやら、この登頂眼鏡は問題なく動作しているらしい。

 さて、いよいよ。侵入だ。赤羽ファイナンスの扉の前に立って目をつぶると、取っ手に手を掛けた。

 大きく息を吸い込み、ゆっくりと息を吐く。

 僕がやることはこの扉の中に入って、出来るだけ周囲の状況を見渡して、千葉さんたちに状況を伝えることだ。

 思い切って、扉をあけた。

 目の前に広がる内部フロアの第一印象としては、ごく普通の企業の受付だった。事前に共有された間取り図の通り、一階はいわゆるオープンオフィスであり、受付と仕事場の仕切りはなかった。受付用のカウンター越しに、かなりの数のヤクザさんらしき人影が見えた。


「なにか御用で?」

 普通の企業と違う点としては、受付の対応がぶっきらぼうであることだろうか。

「はい、実は融資のお願いに来たのですが……」

「おう、お客さんですか。そこのソファに座りな」

 声をかけてきた男は、受付横の応接エリアを指差した。

「ええ」


 布津野はそう言って、言われたソファに向かった。座る前に、脱いだコートの置き場を探すふりをして出来るだけ周囲を見渡す。「一階、図面通り。数、十五から二十を確認。被害者の姿なし。OKです。布津野さん、後は作戦通りにお願いします」と耳に仕込んだイヤホンから聞こえてきた。

 どうやら最低限の役割を果たせたようだ。後は、まあ出来そうなことだけをやればいいだろう。

 ほっと息をついていると、向かいに男が二人座り込んだ。


「おまたせしました。融資の相談っていうことで」

「ええ、是非、お願いできればと」

「自己紹介がまだでしたね。赤羽ファイナンスの八木で、こいつは池上ですわ」


 そう言って向かいのソファに座り込んだ男はサングラスをかけている。そのサングラスは隣りのスキンヘッドの男を顎で指し示して、手短な自己紹介を済ませた。


「私は布津野と申します」

「それで、布津野さん。早速ですが、どうしました」

「はぁ、お恥ずかしながら、先日に失業してしまいまして。転職までの当面の生活費をお願いできないかと」


 サングラスの男は、面倒くさそうに頷いて、布津野の話を遮った。


「ええ、こんなご時世ですから、大体のことは分かります。大方、未調整の首切りでしょ? お察ししますよ。問題は金額です。おいくらですか? 30万? 50万?」

「とりあえず、50万ほどお願いできないかと……」


 布津野はそう言いながら、緊張を固唾と一緒に飲み込んだ。次の行動は、部隊の突入の開始は、確かビルの停電と同時になるはずだ。


「50万ですか……。まあ、ご用意できない金額ではないですが、こちらとしてはお返し頂ける当てがあるか、ですな」

「本当ですか? あの、利子はどのくらいになりますか?」

「それは布津野さん次第ですわ。確実に返済していただける公算があるなら、安い金利で融資できますし、そうでないなら高こうなります。まっ、我々のような小さなファイナンスに来られたということは、その当てが無いのと違いますか?」

「はぁ、いくつかの銀行には断られました」

「クレジットカードや、消費者金融という手もあったでしょう? そちらはどうでしたか?」

「……あまり、芳しくありませんでした。未調整ということで、再就職の可能性は低いと思われたみたいで」

「まぁ、このご時世ではそうでしょうな。見ての通り、我々も、いわゆる未調整ばかりでしてね。布津野さんみたいな人には同情します。ウチの社長もね。未調整の困っている人を助けてやりたいといって、あなたみたいな人には積極的に融資しているんですけどね。それでも、やはりボランティアではないので、それなりの利子を頂くことになります」


 サングラスはそう言って、深くソファに背を預けた。スキンヘッドの男は無言で布津野を威圧するように見ているだけだ。

 まだ、停電は来ない。布津野は緊張で変な汗が出てきた。始まって欲しいわけではないが、始まるなら早く始まって欲しい。

 もう一度、目を泳がすように室内を見渡した。

 広い。座っているソファは入口付近の角に位置していて、目の前にはソファに腰かける二人と、その向こうには十人以上の派手な服装をしたヤクザ風の男たちが何やら談笑していた。


「相場では、月あたりの金利で10%になりますかね。ただ、その場合は雇用保険を担保にいれてもらう必要があります」

「10%ですか、それは高いのですか」


 暴利だな、布津野は内心でそう断じた。

 一般的な消費者金融が年利で20%だ。月あたりの10%は単純計算で年利120%になる。利息が上積みされれば、それだけでは済まないはずだ。


「まぁ、かなり安い方ですわ。布津野さん、考えてみてくださいよ。このご時世に未調整の失職者に金貸す金融がいますか? 布津野さんがそうとは言いませんが、踏み倒しも少なくないんですわ。我々としても皆さんの援助と思い、金を貸してますがこれが誠意の限界というやつでしてね。お分かりでしょう」

「そうですか、あの、もし、お願いするとなるとですね。必要な書類とか、証明書は何になりますか」

「免許書と印鑑、それと先ほど言った、雇用保険関係の証明書になりますかね。できれば、保障人がいれば……」


 その時、布津野のイヤホンから「全部隊に告げます。目標の人質は全員、302号室……」と冴子の声が鼓膜を通して頭に響いた。状況が動きだした。「目標ビルの電源は五秒後で停止します。カウントダウン、三、二、一、……」

 布津野は呼吸を整えて、細く息を吐く。


 ブッ、と音を立てて、全ての照明がかき消えた。


 室内の明かりは、窓からこぼれる冬の夕方ちかくの弱光のみ。室内の状況は影に沈み、目の前が辛うじて視認できる程度。

 布津野の体は淀みなく動いた。


「停電?」と驚いたような声を出しながら、目の前の説明をしていたサングラスの男が頭を上げる。

 布津野は、そのサングラスの後頭部を両手に抱え込むように掴み、引きつけると同時に膝を顔面に叩き込んだ。

 割り箸を割ったような、パキっという鼻骨が折れる感触と、生暖かい体液の感触が膝を濡らす。

 そのままサングラスの男を離して、腰を落としみぞおちに拳を貫き通す。

 拳が腹筋の隙間を通って横隔膜に到達して、ぐんにゃりとした反動が拳にまとわりつく。

 サングラスは、呻き声も漏らさずに崩れ落ちた。

 唖然として立ち尽くしていたもう一人のスキンヘッドは、ようやくこちらに向かって襲い掛かってきた。

 右腕の大振りのフック。

 布津野は、それをするりとかわし、カウンター気味に男の眼窩を掌底で叩いた。

 眼窩は比較的折れやすい、折れなくても相手はしばらく視界を失う。

 視力を失ったスキンヘッドは目を抑えて後ずさる。無防備になった男の背後に足を踏み入れて、首を抱え込むようにして一気に締め上げた。


 羽交い締めによる頸動脈を圧迫による意識断絶には平均七秒を要する……が、綺麗に決まったせいか四秒で落ちた。

 照明を失って、オフィスの奥は騒然となっていたが、まだ明確な行動にでているヤクザは殆どいない。

 布津野は懐から閃光音響手榴弾スタングレネードと催涙手榴弾を取り出した。

 千葉に教えられたとおりにピンを抜き、部屋の真ん中に向けて投げ込んで、耳を塞いでその場に伏せた。


 ドン!


 轟音が身体を叩く。

 ヤクザ達の怒声と悲鳴が、シューという催涙ガスが散布される音に混じる。


 布津野は素早く立ち上がると、入ってきた入口の前に立ちふさがった。

 充満するガスから逃げるには、窓か入口しかなく。手榴弾で無力化されなかったヤクザは使い慣れた入口に殺到するはずだ。ここで全員無力化しなければ、突入してくる紅葉ちゃんや佐伯さんに危険が及ぶ。

 布津野は前を見据えて重心を落とし、右半身に構えた。幸い、こちらに向かってくるヤクザは四、五名程度だ。


 ――多分、まあ、なんとかなるだろう。



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