[1-13]サイコロ

 それから布津野たちはラブホテルの一室で、赤羽組本拠地への襲撃について話し合った。


 話し合いは非常にスムーズであった。誘拐された五人が海外に引き渡されるまで時間が差し迫っており迅速な決断を迫られている状態であったし、何より作戦を考える冴子が非常に優秀であった。

 当事者である百合華も数分の打ち合わせの間に、彼女の的確な判断力に感心して、それ以降では冴子の決める作戦について全面的に合意するようになった。

 まずは護衛に連れてきた遺伝最適化部隊GOAを——これは宮本の特殊部隊の呼び名らしい。そのGOAの隊員を一人ずつモドキーズの隊に配置し、彼らを臨時の隊長として隊全体の指揮を取る事。

 次に、モドキーズは襲撃対象の赤羽組のビルの周囲を囲むようにして待機、誘拐被害者の外部への搬出を阻止、あるいは外部からの赤羽組増援を食い止めること。

 最後にビルへの直接的な突入はGOAを中心とした少数精鋭で行い、突撃時にはGOAの隊員の指示を絶対遵守すること。


「モドキーズには主に周囲の警戒、被害者搬出の阻止を中心にお願いします。突撃に気が付いた赤羽組が被害者を外に運びだす可能性は高い。モドキーズはこれを絶対に阻止してください」

 冴子の問いかけに、紅葉が頷く。

「やっぱり、紅葉ちゃんも参加するのかい」

 布津野がいかにも感心しないという顔で紅葉を見る。

「当然だよ、あたいは新宿五番隊の隊長なんだよ。モドキーズの精鋭だよ」

 これは絶対にゆずらない、と言いたげな様子で布津野を見返してくる。まったく、どうしたものだろうか……。


「冴子さん、すみません」

「なんですか」

 布津野に問いかけられた冴子は、外のGOA達に運び込ませたPCから顔を上げて、布津野を見る。

「申し訳ないのですが、紅葉ちゃんの部隊に僕もついて行っていいですか」

「先輩!?」と紅葉が声を上げる。

「紅葉ちゃん、これは僕もゆずれないよ」

 自分が役に立つとは思えないが、だからといって何もしないというわけにもいかない。

 頬を膨らませている紅葉に対して、布津野が黙っていると、横から冴子が言う。

「問題はありません。布津野さん自ら作戦に参加されるということですね」

「えっと……」


 そう言うことになるのかな? 正直、そこまで積極的に作戦に関わる気は無かったのだが、今更退くわけにはいかない感じだ。


「そう、そうだね」と勢いに負けて肯定する

「畏まりました。では、それを前提にして作戦を再構成致します。それと、布津野さん不在時の判断はいかがしましょうか?」

「え、ああ、はい。それは冴子さんが決定して下さい。百合華さんもそれで良いですよね」

「ええ、貴方がいなくなるのは寂しいですけど」


 布津野は百合華の冗談を無視して、紅葉に向き直った。

 きょとんとした様子の紅葉は少し不満気に口を尖らせているが、目はすこし和らいでいる。幼い頃から彼女のことを知っている布津野には、彼女が内心では布津野の提案を受け入れる準備を始めていることが分かる。


「頼む。このとおり。だからあまり無茶はしないで」

 駄目押しに、拝むように両手を合わせて頭を下げる。

「……わかったよ」


 紅葉はしぶしぶと、頬をふくらませてそう答えた。



 ◇

 ラブホテルの地下駐車場には、作戦に参加するメンバーが集合していた。まだ夜には早い時刻だからなのか、それとも百合華が営業を停止するように命じているのか、だだっ広い駐車場にはほとんど車がなかった。

 布津野が紅葉と一緒に地下駐車場に姿を現した時、そこに二つの集団がいることが見て取れた。一つは若い少年少女の集団で、何やら騒めきながらもう一方の集団を睨みつけている。

 もう一方の集団は整然としていた。横一列に整列し無言で不動であった。皆が総じて大柄で、服装も完全には同じではないようだが総じて黒い。冴子を護衛するGOAの隊員たちだ。

 間の悪いことに、布津野はその集団間の緊張に割って入る形で姿を現してしまった。全員が、布津野と紅葉の方を振り返る。向けられた多数の目は、お前は誰だ、と無言で問いかけていた。


「布津野さんですね。宮本隊長からお話は聞いています。千葉特務准尉です」


 絶妙のタイミングでGOA隊員が一人前に進んで布津野を出迎えた。布津野は感謝を込めて、千葉と名乗った隊員に頭を下げた。


「作戦に参加することになった布津野です。なるべく邪魔にならないようにしますので、何卒よろしくお願いいたします」


 千葉は宮本ほどではないが背の高い屈強な若者だった。宮本とそれほど年齢は変わらないと思われる。彼も宮本とおなじ、第三世代のなんとか特化調整の人なのだろうか。そういえば、どことなく宮本に似ている気がする。


「はっ、僭越ながら本部隊の臨時指揮を取らせて頂きます」


 そう言って姿勢を更に正して答えた。

 まわりのモドキーズのメンバーがこちらをチラチラと伺っている。布津野から離れた紅葉は、彼らのところに駆け寄って、何やら作戦の概要を説明しているようだ。

 布津野はふと、自分一人だけが明らかに周囲から浮いているのに気が付いた。広い地下駐車場は、大勢の若者たちが寄り集まっている。彼らは皆、最適化された外見をしていた。GOAの隊員たちもせいぜいが二十歳程度であり、大半をしめるモドキーズのメンバーは中高生ばかりだ。

 そんな中で三十歳の未調整の中年が一人ぽつんと立っているのである。場違い感が半端ではない。布津野は穴があればこっそりと隠れたいと思い、近くに目立たない物陰がないかと辺りを見回し出した。


「みんな、紹介するね。こちらは布津野先輩! すごい人なんだ」


 しかし、紅葉は空気を読んでいなかった。

 彼女がまわりの仲間たちに向かって自分をそう紹介すると、人混みから十代の少年のような、無理に低い声を出そうとしている声がした。


「誰だよ、そこの未調整のおっさんはよ」


 うわぁ、傷つく言い方だな。

 布津野はその場に立ち尽くした。もはや逃げ隠れする余裕などない。諦めて改めて周囲を見渡す。

 そこには不信感を露わにした若者たちの表情が並んでいた。控えめに言って、自分に好意を抱いているとは言い難い。しかし、布津野は不意に懐かしい気もした。唯一、自分だけが未調整である状況に彼は慣れていた。むしろ、これが自然な反応というものだろう。最近はどうにも周りの人が優しく接してくれることが多く、忘れがちだったけど……。


「なんだと! 先輩を馬鹿にすんな!」

 紅葉が優しい子に育ったことを、布津野は嬉しく思う。

「布津野先輩は、めちゃくちゃ強いんだ。私の十倍くらい」

 でも、もっと空気の読める子に育ってほしかったな、布津野は悲しくなった。


「ああ、んなわけねぇだろ。そのおっさん未調整だろ?」

「だからなんだよ」

「アイツらは群れなきゃなにも出来やしねぇ。いつも子供ばかり狙いやがって」

「何だと、先輩をあんな奴らと一緒にすんな!」と紅葉は顔を真っ赤にしている。


 布津野はいつの間にか自分が周囲の全員から注目を浴びていることに気が付いた。

 周りには百人くらいの若者が取り囲むように、こちらを睨みつけている。彼らの目には警戒の色が見て取れた。仲間を攫われたという恨みが未調整という存在自体への不信感に繋がっているのかもしれない。


 ——不味いな。


 もしかしたら、自分がここにいることは間違っていたのかもしれない。

 ただでさえ、赤羽組を襲撃する直前で気が立っているのだ。それがこの集団の中で異質な未調整を目の前にして、警戒心を通り越して敵意に変貌しそうだ。

 そんな布津野の不安をよそに、紅葉は集団に向かって腕をまくった。


「私より弱い奴が吠えんな。先輩が本気だしたら、お前なんかすぐにあの世ゆきだぞ」

「んだと?」


 紅葉の喧嘩腰に、何人かのモドキーズの男たちがざわつきだした。


「紅葉ちゃん、紅葉ちゃん。もうそのへんにしてくれよ」


 布津野は火に油を注いでる紅葉の口を手で塞いで、慌てて静止した。

 これから大変な作戦を決行するというのにトラブルは不味い。ましてや、自分がそのトラブルの原因になってしまうことは、申し訳なくて居たたまれない。

 布津野は周囲に向かって笑顔を振りまいて見せた。


「あ〜、すみません。今回、参加させて頂くことになった布津野です」

 シーンと周囲が静まり返り、布津野の声がコンクリート壁に反響していた。うわぁ、やりにくい。

「僕がどうしてここに居るのかというと……」

 さて、どう説明したものか……。


 紅葉が危険なことをしないように見張るつもりでここに来たのが本心ではあったが、この緊張した場面でそれが通じるとは思えない。かと言って、この一触即発の状態を放置するわけにもいかない。この殺気立った雰囲気をなんとかしないと……。


「実は、僕は無職になったばかりで……」と言ってみたが、周りはほぼ無反応だった。

 あわよくば笑いがとれると期待していた布津野は辛い気持ちになった。

「……黒条組の組長に雇ってもらえないか相談に来たんです。すると、組長から赤羽組の抗争に役に立ったら組に入れてもらえるって言われて……」

「いいわね。それ、採用よ」


 突然、良く通る女の声が駐車場の奥から響いた。

 全員が一斉に振り向く。そこには黒条組組長である黒条百合華がまるで舞台に降り立つ役者のように、こちらに向かってくるのが見える。


「最高の提案だわ。あの布津野さんが黒条組の組員になるなんて、こちらから頭下げてお迎えさせて頂きたいくらいよ」

 百合華が、静まり返った駐車場にカツカツと足音を刻みながら、人垣を切り分けて近づいて来た。

「あ、いや、これは……」

 布津野が目を白黒させて戸惑っていると、周囲から「黒条の姉御だ」とざわつくのが聞こえた。

「誰か! 盃を持ってきて頂戴」と周囲に命じる百合華に、布津野は慌てる。

「あの、百合華さん」

「茶碗でもいいわ。早くしなさい。布津野さんを待たせては失礼よ」


 百合華が周囲にそう呼びつけると、慌てて何人ものモドキーズが走り出す。

 何やら不味いことになってきたと、布津野は百合華に食い下がる。


「あの、ですね」

「様子を見に来て正解だったわ。まさか、こんな面白い展開になっているなんてね」

 その声は、十五歳のような悪戯っぽさと、十五歳らしからぬ艶を含んでいる。

「今のはですね……」冗談なんです、と言いかけた口を百合華の指が塞いだ。

「まさか、ご冗談だったのかしら? それは酷いわ。極道者に平気で嘘をつけるなんて、流石に大物ね。黒条の小娘程度、弄ぶのに丁度良いと?」


 そう百合華は笑った。目の前には百合華の切れ長の瞳が妖しく光る。


「貴方には戯言でも、私は真剣です。粗忽な極道者に嘘などつけません。私、黒条百合華は布津野さん、貴方と盃を交わしたいと考えています」


 周囲が一斉に、息を飲み干す音が唱和した。その後、次第にざわつきが広がっている。周囲のモドキーズたちは互いに顔を見合わせて、布津野を驚愕の表情で何度も覗き込んでいた。彼らの目には、先ほどの布津野に対する侮りは消え失せていた。

 一方の布津野は周囲の変化を不審に思いながら、自分の周りに何が起こっているのか把握しかねていた。彼は頭を掻きながら、脳みそを回そうと必死になっていた。


 ――盃って、何?


「盃……ですか?」

「ええ、貴方の勝利を願って」


 つまり乾杯のことかな? と布津野は思い至る。周囲の全員が緊張してこちらを凝視しているのは、もしかしたら黒条組の組長自ら、乾杯しに来たからかもしれない。

 これはもしかしたら、百合華さんに助けられたのでは無いだろうか。お陰様で先ほどまでの険悪なムードは無くなり、緊張感が張りつめている。作戦の直前だ、緊張感があるのは当然だ。


「まぁ、乾杯であれば……構いませんけど」

 百合華は口のはしを釣り上げて大きく笑った。

「何をしているの? はやく持ってきなさい!」


 百合華がそう急かすと、戻ってきたメンバーが姿勢を低くして前に出て百合華に二つの茶碗を差し出した。

 黒い漆ぬりの茶碗には、水がはってある。

 百合華はその一つを両手で受け取って、布津野に向かって差し出した。その仕草は普段の優雅で悠然とした彼女のそれではなく、まるで神前の儀式のような恭しさに溢れていた。

 布津野は百合華が差し出した茶碗を受け取った。中の水がゆらゆらと揺れていた。

 百合華はもう一つの茶碗を両手に取ると、小さな声で布津野に言う。


「私の真似をしてください。極道者の乾杯は普通と作法が違いますから」

 百合華は両手で茶碗を戴くように持つとそれを布津野に見せた。布津野もそれにならって左右から茶碗を手で挟むようにして持つ。

「ご一緒に飲み干してください」


 百合華が口をつけると、布津野もそれに合わせて飲む。

 二人はほぼ同時にそれを飲み干した。

 百合華は茶碗を懐に入れてしまうと、布津野に目配せをした。慌てて布津野も真似をして茶碗を上着の胸元にねじ込んだ。

 百合華が声を張り上げて、周囲を薙ぎ払うように見渡す。


「これで、この方は黒条組組長、黒条百合華と五分の盃を交わした兄弟です。彼の命は私の命と同様、お前たちもそのように心得なさい」


 あたりは静まり返っていた。

 布津野の目の前には、艶やかに笑っている百合華がいた。

 その笑顔を悪魔的だと思った。悪魔のように美しいと思った。あの長い黒髪がハラリパラリと紅い唇の上に溢れている。笑っているその唇は血のようだ。

 この悪魔は一体、何を僕に望んでいるのだろう。

 そんなの自分に分かるわけがない。きっと、自分はこの悪魔の望むままに踊り狂い、いつか擦り切れて死んでしまうのではないか。そんな気がする。


「どうやら、騒ぎは収まったようですね」


 遠くから、冴子の声がした。それは目の前の黒い悪魔とは違って、彼女は白かった。布津野には彼女が天使のように見えた。終末の日に人を断罪するタイプの冷徹天使だ。


「布津野さん、ここで今回の作戦の関係者に対して、作戦の説明をさせて頂きたいと思います。ご許可頂けますか」

 冴子はそう言って布津野に向かって頭を下げた。

「……」


 布津野が黙っているのを、冴子は頭を下げたままひたすら待った。まるで主人の命令を遵守する奴隷のような従順さを見るものに印象付けるかもしれない。


「どうぞ」と布津野は息苦しさに負けてこぼす。

「ありがとうございます」と冴子は頭をようやく上げた。


 まるで彼女が自分の指示に従っているような誤解を周りに与えかねないやり取りだ。

 品種改良素体というのは、融通が利かないように出来ているらしい、律儀にも不要な許可を、いちいち僕に求めてくる。もしかしてこれは嫌がらせなのだろうか。百合華と示し合わせた悪戯なのかもしれない。大迷惑だ。


「では、私から説明をさせて頂きます」

 布津野が必死に浮かべてみせた非難がましい表情を無視して、冴子はテキパキと周囲の人間に対して説明を始めた。

「本作戦における、目標は二つ。一つは囚われている誘拐被害者五名の救出、もう一つは赤羽組の幹部検挙によるその組織の解体です。本作戦では、黒条組組長の信任のもと、我々の部隊十名とモドキーズの方が実働にあたります。本作戦における全権は……」

 冴子が問いかけるような目線を百合華に向けた。

「私の兄弟、布津野のあに様に任せます」と百合華がすまして答えた。


 百合華はちらっと布津野に伺う様にして見た。

 布津野は思わず百合華を睨みつけたが、彼女は相変わらずクスクスと笑ってこちらを見返す。まるで何かを期待するように、こちらの出方をうかがっているようだ。

 このお嬢様に、自分がいかに無能で無力な無職であるかを、小一時間ほどかけて丹念に説明申し上げたかった。しかし、時間がない。


「僕は……冴子さんに全てをお任せします」

「ありがとうございます。では、委任を頂きました私から作戦を申し上げます」


 この茶番じみたやり取りは不要だろ?

 布津野のその疑問を無視して、冴子は人垣の中に一歩踏み出して、輪の中心に入って行った。周りの人たちもその姿に見入っている。

 それは当然だっただろう。なぜなら、冴子のその姿は幻想的なほどに絵になっていた。まるで革命を指導する女神のように、白い美女が周囲を見渡して凛と声を張った。


「まず、本作戦に参加する私達の部隊から一名ずつをモドキーズの一から五番隊に配置します。作戦においては彼らをリーダーとし、彼らの指示に従って下さい。補足しますと、彼らは十分に専門の訓練を受けた軍人であり、従軍経験もある精鋭です。彼らを信用して下さることを、モドキーズの方々には期待します」


 周囲の若者たちがざわついて、近くに直立不動で控えているGOAの隊員たちを見る。


「まずは、モドキーズの方々で赤羽組事務所ビル周辺を包囲します。ビルからの被害者の運搬、および外部からの増援を阻止してください。この包囲網を担当するのは、六番から二十番隊でお願いします。包囲完了後、五番隊に同行した布津野さん単独による事務所内の潜入を行います。」

「えっ、僕ですか?」驚いた布津野の疑問に、

「はい」

 そう冴子は即答した。

「どうして、僕?」

「貴方が本作戦に直接参加される言われたので、最良の作戦を立てた結果です」


 いや、確かに言ったけど、と言いかける布津野を冴子が遮った。おかしい、この人、全然従順じゃない。


「貴方は、この中で唯一の未調整で、年齢も三十とちょうど良いのです。赤羽組事務所では高利息の闇金融も営んでいます。失職による借金の相談と言えば怪しまれることも無いでしょう。内部に入り込み、五番隊の一階からの突入を支援してください」

「そうは言っても、僕は……素人だし」

「素人?」


 無表情がぽかんと聞き返す。


「貴方は十人以上の敵を数十秒で制圧することが出来たでしょう。しかも相手は火器を装備した状態で、貴方自身は素手のみでした」

「いや、あれは、」

「報告によれば、貴方はGOAの隊長である宮本と対戦して勝利したと聞きました。彼は私の知る限り最も優れた兵士です。そんなことが出来るのは貴方だけです」


 布津野がぐっと黙り込んでしまった間に、周囲の取り巻きの先頭で見ていた紅葉が、はいはい、と手を挙げる。


「私見ていたよ。宮本さんと先輩の仕合。なんと先輩、一撃で倒しちゃったんだから」


 周囲がざわつき出した。今度は、遠巻きに見ていたGOAの隊員からも声が漏れてくる。「おいおい、あの噂は本当だったのか」「あの隊長が未調整に負けたって話」「俺は隊長から直接聞いたぜ、未調整にコテンパンにやられたらしい。それがあの人なのか」


 ――宮本さん、また貴方ですか。


 GOAのその声が周囲に漏れたことによって、モドキーズの面々から布津野に対する侮りは完全にかき消えた。彼らの口々からも「あいつ何者だ」とか「やっぱり姉御が五分の盃交わすくらいだから……」とか、何だかとんでもない勘違いが広がっている。

 収拾がつかないくらいの勘違いの拡散に途方に暮れていた布津野を、冴子は端正な人形のような顔を困らせて見せる。


「この役割は、本作戦での要です。布津野さんが断るのであれば、他の人間に任せることになります。しかし、成功率の観点から考えれば出来るだけ貴方にお願いしたいのですが、問題ありますでしょうか」


 周囲いる全員が、ある種のキラキラとした期待がこもった目で布津野を凝視している。


「……やるよ」


 それ以外の回答があれば教えて欲しい。


「ありがとうございます」

 冴子はそう言って頭を下げると、大きく声を張り上げて、再び周囲に向かって語りかける。

「布津野さんが目標ビルの内部に侵入後、外部からビルの電源システムを遮断して停電を起こします。一から五番隊は一階に突入、これを制圧してください。特にエレベータと階段の封鎖を徹底。エレベータは非常電源で稼働しているはずです。被害者が運び出される可能性は高い。

 これと同時に、GOAのみの別動隊が、外窓から各階に突入します。ビルは六階建ての中規模。多く見積もっても内部にいる相手の人数は70人程度。別動隊については火器の使用および殺害も選択肢として許可します。しかし、死者は最小限、可能であればゼロにしてください。現場が虐殺の様相になりますと世論に悪影響が出ます。困難なオーダーであることは承知していますが、貴方たちはその困難を成し遂げるための部隊であること肝に銘じなさい」

 冴子はGOAの隊員たちに視線を走らせた。

 隊員たちは一斉に敬礼してそれに答える。その顔には何の気負いも緊張も油断もなかった。まるで、この毎日のルーティーンワークであるかのような平然とした様子である。

「説明したとおり、本作戦はダイナミック・エントリーです。よって、成功における要点は人質の拘束場所の迅速な特定になります。人質の居場所はこちらで特定し各員のデバイスに表示します。もし、特定が失敗した場合、突入部隊は各階を探索し人質を救出してください」


 冴子は最後に周りを見渡した。

 周囲には緊張感が漂っている、ただその雰囲気には、先ほどまでの不安や感情的な高揚は抑制されていた。高まった士気に対して、成功を期待させる具体的なアイデアが提示され、それに向かって無数のメンバーが一つの淀みない流れとなって進行していく。先ほどまでのような混乱が入り込む余地もない、整然としたプロジェクト。

 冴子が提示したのは正にそれであった。


「何か、質問は……ありませんね。作戦の性質上、情報管理および戦略的判断はここから無線で指示します。各隊員は特殊回線の三番をオンライン。司令部のコールサインは『グランド・マザー』、外壁突入部隊を『アサルト』、一階制圧部隊を『モドキ・アルファ』、ビル外周制圧部隊を『モドキ・ベータ』とします。戦術判断は各部隊長に委任。作戦開始はこれより一時間後、ひと、ろく、まる、まる、にて状況開始。各隊、現場にて待機」

「「了解」」とGOAの隊員が唱和した。



 ◇

「先輩、先輩とクロちゃんってどんな関係なのさ」


 布津野は先ほどから紅葉がそうしきりに聞いてくるのを適当に流しつつも、それ自分が聞きたいと頭を抱える。

 あの黒条組の御嬢さんは一体何を考えているのだろうか。

 からかわれているだけで、何かの冗談なのかもしれない。きっと、赤羽組のところに乗り込んだら、百合華が『ドッキリ大成功』と書かれたプラカードを掲げて、クスクスと笑うのであろう。そうであってほしい。

 一時間後に赤羽組事務所前に各自は現地集合——それが、冴子が考えた作戦の最初の行動だった。作戦というよりも、飲み会の集合みたいだなと思ったが、その意図はかなり現実的だった。

 今回は赤羽組事務所を百人以上のモドキーズが包囲することになる。一斉に駆けつけては相手に襲撃を察知される可能性がある。おのおのが別々の交通手段で現地に集合し、緩やかに包囲網を形成するのが合理的とのことだった。

 そんなわけで、布津野がいる五番隊はタクシーに相乗りして、現場付近で降りて徒歩で行くことにした。助手席にはGOAの千葉が座り、布津野は後部座席に紅葉と乗り込んだところだった。


「ねぇねぇ、先輩ったら、クロちゃんと五分の盃なんて、本当にすごいことなんだよ。それにあの白い美人。誰なのさ? あの男の人たちも何なのさ?」

「……紅葉ちゃんだって。百合華さんとはどんな関係なのさ。随分親しそうだったじゃないか」

「えっ、私? 学校の友達だよ。親友」


 布津野は、組長も普通に学校に通うんだな、と妙なところに感心した。

 溜息がこぼれる。おそらく、黒条百合華の行動は半分、いや大半が自分に対する嫌がらせに違いない。あの御嬢さんがいつも自分に対して可笑しそうに笑っている事は良く知っている。きっと僕が祭り上げられて右往左往しているところを見て愉快に思っているのだろう。

 冴子さんについては……絶望的なことにあれは、おそらく素なのだろう。百合華の冗談を真に受けて、本当に布津野が中心であると信じて疑っていない。だから逐一、こちらに確認を求めてくるのであろう。そんな無駄は省略して、自由に判断してもらいたい。ついでに、僕が邪魔でしかないという事を周囲に説明してくれないだろうか。

 紅葉が乗り込んできた方と反対側の扉が開いて、もう一人が入り込んできた。明るい茶髪の女の子だった。どことなくすれた感じのする、遊び慣れをした雰囲気を漂わせている。

 布津野は彼女に見覚えがあった。

 その女の子は布津野を見ておそるおそると頭を下げ、布津野の横に座った。

 この娘は……


「先輩、紹介するね。佐伯さんっていうの、私のチームの一員だよ」

「どうも」警戒するように目を離さず、佐伯さんは布津野にもう一度頭を下げた。

「君は……」


 彼女が笑って、泣き崩れた姿は今も脳裏に貼りついていた。


 ——僕が殺した刑事の娘さん。


 ひどく喉が渇きだした。

 彼女は、一週間前、紅葉に抱きついて大声で泣いていた女の子だった。

 その子はどこかやつれているように見えた。茶色に染めた髪は少し痛んでていて少女特有の艶やかさを失っていたし、パーマをあて損ねたせいか細かい切れ毛がはみ出ている。


「佐伯さんはね。最近うちのチームに移ってきたばっかで、学校の友達でもあるの。佐伯さん、この人は布津野先輩。私の道場の先輩で、強いんだよ〜。いざとなったら守ってもらってね」

 反対の耳元から飛び込んでくる紅葉の明るい声が、遠くから聞こえてくる。

「……よろしく、お願いします」


 小さな声でその少女——佐伯さんは呟いた。

 彼女の声は、紅葉の声と違い、ひどく近いところから聞こえてくる気がした。まるで頭蓋の中から響いてくるような、くぐもった、反響音。


「君は……君のご両親は?」

 布津野はそう口走った自分の意図を測りかねた。

「はぁ……母は普通の主婦です。父は刑事です……死にましたけど」

「……」


 あの刑事は、やはり佐伯刑事であり、この娘と親子だった。。

 あの日はクリスマス・イブで、そこは埠頭だったから吹き付ける潮風が凍えるように冷たかった。東京湾の生臭い潮の匂いが不愉快だったことは今でも良く覚えている。

 罪悪感とか躊躇とか、もちろんこの娘が背負うことになる不幸だとか、そういった重いものについて一切考える事はなく、僕は引き金を絞った。

 引き金はオモチャのように軽く、佐伯刑事の命は無くなって、彼女の不幸が残った。


「……そう、ごめん。悪い事、聞いてしまって」と言って、目を背けるように前を見た。


 フロントガラスごしに信号が赤に変わるのが見える。タクシーは停車した。

 自分は今、どんな顔をしているのだろうか。

 自分の犯した罪を棚に上げて、知っているはずなのにあえて尋ねて、視線をそらして誤魔化す。

 僕は、こんなにも残酷で卑怯な人間だったのか。

 その発見に身が凍る思いがした。

 自分という人間は嘘をついても平気で、人を傷つけては鈍感で、責任に対して消極的なのだ。救いがたい事実を目の前にして布津野は思わず笑いたくなった。

 どうしようもない自分だけど、少なくとも悪い人間ではないとは自惚れていた。そんな自分への過大評価を平然としてのける、このぶ厚い仮面が形成する笑顔はどんな風に見えるのだろう。

 気分は最悪だった。自暴自棄というか、自分が出来ることはこのまま死んでしまうことだけなのだろうと、そんな気がした。


 信号が青に変わる。


 車が発進して加速していく。自分の意識だけが取り残されているような錯覚がした。車酔いのような違和感に吐き気がした。


「布津野さんって、すごい人なんですよね」

 佐伯の声が布津野の意識を覚醒させた。驚いて彼女の方を見ると、彼女はうつむいたまま、ぼそぼそと続けた。

「黒条の組長さんとか、なんか凄そうな部隊の人とか、みんなの中心にいて、尊敬されているんだなぁって思った。布津野さんは未調整なんでしょ?」

「……そうだよ」

「へぇ、未調整って、クズばかりだと思ってた」


 気だるげに少女はぼやいた。

 横から車内に差し込むオレンジ色の陽光が、彼女の染め上げた茶髪をくすませている。


「そんな事ないよ、君のご両親だって、」

「あんなの、最低のクズだよ」


 佐伯は下を向いたまま、吐き捨てるように呟いた。

 布津野は絶句した。


「布津野さんって、人を殴ったことある?」

「……あるよ」

「そう、じゃあ、子供は?」

「子供?」

「そ、自分より小さな子供、殴ったことは?」

「そんなの、あるわけないだろう」

「だよね」


 寂しく笑う佐伯の顔に日が指して、明るい茶髪がくすんで見えた。


「親父は、殴ったよ。毎日、家で」

 彼女は声もかすんでいた。

「親父は毎日、私を殴った。帰ってきたら私と弟を殴って、酒飲んで、また殴る。モドキが嫌いで、無抵抗なもどきが私たちだったから。『金払ってんだから、当然だろ。モドキは常識ねぇな』つって弟を組み伏せて何度も殴って、何んだコイツっていつも思ってた」

「……」

「すごい気持ち悪い男だった。まさしくクズってやつ。わけわかんないから、多分、コイツが未調整だから……」


 佐伯は両腕で自分の体を抱きしめて、車窓から外を眺める。まるで自分を何かから守るように。遠いどこかに逃げようとするかのように。


「母親のやつも同じ。お父さんの気が済むまで耐えなさい、としか言わなかった。できるだけ大人しくしていなさい、気に障ると余計に酷い目に合うから、大人しく殴られてなさい。そう言って、グチャグチャにされた弟を何度も病院に連れて行った。馬鹿じゃないの」

 佐伯はそう言うと、ハミングを口ずさんだ後、何かのメロディーにのせて「違うだろ、そうじゃないだろ、母親だろ」と小声で歌った。

 後は、佐伯の鼻歌が車中に流れて、それがまたピタリと止まる。彼女はそのまま吐き捨てるように言った。

「……なんで産んだんだろうね」


 ――ごめんなさい、忠人。産んでしまってごめんなさい。


 そう言ってよく泣いていた母親の姿が、不意に脳裏に浮かんで布津野は思わず口を開いた。


「違うよ」


 佐伯はゆっくりと顔をあげて、布津野を見た。彼女の虚ろな目には、自分の醜い顔が映っている。


「何?」

「僕は、ほら、未調整だろ。同世代の皆はみんな最適化されていてさ」

「……で?」

「僕の母親がよく言ったもんさ。ごめんなさい、産んでしまってごめんなさいって、」

「……」

「母親が謝っても、僕が最適化されるわけでもないし、もう一度出産をやり直せる訳でもない。ついでに言うと、自殺する勇気もなかったから……なんだろうね。ごめん、特に言いたい事があったんじゃなくて、何となくなんだ」

「……」


 佐伯は布津野を覗き込んだ。その顔はやつれてはいたが、最適化された整った顔をしていた。彼女はぼそりと「しょうがないじゃん」とこぼす。

「そうだね」

「どうしようもないじゃん。親父も母親も未調整なんだから。未調整は馬鹿なんだから、あんな奴ら、はやくいなくなった方がいいんだから、しょうがないじゃん。どうしようもないじゃん」

「……」

「なのに、どうして? 未調整のあんたは、そんなにみんなに認められてるの? 紅葉が懐いてて、黒条さんが認めてて、あの白い綺麗な人が従って、みんなが、どうして?」

「……」

「私の親父は、あんなクズだったのに……どうしてよ!」


 少女の虚ろな目には涙を浮かんでいた。

 布津野は息がつまった。何を答えるべきだとか、どう接するべきだとか、そういった適切な答えは馬鹿な自分には分からない。

 だから、自分が言えるのはただの感想だった。

 それは多分、間違っているのだけど、


「君は……ただ、運がなかっただけさ」

 彼女の顔がくしゃりと歪む。

「君のお父さんが問題のある人で、お母さんが欠けたところのある人だったことは、とても運がなかった。僕は未調整で馬鹿だから一人では何も出来ない。だから、僕が優しい人たちに囲まれているのは、僕がものすごい運が良かっただけ」


 佐伯は布津野の肩に顔を押付けた。

 すすり泣く呼吸の乱れが布津野の肩を揺らした。


「僕は頭が悪いから、間違っているかもしれないけど。君はサイコロを何回もふって、ずっと1しか出なかったんだ。逆に僕は、6を連続で出し続けるくらい運が良かった。でも、それでも、君が次に振るサイコロの出る目は、やっぱり六分の一ずつのはずだろ……今までのサイコロは縁起が悪いから、新しいものに替えるべきだけどさ」

「……うん」


 佐伯はそう言って、布津野の肩で何度も頷いた。


「……そうだね。ちょうどクズ親父も死んだしね」

 布津野は目を閉じた。

「やり直してみようかな。今度は布津野さんみたいに6が出るかな」


 彼女はそう言って、顔を上げ、小さく笑ってみせた。

 布津野は彼女が笑うととても可愛らしいことに気がついて、なんだか照れ臭くなって視線を下に降ろした。その途端に、脳裏にあの刑事のニヤついた死に顔がよぎる。いつもこうだ。少しだけ救われた瞬間を狙って、この記憶は蘇る。忘れさせないように、自分を監視している。


「……お父さんの事、本当に、死んでしまったほうが良かった?」


 おそるおそる、布津野はそう尋ねてしまった。

 肯定を期待していたのかもしれない。そう思うと自己嫌悪がぶり返す。


「うん……」


 佐伯が期待通りに肯定したが、布津野は大して救われた気がしなかった。


「親父が死んで、最初は嬉しくて堪らなかった。でもね、納得いかないんだけど、家宅捜査とか、事情聴取とか、面倒なだけの葬式とか、色々なものが取り敢えず終わって、部屋でじっとしていると、訳の分かんないけど、泣いてしまう事があるんだ」

「……」

「するとさ、あんなクズに泣いてる自分が、許せなくてさ。気分は最悪で、それがまた泣けてくる。死んでも最低な男。本当に最悪」

「……それは、君が優しいからさ」


 佐伯は目を見開いて、それからゆっくりと微笑んだ。もう一度、布津野の肩に顔を押付けて、ぼそりと呟いた。


「布津野さんが、私のお父さんだったら良かったのになぁ」



 ◇

「先輩、その眼鏡、似合ってるよ」


 布津野は千葉から渡された眼鏡——タクティカル・グラス・デバイスだったっけ、の位置を調整していた。

 紅葉がそう言って保証してくれたので、その気になってしまうが、彼女は何事につけても肯定的にとらえる人間である。それはおそらく、彼女の大きな魅力であろうし、幼い頃から知っている彼女がそんな人間に育ってくれている事を嬉しく思うのだが……本当に似合っているのか不安にもなる。

 まあ、未調整の自分が多少オシャレなんてものを気にしたところで、豚に真珠というやつだろう。リソースの無駄遣いは地球環境にもよくない。紅葉のお世辞には「ありがとう」と返しておいて、見てくれについては気にしないことにした。

 この眼鏡はウェアラブル型の軍事デバイスであり、僕の見ている視覚情報を他の人に通信共有できる代物だ。見た目は本当に単なる眼鏡にしか見えない。

 要は高性能な眼鏡型盗撮機と思って下さい、と千葉准尉からの的確で身も蓋もない説明を思い出す。


「初めに布津野さんが借金の相談と称して赤羽組事務所に単独潜入します。一階の事務所内の様子を不自然にならないよう、建物内の状況を見てください。この眼鏡型盗撮機を通して内部の映像が全員に共有されるようになっています」


 千葉准尉の布津野に対する要望はそれに尽きた。

 突入作戦において、一階は多くの敵がいる可能性が高く、もっとも困難なポイントになるらしい。突入前に、その状況を把握することは、大きなアドバンテージになる。

 なるほど、それだけであれば、流石の自分にも問題はないだろう。要は借金を申し込むようにして、周囲をよく見渡せばいいだけだ。


「分かりました。ヘマしないように気をつけます」

「ええ、間違っても私たちが突入する前に、相手を殲滅なんてしないでくださいよ」


 千葉准尉がそういって笑いかけるので、布津野は出来るわけがないだろうと、突っ込みたくなった。宮本が隊員たちに何を吹き込んだのかは分からないが、何やらOGA隊員からの自分に対する過大評価を感じる。


「出来るだけ、おとなしくしてますよ」

 千葉は朗らかに笑った。まさか冗談だと思われたのではないだろうか。

「先輩、先輩」

 千葉の誤解について真剣に問い詰めようかと悩んでいると、紅葉が袖を引いて止めた。

「ねぇ、ちょっと……いい?」

「なんだい?」

 紅葉の珍しい真剣な様子に、怪訝に思いながらも応じる。

「ちょっと、あっちの方で、二人っきりの話なんだけどさ……」

「ああ、構わないよ」


 トイレにでも行きたいのかな? 僕もなんとなくトイレに行きたくなった。

 二人は、少し離れた場所に移動すると、紅葉は声を落とした。


「あのさ、佐伯さんのことなんだけど……」

「……うん」

「先輩にね、佐伯さんのこと気に掛けて欲しいなって、お願いなの」


 紅葉はどこか言いにくそうに言葉を紡いでいる。それは、あまり紅葉には珍しいことで、彼女が佐伯さんについて気懸りがあることが何となく察せられた。


「……えっとね、佐伯さんのお父さんってね。誘拐事件の犯人の一人だったの。それでね、チームのメンバーからあまり良く思われてなくて……。ほら、私たちの学校から何人か誘拐された子とかいるから、佐伯さんのこと悪く言う人多かったりするんだ」

「……ああ」

「うん、そういうのもあって、少し居場所がなかったから、私のチームに来てもらったって経緯もあったりしてね。佐伯さんがあんなに人前で笑ったの、本当に久しぶりだったし、流石、先輩だなぁって思ってね。もしかしたら、先輩ならって思ったの。最近の彼女、ちょっと、自暴自棄なところあるから、心配で……」


 ——新しいサイコロで振り直す、か。


 それが決して簡単なことでない事を、布津野は思い出した。

 それが出来れば、誰も苦労しないだろう。父親がいなくなっても、犯罪者の子供だという事実が彼女のサイコロにこびり付いている。きっとその汚れは6の目を覆いふさいでいるのだろう。

 自分が未調整というサイコロを振り続けるしかないのと同じだ。


「分かるよ、うん、大丈夫。ちゃんと、あの子のことも見てるから、大丈夫」


 布津野はそう紅葉に言い彼女の頭に手を置くと、その下で紅葉は、安心したように笑った。


「ありがとう。先輩」

「あんまり、紅葉ちゃんも無理するなよ」

「大丈夫、私は慣れてるから」


 向こうから近づいて来る千葉准尉が見えた。


「布津野さん、作戦開始一分前です。そろそろ潜入の準備を」


 布津野は千葉に頷くと、紅葉に手を振りながら赤羽事務所ビルに向かって歩き出した。


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