三月の雪

 雪が、降っていた。雨に紛れる微かな雪ではあったが、確かに降っていた。はて、三月も暮れのこの時期に雪だなんて、全体おかしな話だ。わずかに枝に残った梅花が雪とともに落ちてゆく。

 窓越しに、白と赤の花弁が散るのを見ながら、私は珈琲を片手に考え込んでいた。ボロ屋に風は吹き込むが、近くで焚かれる囲炉裏が、身体を暖めてくれた。

 ここ最近、私は不安でならなかった。然しまた同時に、根拠のない、不確定な、然し確信的な自信をも併せ持っていた。私はその相反に板挟みになって、圧し潰されていたのだ。

 その矢先に降った雪は、そして底冷えの日に或っても、この身体を温く暖める火は、その板を打ち砕くのに大いに役立った。私は今や、漂う霞のようであった。

「私はどこにでも行けるのだ!なんにでもなれるのだ!」

そう独り、暗く、暖かい部屋の中で叫ぶのだった。雪の中に身体が溶け込んでいくようにも思えた。路に、木に、屋根に、塀に、高く高く積もり上がって、春の朝日に溶かされるのを只管に待つ雪の中に……。

 明くる日の早朝のことだった。私は浮足立って外に出た。朝日に照らされて、一面を覆う雪の分厚い膜が、きらきらと輝いていた。私はその儚い輝きに魅入られて、呆然と、立ち尽くしていた。またも私は、その中に閉じ込められて、水と溶けゆくのを待っているような錯覚に陥っていた。まるで、白昼夢のように、その錯覚に呑み込まれていたのだ。

 数分のようでもあったし、数時間のようにも、数日の間ずっとそこにいたようにも感じられた。知らぬうちに何里も、歩いていたようであった。

 白昼夢のような錯覚から目を覚ました私は、ゆっくりと、家路に就いた。季節外れの雪は、すでに少し溶けかかっていた。

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