第6話 夢想、葬送②
「よ、あっきー。ゲロ吐いたんだって?」
恥も外聞も無い言葉を掛けてきたのは、九条家の嫡男、
「……声が大きいよ、たる兄」
「悪い、でもよかった。元気そうだな」
爽やかな笑顔を向ける赤髪の青年は、耀宗の頭を鷲掴みしてぐちゃぐちゃと掻き回す。耀宗はされるがまま、前後左右に激しく揺さぶられるのだった。
雑談の声が届く範囲に、二人の会話を止められる身分の者はいない。もっとも熾仁の人柄を知る多くの人は、たとえ彼の口から不謹慎な発言が飛び出そうと、気にも留めないだろう。
九条熾仁は、都で最も古い歴史を持ち、最も高位とされる身分を持つ、九条一族の正式な跡取りである。将来を有望視された好青年であるだけでなく、気さくな性格で年下の子供たちの面倒見も良い。人望を一身に集め、何一つ欠けたところがない、完璧な青年だった。歳は耀宗より十も上で、上に兄弟のいなかった耀宗にとっては、兄のような存在でもある。
二人は、鷹司家の敷地内にある長屋の裏手で、これから参列する厳粛な儀式が始まるのを待っていた。長屋の建物で遮られてはいるが、その向こう側の庭からは厳かな雰囲気が漂ってくる。
「熾仁」
地響きのような重低音が辺りの空気を揺らす。その声に呼ばれた熾仁は、耀宗に笑いかけてから振り返った。
「はい、父上」
その声に、先程までの気軽さは感じられない。熾仁は、地響きのような声の持ち主の元へ歩み寄った。熾仁の父で九条家当主、
本邸と長屋を結ぶ渡り廊下から、劉炫を筆頭に、四大貴族の当主たちが姿を表すところだった。
耀宗は、劉炫の顔をできるだけ見ないように、深々と頭を下げる。目を合わせただけで、自分が罪人か悪人になってしまったかのような感覚に陥るので、耀宗はこの人が父親の次に苦手だった。
顔を上げると、ちょうど列の最後に出てきた禮一郎と目が合う。
「……何だ、その頭は」
一瞬何のことかわからなかったが、耀宗は慌てて髪に手櫛を通した。耀宗の頭を鳥の巣のようにした張本人は、こちらに向けておどけたような表情をしながら舌を出してくる。
そんな熾仁を横目に見ていると、どこからともなく年老いた使用人がやってきて、素早く耀宗の身なりを整えていく。耀宗はここでもされるがままだった。
これから始まるのは、数日前不可解な死を遂げた鷹司芳哉の葬儀。芳哉の死については、まだわかっていないことが多かった。
あの日、芳哉が会合に出掛けたことになっていた日は、実際会合などなかった。名称を指定するのが面倒だったために、「会合」という名目で他の集会か何かに参加していた、という形跡もない。ではあの日、芳哉は一体何をするために出掛けたというのだろう。
一緒に出掛けた使用人や護衛たちの話によると、芳哉は明確な目的地があって出掛けたわけではないらしい。きょろきょろと辺りを見回しながら、通りを右に左にウロウロし、同じ道を何度も通ったと言う。そしてある小道の手前で立ち止まり、護衛たちにその場で待つように言うと、芳哉は小道へ一人で進み、それきり戻ることはなかった。
芳哉の遺体は、通りの半ばほどにあった空き地で発見された。護衛たちの言う、彼らの面目を保つための言い分としては、「小道は狭く直線で見通しも良かったために、奥様の単独行動を許した」とのことだった。
遺体の背中には心臓に達するほど深い刺し傷があり、物取りか強盗のよる犯行だったのではないかと、警備局は結論づけている。
芳哉は財布を所持しておらず、犯人は何も取れずにそのまま立ち去った。落ち度は全て、犯行を防ぐことのできなかった護衛にある──芳哉の護衛を務めていた二人の男性は糾弾され、その日のうちに解雇された。
芳哉が何のために出掛けたのかも、犯行を行った物取りの行方も、今の段階ではまだわかっておらず、真相の解明には至っていない。だが護衛を悪者にすることで、事件はひとまずの落ち着きを見せていた。
まあ、この展開に納得のいっていない者たちもいたが。
耀宗も、警備局の見解に全て納得がいった、というわけではない。だが、他に考えている余裕がなかった。
あの日(熾仁の言葉を借りるならば、ゲロを吐いて)以来、脳みそを誰かに握られているかのように締め付けるような痛みが断続的に起きていた。頭だけではなく、時々胸が苦しくなることもある。
突然母親を亡くしたことによるショック症状だと医者は言うが、この体の不調はずっと以前からあるような気もする。
母のことを考える余裕がないのは幸いだったかもしれない。肩を抱いて慰めてくれる母は、もういない。頭や胸のモヤモヤを吐き出す先は、もうない──悲しみや辛さと一緒に母の優しい笑顔が思い出されたが、いつの間にかモヤモヤの中に消えてしまう。
耀宗は虚ろな目を泳がせながら、当主たちの列に加わった。
表の庭へ出ると、一層空気が重くなった、ように感じた。
庭の装飾類は全て取り除かれ、地面も平らに均されている。もう庭というよりはただの更地のようだ。そこへ、真っ黒な服を着た人々が、庭の中央にせり出した離れに向かって整列している。
離れには、白と黒の祭壇が組まれていた。当主たちの列が庭に入ってくると、祭壇を見ながらコソコソと話していた人々も、ピタリと会話を止める。それから皆、一様に顔を伏せた。
いやに静かな庭。祭壇に近づくにつれてきつくなる、線香の匂い。耀宗は思わず顔をしかめた。砂利を踏む足音がうるさくてたまらない。
耀宗の顔が、よほど悲痛にでも見えたのだろうか。過敏になった耳に、貴族たちの心無い陰口が入ってくる。
「……気の毒に」
「奥様、殺されたって聞いたけど?」
「らしいわね……」
「鷹司は奥様が……宮嶋はあれでしょ……」
「ええ……それに
「まあ……もう九条しかアテにならないわね……」
ちなみにこの会話は、耀宗だけでなく、おそらく四代貴族の当主たちには皆聞こえていた。しんと静まり返った庭で、風に揺れる木も衣擦れ音を発する者すらもなかったので、彼女たちの会話はとてもよく響いてきたのだ。
宮嶋家当主、
耀宗は「気の毒に」と思いながら、もうその貴族たちのことなど忘れていた。
思い出がいくらモヤモヤの中に消えてしまうといっても、実際目の前にあれば関係ない。否が応でも思い出してしまう。耀宗の目は、祭壇の頂点に掲げられた写真にではなく、下部に据え付けられた細長い箱に向いていた。
箱の中に横たわっているであろう母親のことを思うと、内臓が捻じ切れてしまうのではないかと思うほどに痛んだ。大勢の前で粗相はすまいと必死に耐えたが、次第に視界まで捻じ曲がってくる。
目の前の祭壇が、まるで絵の具の色が混ざり合うように、視界の中でぐるぐる溶けていく。それでも倒れなかったのは、隣にぴったりと張り付いた熾仁が、ずっと手を握ってくれていたからだろうか。それとも、脳裏に浮かぶ母が、ずっと笑顔で耀宗に語りかけてくれていたからだろうか。
『──大丈夫、私がいるわ』
『──あなたはそのままでいいのよ』
『──お母さんだけは、いつでもあなたの味方ですからね』
『──耀宗、お母さんは、ここにいますよ……』
「……い、おーい」
気がつくと、耀宗は庭の隅の木陰に座っていた。重苦しかった庭の空気は一変し、黒い服の参列者も今はまばらである。
「おい?」
木陰からは、庭全体がよく見えた。
「おいってば」
耀宗はようやく、頭をわしゃわしゃする熾仁に気がついた。
「……あ、たる兄」
「何が『……あ、たる兄』だよ。もう終わったぞ」
終わった、と言われても。
一体何が始まって何が進行していたのか、記憶がない。いや、あるにはあるが、歪む視界の向こう側を他人事のように眺めていただけで、具体的な時間の流れなどわからなかった。
具体的にはわからないが、白樹の光を見るに、時間はそれほど経っていない。日にちをまたいだ、と言うなら話は別だが。光の加減はそれほど変わっておらず、耀宗の意識が飛んでいた時間は、ほんの一時間程度かと思われた。
「起きたまま夢でも見てたのか?」
そうかもしれない。少なくとも、意識はここにはなかった。
「お前さ、またゲロ吐くんじゃないかって顔してたから、ヒヤヒヤしたんだぞ」
吐きたくても、胃の中はほとんど空っぽだった。朝も食事がほとんど喉を通らず、ここ最近ちゃんと食事をとったという記憶もない。
熾仁は、心ここに在らずといった調子の耀宗に目線を合わせ、真剣な顔になって言う。
「耀宗。現実逃避したい気持ちはわかる。だけどな、妹や弟たちの手前、お兄ちゃんなんだからしっかりしなさい」
最後は、両手でパチッと耀宗の頰を叩いた。
その音で目が覚めた耀宗は、無意識に文華と政迪の姿を探していた。しかし、目の届く範囲には見当たらない。
熾仁は耀宗の腕を引っ張って立たせ、二人は共に庭の中心へと進んだ。
「あいつらは宮嶋家にいる。禮一郎様はこれからも色々と忙しいし、子供の相手ができる人もいないからな」
離れの前まで来ると、熾仁は立ち止まった。祭壇から細長い箱が消えている。他にもいくつか装飾の類が増えたり消えたりしているところを見ると、まだ儀式は全て終わっていないようだ。
「お前も行くか?」
熾仁の声に、耀宗は首を横に振った。行きたくない理由が特にあったわけではなく、ただ単に面倒だった。自分の状態さえ考えられる余裕がない今、余計に迷惑をかけることになるかもしれない。そうなると、また父親に借りを作るようで気分が悪い。
全部、自分勝手な言い訳だ。それがわかっていたから、耀宗は何も口に出せなかった。
「そっか」
熾仁は耀宗の頭にぽん、と手を置くと、祭壇に背を向けた。
「じゃあな。落ち着いたら、みんなで遊びに来いよ」
耀宗は、去って行く熾仁の後ろ姿を目で追った。
はっきりと顔を覚えているわけではないが、付き人を含め、九条家の顔ぶれは他に見当たらない。熾仁は、耀宗にずっと付き添ってくれていたのだろうか。
「……なあ、お前の母さんって」
太鼓橋の手前で、熾仁が振り返った。しかしすぐに「いや、なんでもない」と言って正面を向いてしまう。気にはなったが、それを問う気力は耀宗にはなかった。
熾仁の姿を見送ると、耀宗は途端に身体中にだるさを覚えた。何かに掴まりたいと思うと、いつからそこにいたのか、使用人の手がすっと伸びてくる。
使用人が何かを言っても右から左に抜けていったが、先ほど熾仁が振り返った時に見せた、妙に思い詰めたような表情が、いつまでも耀宗の目の裏に付いて離れなかった。
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