第6話 夢想、葬送①
耀宗は、走っていた。
体を動かすことがあまり得意でない自分にしてはやけに軽々と駆けている。そもそも疲労や痛みなどという感覚とは無縁だった。まるで他人が走っているところを真上から見下ろしているような感覚。全体に霧がかかったようで、視野も狭い。その視界も自分の身体も、自由に動かすことはできなかった。
耀宗はここが夢の中だと結論付け、自分の意思で体を動かそうとする無駄な努力を早々に諦めた。
走る先に、黒いもやのようなものが見える。初めは、霧の一部が蠢いて影のように見える部分があるのかとも思ったが、影はそれ単体で何かを形作っていった。
――コノ影ヲ追エ。
本能よりも深い部分で、全身に命令が下される。耀宗の体はより一層緊張したが、まるで他人のもののように全く言うことをきかない。
立ち止まることなく走り続け、やがて黒い影との距離は縮まってきた。影は人の形をしており、耀宗から逃げるように走っている。時折こちらを振り返っては、何かを叫んでいた。振り返っては叫び、叫んでは走り。たまに振り返ることなく叫び声を上げるが、その声は霧の中に乱反響して、正確な言葉を運んでこない。
影は次第に速度を落とし、ほどなくして力尽きたように立ち止まった。それに合わせて耀宗もようやく走るのをやめる。
影は肩を大きく上下させながら振り向いた。
影の後ろには、満々と水を湛えた堀がある。幅が広いため跳び越えるのは不可能であると思われ、近くに橋も見当たらない。影は必死に何かを訴えてきたが、まだ距離があるせいか何を言っているのか皆目つかなかった。
耀宗は一歩、また一歩と、じりじりと黒い影との距離を詰めていく。近づくにつれ、次第に影の輪郭がはっきりしてきた。
一歩。青白い顔が浮かび上がる。まさに顔面蒼白。
一歩。激しく動き続ける口が見える。おそらく向こうにもこちらの顔が見えてくるだろう。
一歩。見覚えがあるようでないような顔は、恐怖と驚きに歪んでいた。
一歩。極端に口の動きが減る。声にならない声を必死に吐き出しているようだった。
一歩。口の動きと共に、明確な形を持って短い言葉が耳に伝わってきた。
──た す け て
次の瞬間、耀宗は右手を振り上げ―――……
はっとして目を開ける。
見慣れた茶色い天蓋、嗅ぎなれた匂い。耀宗は自分の部屋のベッドに横たわっていた。いつもの目覚めと違うのは、まるで今しがた全力疾走でもしてきたかのように、あがりきった息。髪や服が肌にべたべたと張り付き、全身に気持ちの悪い汗もかいていた。
息の塊が細い気道の中でつまり、苦しさのあまり両手で胸を押さえて咳き込んだ。右手には、ほんの一瞬前まで何かを握っていた感覚がはっきりと残っている。布団や枕のような柔らかいものではない。もっと固く、重みのある何かを。
右手の記憶を振り払うように、勢いよく布団をめくって起き上がった。が、立ったわけでもないのに目が眩み、耀宗は再び体をベッドに沈める。
「……耀宗様?」
物音に気づいた使用人が、部屋の外から声を掛ける。耀宗は返事をしなかったが、直後わずかに戸が開いた。
使用人は部屋の様子を伺った後、音もなく戸を閉めてすり足で去って行く。その音が聞こえなくなると、耀宗は再び体を起こそうと、今度はゆっくり上半身を持ち上げた。
なんとかベッドの木枠にもたれかかって呼吸を整える。しばらくすると、ばったばったとやかましい足音に加え、複数の足音がこちらへ向かってくるのがわかった。
予想通り、部屋の主に断わりもなく最初に勢いよく部屋に突っ込んできたのは――
「あやちゃん参上ぉー! お兄ちゃんおはよー!」
寝起きにはいささか刺激的すぎる妹。それから、
「あやちゃん……もうちょっと静かに……」
と、遠慮がちに部屋の中をのぞく弟。
「……」
そして、無言でこちらを見つめる父だった。
禮一郎は使用人に手で合図をし、文華と政迪と共に退がらせると、部屋の中に入って後ろ手に戸を閉めた。
「何があったか、覚えているか」
禮一郎の声から感情を読み取ることはできない。そもそも何を問われているのか理解できなかった。
最初に思い出すのは、直前に見ていた夢の記憶。それも薄れつつあったが、手足に鈍く残る感覚が記憶の糸を繋ぎ止めている。耀宗は糸を手繰るように、右手を見つめた。
そこへ、窓から差し込んできた光がわずかに重なる。
その瞬間、脳内に電撃が走った、ように感じた。耀宗は強烈な痛みに顔をしかめる。
「……覚えてない」
口ではそう言いながらも、耀宗は思い出していた。
迫り来る頭痛の波は、夢の記憶を脳内に逆再生させる。強く何かを握り込み、振り上げた右手……恐怖と驚きに歪む顔……繰り返し叫ぶ黒い影……その影を追って走る自分……そして──
──耀宗の身体は、光の中に消えていった。
「耀宗」
その声で、耀宗は記憶の波から解放される。ベッド脇に膝をついた禮一郎が耀宗の顔を覗き込んでいた。窓から差し込む光を見ても、もう激しい頭痛に襲われることはない。だが、狭まる波の間隔に合わせて荒くなった呼吸は、なかなか整わなかった。
「もう少し休んでいなさい。これから、忙しくなる」
無感情な声でそう言い、禮一郎は耀宗の側を離れた。外に控えていた使用人に声を掛けて、そのまま部屋を出て行く。
禮一郎の後ろ姿をぼんやりと見送りながら、耀宗は再び横になった。すぐに眠気がやって来て、夢と現実の境が曖昧になる。激しい痛みと共に押し寄せる記憶の波すら、すでに境界線上で溶け始めていた。
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