第5話 今日、興、狂④
夕飯後、耀宗は自室へ戻って庭の景色を眺めながら母親の帰りを待っていたが、一向に帰ってくる気配がなかった。
禮一郎も今日は随分と遅い。文華も政迪も、もう寝てしまっただろうか。騒がしい声は、だいぶ前にしなくなっていた。
禮一郎はともかく。
いくらなんでもこんな遅くまで会合はやらないだろう。
ある種の胸騒ぎがしたが、庭の無意味な電飾に意識を集中させて気を紛らせた。しかし視線を少しずらすと、そこはかとない闇が大口を開けて待っているようで、耀宗の不安を煽る。
夜は深まっていくばかり。いつもは嫌悪感しか覚えない庭の景色が、闇に捉われそうな心を現実に引き戻してくれた。
──きっと、母さんは会合の帰りにばったりあの人に会って、面倒な仕事の手伝いでもさせられているんだ。
──いや、もしかしたら話し好きなおばさんにでもつかまって、長話に付き合わされているのかもしれない。
耀宗はなるべく滑稽な風景を頭に思い描いて、不安を上塗りしていく。
その時、まばらに配置された光源の中、庭を進んでくる影があった。一つではない。すぐ後ろに二つ、目を凝らすと庭の向こう側にもいくつか見える。影が近づくにつれて、胸の中で騒いでいた何かの声が大きくなった。
先頭を歩く影は、まっすぐ、耀宗の部屋の前にやってくる。
──こっちへ来るな。
胸騒ぎは悲鳴に近い叫び声を上げている。耀宗は思わず両手で耳を塞いだ。
「耀宗。文華と政迪を起こしてきなさい」
耀宗の胸中の悲鳴など届くはずもなく、禮一郎は冷たく言い放った。
すぐ後ろにあった二つの影は、バラバラの方向へ滑って行く。一人は玄関の方へ、もう一人は使用人や分家の家族が寝泊まりしている別邸の方へ。
「
玄関の方から戻ってきた一人が、禮一郎に呼ばれて立ち止まる。
「先に庁舎へ行く」
「承知いたしました」
そのやり取りの間にも、耀宗はその場を動けなかった。様々な可能性のピースが、脳内で悪い方に揃っていく。パズルの完成を止めることに必死だった。
「……お兄ちゃん?」
文華の声に、ハッとして顔を上げる。
後ろに、政迪もいた。誰かに起こされてここまで来たのだろう。気づけば、家中が慌ただしくなっていた。
庭に面する窓を見れば、もう窓の外に禮一郎の姿はない。代わりに、柊木野と呼ばれた切れ長の目の男性が耀宗たちを待っていた。
胸中の悲鳴は大きくなり続け、吐き気すら覚えるようになる。耀宗は、口の中に染み出してきた嫌な液体を不安と一緒に無理やり飲み込んで、立ち上がった。
禮一郎の部下である柊木野に連れられてやってきたのは、〈公政庁〉本庁舎の地下。
廊下には物騒な面持ちの大人たちがズラリと並んでおり、耀宗たちが通ると、彼らは一層表情を曇らせた。
いつもなら初めて訪れる場所に興奮し出す文華も、深刻な雰囲気を感じ取っているのか、大人しくしている。それが一層、耀宗の不安を駆り立てた。
柊木野は、廊下の一番奥の部屋の前で立ち止まった。
ドアの開いた部屋の中は非常にシンプルで、白い布に覆われた細長い台が真ん中にあるだけだった。台の脇に禮一郎が、部屋の隅に禮一郎の側近の一人が立ち、台を見下ろしている。
禮一郎は耀宗たちを一瞥すると、再び台の上に視線を戻した。
あれほどけたたましく耀宗の胸中を揺らしていた悲鳴が、鳴り止んだ。
「──母さん……?」
自分の口から出た言葉が、やけに遠くに感じる。
台の上に横たわっていたのは、耀宗の最愛の母、芳哉であった。
やんわりと目を閉じ、口元はわずかに緩んでいる。手を胸の前で組んだ芳哉は、本当に、今にも目を開けてあくびの一つでもしそうな表情をしていた。耀宗は息をするのも忘れ、繰り返し繰り返し掠れた声で母を呼び続ける。その声が本当に音となって出ているかはわからない。遠くで聞こえる自分の声、しかし当然その呼び声に反応は無く。
堰を切ったように、文華と政迪が大声で泣き出した。二人の泣き声で、耀宗は我に返る。妹と弟はやり場のない思いを泣き声に乗せて、父親にしがみついていた。
耀宗は不思議と、涙が出なかった。その代わり体の中が激しくかき回される。
二人と同じように泣き叫べば、身体中の嫌な感覚をかき消すことができたかもしれない。やり場のない思いを全部父にぶつけて、少しでも楽になれたかもしれない。だが耀宗は、実際には声を出すことも、その場を動くこともできなかった。
いつの間にか遠い世界の感覚は去り、脳内に悲鳴が響き渡る。他方で内臓をぐちゃぐちゃにかき混ぜられているかのような感覚にも襲われ、全身に鳥肌が立った。
お前の母は、死んだ
弱いお前のせいで、死んだ
死んだ、死んでしまった
もう母は、いない
お前の味方など、いない
三半規管を揺さぶる勢いで、悲鳴が一斉に告げる。
耀宗はみぞおちのあたりを抑えてその場にしゃがみこむと、胃の中のものを全て吐き出した。
誰かが何かを言っている。
どれほど経っただろう。もしかするとほんの一瞬だったかもしれないが、永遠にも感じられるほど長い時間が経過したとも思った、その時。脳内の悲鳴以外の声が、耀宗の耳に届いた。
「──耀宗様」
顔を上げると、タオルを差し出す柊木野の姿があった。いや、柊木野ではないかもしれない。輪郭がぼやけ、顔を判別することができなかった。
耀宗は、廊下の壁際に背中を丸めてしゃがみこんでいた。目の前の部屋(「霊安室 三」と書かれた札が下がっている)のドアは閉じられ、先程までの出来事が全て夢だったかのようにぼんやりと思い出される。思い出したくはなかったが。
記憶を辿る度に何度も腹の底から襲ってくる不快感になんとか耐えていると、柊木野とは逆側から声が掛かる。
「……落ち着いたか」
目だけを動かしてそちらを見ると、禮一郎が腕を組んで立っていた。視界は戻りつつあったが、全身の気持ち悪さはなくなっていない。返事はできなかった。
廊下には、三人以外誰もいなかった。声のしないところを見ると、文華と政迪もすでにここにはいないのだろう。
禮一郎と柊木野は耀宗から少し離れ、小声で言葉を交わす。内容に聞き耳を立てるつもりはなかったが、そもそもその声は単なる音としてしか耀宗の耳に入ってこない。もう、何も考えたくなかった。
ふと、耀宗は目の前の部屋のドアの隙間から光が漏れていることに気づく。廊下には電気がついており、たとえ部屋の中に電気がついていたとしても、こんなふうに光が漏れてくることなどありえない。ありえないはずなのだが、その現象は確かに耀宗の目に見えた。
その光に無性に好奇心を刺激され、身体中の不快感や倦怠感も忘れて、耀宗は吸い寄せられるように部屋のドアを開けていた。
耀宗の姿がないことに気がつき、柊木野と禮一郎が半開きになった霊安室のドアを開けると──
部屋に入ったと思われた耀宗の姿は、忽然と消えていた。
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