第5話 今日、興、狂③
「ママ、いつもの」
北地区に張り巡らされた地下道には、鬼導部隊員御用達の喫茶店がある。カウンター席やソファー席なども設けられ、奥には個室も備えられている。土壁や地面がむき出しのところもあったが、モダンで洒落た内装によく合っていた。激務をこなす隊員達は、任務の合間によくここへくつろぎに来る。
初めてここを訪れようと思ったら、常連の誰かに案内してもらわないと、まずたどり着けない。あるいは適当に迷子になっていたらいつの間にかたどり着いていた、ということはあるかもしれない。地下道の中、急に開けた広い空間の中に、その喫茶店はあった。
店の名は、〈かふぇ・おにおに〉。
昔は「鬼導茶屋」とかいう名前で呼ばれていたらしいが、ここの店主になった女性が勝手に改名してしまった。理由は、可愛くないから、とのこと。
喫茶店と言う割にアルコール類の提供もしているが、それはその店主の女性の趣味によるところが大きい。今では普通に酒屋が出入りし、居酒屋としての機能も充実しつつある。
廉次は、目の前のグラスに注がれたほんのり黄色く色づいた透明な液体を、一気に喉に流し込んだ。
「いいの? この時間にそんなに飲んで」
カウンターの向こう側に立つ女性が、こちら側に身を乗り出しながら言う。
喫茶店の店主にしては妖艶な雰囲気が際立つ女性だった。胸元が大きく開いたイブニングドレスに身を包んでおり、水商売の女と言っても遜色がない。そのせいか、誰が呼び始めたのかは知らないが、客からは「ママ」と呼ばれている。
「飲まないとやってられないんだよ」
廉次は彼女の胸の谷間を見ないようにしながら答える。ついでに、おかわりを要求した。
〈おにおに〉が北地区にあるということもあってか、常連客のほとんどは北部派遣隊の隊員である。鬼退治に能はあるが変人の集まり(少なくとも廉次はそう思っている)なので、廉次は彼らに苦手意識を持っていた。匣舟の役人も然り、話の通じない人間は基本苦手だ。
店内には、ママと店員の若い女性以外、廉次の他に客はいない。貸切状態だった。
静かな店内は事務仕事をするのに向いているが、一つだけ問題がある。
「ちょっと。わかってるとは思うけど」
ママから鋭い視線が飛んで来る。
窓のない地下空間。換気の設備もなくはないが、店内だけでなく、地下は全面的に禁煙令が敷かれていた。もちろん、喫煙所もない。
「……俺のポケットにはタバコしか入ってないのかよ」
ポケットに手を入れただけで咎められた廉次は、これ見よがしにメモ帳と筆記用具を取り出した。禁煙なのは、重々承知である。
「なら、いいわ」
ママは途端に艶っぽい笑みを浮かべ、廉次の前に再びグラスを置いた。
今度は一口ずつ、ゆっくりとグラスを口に運びながら、廉次はメモ帳に目を通す。そこには汚い字で、今日の日付と数十分前の時刻が走り書きされていた。
「遅いわね、あの人」
ママが自分のグラスを手に、廉次の隣に座る。カウンターの向こうには、店で雇っている若い女性が代わりに入っていた。
「いつもだろ」
そう言いながら、廉次はメモ帳から顔を上げる。待ち人が来ないことに呆れたからではなく、えげつない深さのスリットからはみ出す、ママの脚が視界に入ってきたからだ。
待ち合わせの時間を提示してくるのはいつも向こうだが、その時間に来たことは一度もなかった。
廉次の二杯目のグラスが空になる頃、ようやくその人物は現れる。
「おはよう、廉次君」
廉次の待ち人である男性は、待ち合わせの時刻から一時間も遅れたことに謝罪の一言もなく、まもなく日付も変わろうとしているのに朝の挨拶をしてきた。まあそれもいつものことだったが、廉次は小さく溜息をついてカウンター席から降りる。
「こんばんは、長岡隊長」
「ああ、ママ。僕にお水をくれるかい? 氷は抜いておくれ」
皮肉のこもった廉次の挨拶を軽く無視し、遅れてやってきた男性は手近なソファーに腰を下ろす。
「いやあ、歳を取ると冷たいものは節々にキツいのでね」
杖でも持たせたくなるような台詞を吐く男性は(実際には杖は持っていない)、耳障りな雑音と心地よい子守唄のちょうど間くらいの、絶妙なハスキーボイスで言った。
「おはようございます隊長。ゆっくりしてってくださいね」
「どうもありがとう、ママ」
この店の主であるママが、水だけを注文されても全く悪い顔をせず、尚且つ、唯一敬語を使う相手。その男性は廉次の直属の上司ではない。名を
ほうれい線が刻まれた口元を見ればある程度年齢を予想できそうだが、立ち振る舞いや仕草一篇からはそれが感じられない。姿勢を正し、顔には常時うっすらと笑みを浮かべており、その姿だけを見れば実に紳士的で人当たりの良さそうな印象を受ける。
長岡は廉次に向かい側のソファーを勧めると、水の入ったグラスを丁寧に両手で持って飲み始めた。
すでに十分すぎるほどに変わった行為をする男性だが、おかしな点はもう一つあった。一連の動作に、視線が伴っていないのだ。
不自由そうな仕草や他人の手を借りるところを全くもって見たことがないので、廉次は本当にこの人がそうであるか、本当のところよくわからない。だが、長岡の目に光が宿っていないのは事実だった。
目が見えないから北地区を管轄する部隊に入った、と思う者もいる。実際のところそれが理由なのかは定かではないが、都の外に出れば、白樹のない北部地方は真っ暗でどうせ何も見えない。目が見えていようといまいと関係ないのだ。
「それで? 僕に何を聞きたいのかな?」
廉次が重い腰を下ろすと、水のグラスを持ったまま長岡は訊ねた。
変人の集まりとはいえ、鬼に対する知識や経験で北部派遣隊に勝る集団はない。これまで起こった不審な事件の犯人が鬼である可能性を視野に入れ、足りない情報を少しでも補うべく、廉次は長岡を呼び出したのだった。
廉次は資料を見ることができない長岡のために、被害者達の特徴や共通点、非協力的な匣舟の主張などを簡単にまとめて前置きし、自身の見解も含めて話し始める。
「──犯行を行ったのが鬼として、人間に危害を加えるような鬼が都に侵入した形跡はないのでしょうか」
「最近はそんな報告聞いてないね」
「最近は……というと、見逃しているということも?」
「それはあるかもね」
長岡は、廉次に問われたことだけを淡々と答えていく。全ての疑問や質問に対し、言葉を詰まらせるようなことはない。おそらくこの目の前の紳士は、廉次の疑問点を粗方見抜いているのだろう。
「あるかもって……実際あったらどうするつもりなんです」
「僕は、僕の管轄以外でそういうことがあったらそれは把握しきれていない、というつもりで言ったのだけどね」
「……では質問を変えます。長岡隊長は、どう思いますか」
「おや、直球で来たね」
長岡は片方の眉を少しだけ持ち上げ、廉次の質問に対し、ここで初めて間をとる。
「僕は、犯人は鬼ではないと思うよ」
「え──」
予想外の答えに、廉次は驚いて顔をあげた。
未だグラスを両手で持つ長岡の顔から、笑みが消えている。その様子にただならぬ気配を感じ取った廉次は、予想外の答えに対して開きかけた口を閉ざした。
長岡はしばらく何かに耳を傾けるような仕草をした後、目をわずかに開き、濁った眼球を覗かせる。そして低い声で言った。
「残念だけど廉次君、お話はまた今度だ」
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