第4話 虚、一路③

 春の訪れのように、柔らかな風が頬を撫でていく。

 暖かい日だった。

 ここは、家の庭だろうか。

 池の周りには色とりどりの花たちが所狭しと顔を出し、水鳥が水面で戯れていた。

 白樹から漏れる光はまるで熱を帯びているかのように温かく、見る者を柔和な世界へと閉じ込める。


 ぼくはその世界の中心にいた。大好きなものに囲まれて。

 しかし永遠にも感じる時の流れの中、ぼくだけが異質な存在としてこの世界に存在していた。

 花にも鳥にも、池の水にすら触れることができない。

 次第に、風すらぼくを通り過ぎてしまっているような感覚に陥る。

 いやだ。

 ぼくも世界の一部になりたい。

 願いは届いたのか届かなかったのか、世界がぼくに語りかけてきた。


 ──おいで、坊や


 人間味のある甘い香りが五感をくすぐった。

 ぼくは必死に匂いのする方へ駆け寄るが、空から舞う羽のようにつかみどころがなく、走っても走っても追いつくことができない。

 非常に楽しげに、世界はぼくを誘った。

 追いつけないもどかしさはあるが、楽しい時間。

 ぼくはやっと、世界の一部になれるのだ。

 ところが不意に、世界がぼくから遠ざかっていく。

 柔和に彩られた世界はその空間を保ったまま、ぼくから切り離されていった。


 ――おかあさん、どこへいくの?

 ぼくをおいていかないで―――


 必死に手を伸ばすが、短い腕が届くことはなかった。

 至福の時間は終わりを迎えたが、それでもなお決して交わらない世界の一部が、ぼくの中に留まり続けた。



  ◇◆◇



「──ですから、それでは不十分なんですよ!」

 廉次は珍しく感情を顕にした。

 馬鹿が雁首揃えて、言うことはただ一つ。必要な情報はすでに開示済みである、と。

 被害者たちの身辺調査は、周辺への聞き込みでなんとか済んでいる。しかし遺体の状態については、それを回収していく匣舟にしか知り得ない情報がごまんとあるのだ。

「遺体を見せない、現場に入れてもくれない……それでいて協力なんて言葉がよく使えますね」

 廉次は爆発しそうな感情を何とか理性に縛りつけ、歯の隙間から噛み殺した言葉を吐く。

 雁首たちはわざとらしく困ったような表情を浮かべ、面倒臭そうに廉次を見ていた。

 これ以上は粘っても無駄だろう。廉次は失礼します、と言って踵を返した。

 匣舟は、廉次たちの考える事件の連続性について、真っ向から否定していた。羽振りがいいイコールその人の生活は幸せであったと決めつけ、そこに穢れは生まれないと言う。真面目な人間の真面目が故の気苦労をいくら伝えても、頭の固い雁首は話を聞こうとさえしない。

 さらに鬼による犯行の可能性を伝えれば伝えたで、鬼の侵入を許した鬼導部隊を無能だとか阿呆だとか言って、非難するのは目に見えていた。ならばせめて、なんらかの証拠が遺体に残っていないか調べさせてもらえないかと、廉次は警備局を訪れていたのだが。

「……貴族に被害者でも出たら、違うのかね」

 局には、捜査本部すらなかった。

 匣舟の中で、殺人事件などの凶悪事件を担当するのは〈公政庁こうせいちょう〉と呼ばれる役所である。警備局もここに属し、都の治安維持に務めていた。しかし結局、貴族による貴族のための役所でしかなく、小さな事件は体良くもみ消されることも多い。少なくとも廉次はそう感じていた。

 被害者が皆、大谷のような一般の人間だったらまだいいものの(大谷には申し訳ないが)、今後被害が拡大していくことも十分考えられる。都の中心部であからさまな被害でも出れば、匣舟も捜査に本腰を入れざるを得ないだろう。だがそれを待っていることなどできない。

 廉次は足裏を床にのめり込ませるようにしながらガツガツと歩いた。後ろから聞こえる声をかき消すように。

「……まったく、これだから野蛮な連中は」

「一丁前に捜査など……」

「都の外で鬼退治でもしていればいいものを」

 廉次の背中に湿気た視線を刺しながら、誰からともなく口々に悪態をつき始める警備局の捜査官たち。陰口にするつもりもない彼らの態度は、一周回って清々しささえ覚える。

 匣舟は、鬼導部隊が力をつけることを恐れていた。今彼らにとって最も避けたいのは、鬼導部隊が捜査の主導権を握り、解決することで民衆の支持を得てしまうことだ。そこに鬼が絡んでいようがいまいが、ほとんどどうでもいいと思っているのだろう。

 鬼は、都の人々にとって忌むべき醜い存在である。姿かたちは穢れの数だけ様々で、時には人に取り憑いて人を惑わす。具体的には人間を傷つけたり食べたり……するわけだが、都で平和に暮らしているほとんどの人間は鬼を見たことがない。人々は迷信じみた文言で「鬼は怖い」「鬼は恐ろしい」と伝え歩いているだけなのだ。

 匣舟は人々が鬼を良く知らないのをいいことに、鬼に関わる鬼導部隊やその関係者が、鬼と同じように野蛮であると広言して、中枢から遠ざけようとしている。

「……もし本当に鬼が絡んでいたとしてもそれはこちらの失態、か」

 局の外階段を降り、捜査官たちの悪態が聞こえなくなる頃、廉次はひとり言のようにつぶやいた。今都が平和なのは、鬼導部隊が夜を徹して働いているからだ。それなのに奴らは、こちらの活動を制限しておいて、事件を解決できなくてもこちらのせい、事態がもっと大きくなってもこちらのせい、そして──

「見事! 解決できたら匣舟さんがステキー!」

 腰をくねくねさせながら両手の指を胸の前で組み、警備局の建物の外で廉次を迎えたのは千住だった。

「……なんだ」

「お前さ、独り言でかいよ」

 怪訝な目を向けた廉次だったが、千住の声で我に返った。どうやら独り言と思っていた言葉は外に出ていたらしい。ここは匣舟の役所。独り言の内容が内容だけに、危ない橋を渡っていた。

「で、その様子だと?」

「ああ。やっぱりだめだ。期待は端からしてなかったけどな」

 二人は小声で話しながら警備局を後にしたが、人気のない小道に入ると、廉次は腹の内を千住にぶちまけた。

「でもまあ、あんのクソ共のツラぁおがめてよかったよ。ヤツらのアホ面見てたら吹っ切れたわ。これで心置きなくやれる」

「おおお……キミ今、誰かを殺りそうな目をしとるよ」

 廉次から大きく一歩離れる千住。

「ハハ、いちいちハコさんの御機嫌窺う必要なんてなかったんだ。だいたい、俺らと奴らとじゃやり方が違う。今に見てろ……って、あれ」

 ふと気が付くと、隣を歩いていたはずの千住が遥か後方にいる。廉次はいつもの明るい調子に戻り、千住を呼び戻した。

「悪い悪い。でも、口に出したらすっきりした」

「でしょうね一人で抱え込むことなんてないですよたまにはそうやって心の内を晒すことも大切ですよねでないと──」

 千住は口の先を尖らせて、畳みかけるように一息で言った。あとの言葉を廉次が引き継ぐ。

「……どこかのお坊ちゃんみたいだって?」

 千住は口を尖らせたままうなずいた。

 実際、顔を合わせたことはあっても親密な話をしたことはない。千住や美涼、薫とは多少打ち解けているようだが、鷹司耀宗はいつも他人行儀な態度で、子供らしくない少年だったことを覚えている。

「気になるのか?」

 急に黙り込んだ千住を見て、廉次が聞いた。

「んー。まあな」

 なんでも一人で抱え込んでしまう人間は、その性格上、穢れをためやすい。ストレスを発散できる環境がないことも問題だ。千住は、彼が次の被害者たり得ると思っているのだろうか。

 確かにその可能性があるにはあるが、耀宗にはこれまでの事件との関連がまるでない。それに、ウジウジ人間は他にもいるだろう。貴族なので元々生活が潤っていることは、まあ共通点と言えなくはないかもしれないが。

 まとわりつく湿度を取り払うように、千住が片手で顔を仰いだ。

「ジメジメに潤うのも、なんか嫌だよな」

 またでかい独り言を言っていたのか……? 廉次は、自分の心の声に反応するかのような千住のセリフに驚いた。だがそれよりも、千住の方から漂ってくる臭いが気になる。

「ん……? そういえばお前……」

 自分が言うことではないと思ったが。

「煙草臭いぞ」

「む」

 それに、酒臭い。

「……だから寝ろって言っただろ」

 千住は昨夜のハイテンションのまま、南の歓楽街を闊歩していたらしい。普段酒もたばこもやらないこの男は、夜でも眠らない街の独特の空気にすっかり酔い、どこぞのお座敷で昼過ぎまで眠りこけていたそうな。……これは、薫に聞いた話だ。

 染みついた臭いに顔をしかめ、千住は上着を脱ぐ。多分もう二度とその上着に袖を通すことはないだろう。穢れた服だ、とか言いながら二本の指でつまむように持っていった。

 カリバネでも使ったのだろうか。上着をつまんだ千住の姿は一瞬で見えなくなる。

「鷹司の坊やの話、詳しくしそびれたな」

 まあ、明日あたりにでも様子を見に行ってくるか。

 千住がいなくなったのをいいことに、廉次はポケットからたばこを取り出した。

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