第5話 今日、興、狂①
「──かあさ…………ん」
自分の寝言が目覚ましとなって、
耀宗は不確かな記憶を掘り起こすのをやめ、ベッドから起き上がった。
天蓋からかかる邪魔な布きれをよけて、ぼんやりした意識のまま自分の部屋を見渡す。よく言えば片付いているが、悪く言えば何もない。和で統一されたデザインの中に、なぜか洋風のわけのわからない絵が飾られている。まあそれでも窓から見える庭の景色よりはマシだろう。
窓の格子から部屋に差し込む光は、畳の上に美しい模様を映し出していた。見る人が見れば、その高度な趣向に感銘を受けることだろう。しかし耀宗は残念ながら理解できず、光と影の芸術作品を踏みつけながら、適当に着替えを済ませて部屋を出る。
一人になるのは好きだが、自分の部屋はなぜか落ちつかなかった。
「耀宗様……お加減は、いかがでございますか……」
部屋を出た途端、使用人が駆け寄ってきた。確か……いつも弁当を持たせてくれる使用人だ。その必要性は感じていなかったので、名前は覚えていない。
「大丈夫です。ありがとう」
なぜだろう。いつもなら「別に……」で済ませてしまうところなのに。耀宗は、いつもは何とも思っていない使用人に対して、素直に感謝の気持ちを口にした自分に狼狽した。
確かに、気分はよかった。昨日までの重苦しさが嘘のように晴れ晴れとしている。これも、母のお陰だろうか。
耀宗は芳哉の所在を尋ねる。
「奥様は……会合へ行かれました……」
使用人は眉をハの字にして答えた。細い目から心配そうな瞳をのぞかせる気遣わしげなその態度は、わずかに耀宗の神経を逆なでしていく。まるで初めて立ち上がった赤子を見つめるかのようなその目が、嫌いだった。手足の先がピリっと痛み、それを打ち消すように大股で歩きだす。
「耀宗様、本日は学校をお休みするようにと……」
耀宗は使用人を振り切って廊下を進もうとするが、使用人が行く手を遮った。休め、と言われてもあの部屋に戻りたくはない。
外の空気を吸ってくる、と適当なことを言って使用人を避ける。玄関を出たところで、例の護衛たちが鋭い視線を向けてくるのがわかった。
昨日までは敷地内に入ってこなかった彼らだが、おそらく耀宗から一時も目を離さぬよう、釘を刺されたか何かしたのだろう。今日は玄関から門へ続く道の脇に並んで立っていた。
護衛たちの視線を避けるように目を逸らすと、ふと視界の隅で捕えたものがあった。通用口から使用人が出ていく際、たまたま人影が見えたのだ。
「あの方……まだいらしたんですね……」
少し気になってそちらへ行こうとすると、懲りもせず後を追ってきた使用人が言う。
「あの方って?」
「鬼導部隊の方が……。まだお休み中ですから、お帰りになるよう申し上げ──」
美涼だ。
鬼導部隊の知り合いは当然他にもいるが、耀宗はすぐにそう直感した。そして使用人の言葉が終わるか終らないかのうちに、耀宗は駆け出していた。
「美涼さん……!」
勢いよく通用口の引き戸を開け飛び出すと、驚いた門番が飛び上がった。驚いたのは美涼も同じで、自分の名を呼ばれたのにすぐに返事ができなかった。
慣れない大声を出したせいか、勢いに任せて走ってきたせいか。息の切れた耀宗も、次の言葉がすぐに出てこない。
そんな自分に苦笑しながら、耀宗は使用人や護衛たちを片手で制して、美涼を門の中へ招き入れた。
玄関には向かわずに、美涼を伴って庭へ続く道を歩く。
「美しい風景ですね」
落ち着いた頃、先に口を開いたのは美涼だった。池にかかる太鼓橋の上で、二人は足を止める。
耀宗がいつもひねくれた感想しか持ち得なかった庭も、今、美涼というフィルターを通すと確かに美しく見える。橋の上から見た池は、凪いだ水面に周囲の景色を映し、耀宗の部屋にある変な絵よりはだいぶ風情があるように思えた。そういえばこの橋の欄干や支柱にも、普段寝ているベッドの彫刻に良く似た模様が刻まれているので、これらはトータルコーディネートの一環なのだろうか。
「あの石、夜になると光るんだ」
池の水面に映る景色に、夜の情景が重なる。耀宗は、池の周りに点在する人の顔ほどの大きさの石を差して言った。
「夜も、きっと美しいのでしょうね」
柔らかな微笑みを浮かべ、庭を見渡す美涼。耀宗はその笑顔を見て、あの光る石がいかに意味不明なものかを話すどころではなくなってしまった。
「安心しました。お元気そうで」
庭の方に視線を向けたまま、体だけを少し耀宗の方に向けて、美涼は言った。
耀宗も自然と顔がほころんだが、なんと言葉を返したらいいか迷ってしまう。
昨日は迷惑をかけてごめんなさい、と耀宗は心の中だけで呟いた。自分の弱い部分をこれ以上美涼に見せたくなかったのはもちろんだが、すぐ近くでこちらに厳しい目を向けている連中に聞かれたくなかったのだ。
「……耀宗様?」
美涼が、耀宗の顔を覗き込んでいた。どこかの使用人のように眉をハの字にするわけでもなく、腫れ物に触れるかのような不快な目線を送るわけでもない。心の奥底まで見通せそうな澄んだ瞳で、まっすぐ耀宗を見ている。濃い茶褐色の虹彩に、黒真珠のような瞳孔もはっきりと見ることができた。
その瞳で本当に心の中を見られていそうな気がして、耀宗は慌てて目を逸らした。
「やはりまだ……」
耀宗の様子を見た美涼が、心配そうな声を上げる。
「い、いや。大丈夫、です」
美涼の視線から逃れるように、耀宗は再び太鼓橋を渡り始めた。
心臓の鼓動が、耳にまで届くようだった。そして美涼の視線を受け止めた顔から、熱が全身へ広がっていく。耀宗は何度も生温かい唾を飲み込んだ。
さらに一瞬、池が茹で上がってしまったのかと錯覚した。湯気が出ているのが自分の身体からではなく、きっと沸騰した池からなのだと。実際には身体から湯気など出ていなかったが、呼気が視界を曇らせていた。
走ってもいないのに息が切れ、足に力が入らなくなる。耀宗は橋の欄干に体重を預けた。
そうか、まだ具合が悪いんだ。
そのせいで立ちくらみにも似た症状が出たのだと無理やり結論づけていると、耀宗の肩に優しく手が添えられた。
「ダメですよ。私のことは気にしないでください。ちょうど通りがかったので、気になって覗いていただけなんです」
言いながら、美涼は耀宗の肩を支えて歩き始める。
「そうしたら大声で名前を呼ばれたので、驚きました」
いつもより饒舌な美涼の声を聞いていると、耀宗は益々顔の温度が上がるのを感じた。口を挟みたいのは山々だったが、出るのは荒い呼吸のみ。歩くことに集中しないと、足がもつれてしまいそうだった。
太鼓橋を降りたところで、目を三角にした護衛や眉をハの字にした使用人が走り寄ってくるのが見えた。
「あまり、無理なさらないでくださいね」
美涼は耀宗をすんなり彼らに託すと、そう言い残して去って行った。
端々に気遣いと優しさの滲んだ声が、いつまでも鼓膜に張り付いている。美涼の後ろ姿を、耀宗は他人事のようにぼーっと見送った。
ここ数日で、耀宗は自分の弱さを痛感していた。思うようにならず、迷惑や心配を掛けてしまう。自分のために動いてくれる人は大勢いるが(横目で護衛たちを見ながら)、それも自分自身が望んだことではない。
美涼の姿が消えると、意識は次第にはっきりとしてくる。耀宗は意識を奮い立たせ、何か小言を言っている使用人の腕を振り切って歩き出した。
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