第2話 常、日常③
下校時刻。登校時と同じように、
耀宗は、彼らの言葉に適当に相槌を打ちながら足早に校門を出た。そして煩わしさがピークに達しないうちに病院の裏通りに入る。遠回りにはなるが、この通りは日中でも人通りが少ないので、お決まりの通学路になっていた。
「おや、今帰り?」
家の正門がある通りに出ると、見知った男性が耀宗に声をかけてきた。
「はい。お二人はこれから仕事ですか、大変ですね」
世間話にしても挨拶にしても薄情な態度だったな、と耀宗が反省する一方、前に立つ二人は特に気にした様子もない。
長身痩躯の男性の斜め後ろに控えた小柄な女性は、顔にかかる部分の髪を眉の上とアゴの線上できっちり切りそろえ、長い後ろ髪はうなじのあたりで一本に括っていた。耀宗に向かって会釈をする間も、表情に一切変化はない。
男性の方は、色味の落ちた長髪を多少押さえつけ、後ろで軽くしばっていた。どこか貴族の屋敷にでも行くのだろうか、顔には無精ひげもない。一見生真面目で人当たりの良さそうな優男だが、この男がそうではないことを、耀宗はよく知っていた。
長身の男性はくたびれた上着の前ボタンを開けながら、大きな欠伸をする。
「おもってもあいこというおんぎゃあいよ。あー。大変ですね、だって? めんどくさそうですネ、って言いたいんでしょ」
「めんどくさいと思っているのは、
「はいそうでーす」
生真面目のカケラもなく、不真面目な態度を隠そうともしない男。耀宗も呆れ顔を隠さなかった。
彼は
鬼導部隊の活動時間帯は、
貴族の相手をするということは、貴族様方の常識の範囲内、つまり日中にお相手をしなければならない。加えて、鬼導部隊と匣舟は、その理念の違いからか、昔から仲が悪くいがみ合ってきている。千住たちの気苦労は想像に難くなかった。
耀宗はちらっと後ろの女性の方を見た。相変わらず機械か人形のように微動だにしない。
「だってさ、みんなお帰りの時間にわざわざ出かけて、みんなが避ける時間帯にわざわざお仕事して、みんなが嫌がることをわざわざやって、やっと終わった―と思ったら夜が明けるわけよ? この虚しさったら」
部下が何も言わないのをいいことに、ここぞとばかりに不満をぶちまける千住。
「しょうがないじゃないですか、鬼は夜に出るんでしょ」
「はあ、全部匣舟さんがやってくれればいいのに。ねえ、
最低限の知識で専門家に物申すという、多少の勇気を振り絞った耀宗。それでも不平不満がとまらない千住は、己の部下、美涼に話を振ったのだが。
「お言葉ですが千住副隊長。全ての業務を匣舟が行うことに不満を持った者たちが民間で鬼導部隊を結成したと聞いております。現在の部隊の指揮系統も──」
「あーはいはいはいはいはいっ! 君に話を振ったオレが間違ってました。まじめに働きましょう。働きましょうとも!」
美涼のお言葉を途中で遮り、千住は大股に歩きだした。美涼は耀宗に軽く頭を下げて、やる気が空回りしている上司についていく。
他の大人たちと違って、千住は耀宗を特別扱いしなかった。初めて会ったのはまだ小さい頃だが、弟や妹を含め、他の子供たちと接する時と態度を変えないので(彼の元々の性格もあるのだろうが)、話していて不愉快にならない。まあ他の大人からしてみれば、いつも剽軽な物言いをする千住をよくは思わないだろう。千住自身、東の下級貴族の出身らしいので、立場も難しいところにある。耀宗はいつも、一体何をモチベーションにしているのか聞いてみたいと思っていた。
去っていく二人の背中に、耀宗は自分にしか聞こえないような声でつぶやいた。
「羨ましいとも思ってますよ。あの人が家にいる時間帯に外へ出れるんだから」
通用口から中に入り、耀宗は待ち構えていた使用人を無視して玄関へ向かう。本当は庭を突っ切って渡り廊下に向かった方が自分の部屋には近いのだが、以前、玄関に耀宗の履物がないことに気づいた使用人に騒がれ、騒動を聞きつけた父親にひどく叱られたことがあるので、以来ちゃんと玄関へ向かうようにしている。もっともその時の耀宗には、父親の叱責よりも母親の涙の方が数倍堪えた。
白樹の光はだいぶ弱くなり、玄関先ではすでに電灯が人工的な光を放っていた。そしてそこには、耀宗が今一番会いたくない人物が立っている。
「帰ったのか」
手に持った書類から目を離さずに、禮一郎は言った。耀宗はそれには応えることなく、とりあえず脱いだ靴を揃える。しかし昼間の学校での出来事が頭をよぎり、バツの悪い思いがぐるぐると駆け巡った。
「千住さん、来ていたんですか」
体に纏わりつく空気を払いたくて、珍しく自分から話題を持ちかける。あとから思えば、珍しいことをするものではなかった。
禮一郎が手にしている書類には、鬼導部隊の隊章が透けて見えた。先ほど通りで会った千住たちは、耀宗に会う前にここへ立ち寄っていたのだ。
「そうらしい」
禮一郎は尚も書類に目線を這わせたまま応える。らしい、ということは、禮一郎本人が応対したわけではないのだろう。
「客間には、通さなかったのですね」
言わなければよかったセリフだった。
「必要ない」
禮一郎はそう言い捨てると、使用人に書類を乱暴に押し付け、廊下の奥へ消えていった。
昼間の学校での出来事があってから、何かを少しでも期待していたのだろうか。
一体何を? 禮一郎が、耀宗の大嫌いな人種であることはわかっていたはずだ。なのに、何を今更期待するというのか。耀宗はそんな自分を、そして千住たちのことを羨ましいと思った数分前の自分を、全力で否定したいと思った。
揃えたばかりの靴に再び足を入れ、耀宗は玄関を出た。使用人に声をかけられたが、全て無視して通用口へ向かう。これから出かける当てもないが、どうしてもあの場にいたくなかった。
楽しげな話し声が降って来て、耀宗は足を止める。声は
「……なので、今日も、お待ちしているんです……本当は……でもあの方とは……あなたは今日も……」
会話、ではないようだ。若い女性の声が一方的に何か話している。注意しなければ聞こえないような声だったが、耀宗はその声に心当たりがあった。
そっと宮嶋家の裏門から顔を出すと、顔なじみの使用人がにこりと笑いかけてきた。鷹司家の出入口で待ち構えている連中とは違う。同じ使用人なのに、宮嶋家の使用人たちは耀宗の神経を逆なでしなかった。
二階のある屋敷は、鷹司家の正門からすぐ近くのところにあり、通りからもよく見える。使用人たちは不用意に付いて来なかった。また耀宗にとっても通い慣れた道だったので、軽く会釈をすると、小走りにそちらへ向かう。
鷹司家は平屋造りなので、二階のある家は新鮮に見える。さらにこの二階のある屋敷が、
特に趣味も娯楽も、ついでに言うと友と呼べる友も持たない耀宗は、時間ができるとよくここへ来ていた。というか、他に行くところはない。それを知っているのかそれとも宮嶋家の使用人が気を利かせているのか、この時間にも関わらず、鷹司家の使用人たちも特に追いかけてこなかった。
一階の玄関につけられた洒落た形のノッカーを二、三度鳴らし(小さな鳥のような形をしていた)、一歩下がって待つ。数秒後、メイド姿の女性がドアを開けて耀宗を招き入れた。
緩やかにカーブした階段を登り、二階の廊下へ出る。廊下の窓からの景色も見事なものなのだが、薄れていく光の中では、ぼやけた木々の輪郭を見ることしかできなかった。
「あ、あなたは」
本来障子を貼る木枠にガラスをはめ込んだ、洋風と和風が入り混じった引き戸を開けると、先客の女性が振り向いた。
「
いつもの機械のような無表情とは違う、人間じみた柔らかな眼差しを向けるその女性は、千住がいつも連れている美涼だった。両足を脇に流して座り、後ろ髪の先は畳に触れるか触れないかのところで揺れている。
そしてその隣には、ぼーっと窓の外を眺める少年が座っていた。
「はい、鷹司耀宗様。いつもお世話になっております」
美涼は律儀に体の向きを正して一礼した。固い口調は変わらないが、その声はどこか落ち着いた雰囲気を含んでいる。
この人、こういう顔するんだなあ……と、耀宗も若干狼狽えながらあいさつを返す。
「こんにちは。僕は特に何もお世話してませんし……耀宗でいいですよ」
畳六畳ほどの広さの室内には、小さな箪笥と照明器具以外、目立った家具はない。廊下側でない三方には外に面した窓があり、今は全て閉じられていた。
氷瀧の視線を遮らないよう注意しながら、耀宗は美涼の隣へ腰を下ろした。
「あ……お邪魔でしたか?」
「いいえ。今副隊長をお待ちしているので、こうして氷瀧さんとお話を」
千住は宮嶋家の本邸にでも行っているのだろうか? 待ち合わせの時間まではまだ少しあるという。
「話……といっても、こいつ何もしゃべらないでしょう?」
「ええ。ですから私が勝手にお話しているのです。耀宗様と同じように」
「ああ……」
氷瀧は確かに何もしゃべらない。話しかけても反応はなく、いつもぼーっとどこかを眺めていて意思疎通もできない。だが、なぜか隣にいると気持ちが落ち着き、自分の素直な気持ちを話すことができた。だから家で嫌なことがあったり学校生活でストレスがたまったりすると、こうして隣家を訪れて、物言わぬ少年に話しかけていたのだった。
「何も言わないのが、いいのかも」
「そうですね」
美涼は、千住と二手に分かれて貴族の屋敷を訪ね歩いていたのだそうだ。
鬼というものをよく知らないくせに過敏に反応する貴族連中に、鬼導部隊の仕事について懇切丁寧に説明して、その後の活動をしやすくするためだと以前千住は言っていた。それを話す時の千住が辛酸と苦渋を交互に舐めるような顔をしていたので、おそらく彼の本意ではないのだろう。
「美涼さんも、よくここに来るんですね」
氷瀧の部屋で美涼と顔を合わせるのはこれが初めてだった。だが耀宗は、時折こうして美涼がここへ来ていたことを知っている。
「はい」
少しはにかんだように微笑んでから、美涼は頷いた。
半年ほど前、二階の窓から見渡せる通りで千住を待っていたところ、ちょうど宮嶋家の
その後は特に言葉を交わすこともなく、ゆったりとした時間が流れていった。身も心も落ち着いて、やがて白樹の光が弱まり外灯が灯る頃、美涼が立ち上がる。
「では、私は戻ります。遅い時間ですので、耀宗様もお気をつけて」
「家、目の前だから。大丈夫ですよ」
窓ガラス越しに見える自宅の門にも、もう明かりが点いていた。
氷瀧にさよならを言い、二人は揃って別邸を後にする。千住は宮嶋家に来ていたわけではないようで、美涼は別の場所へ向かっていった。
角を曲がった美涼の姿が見えなくなると、耀宗も自宅の通用口をくぐる。出迎えた使用人はだいぶ焦ったような顔をこちらに向けて来たが、耀宗の足取りは軽かった。
家の中は電気がついていた。その煌々たる明るさとは対照的に、廊下の奥からは暗い空気が漂ってくる。また、いつもならどうでもいいことで喧嘩をする妹弟の声の一つや二つが響いてくるのだが、今日はそれもない。
無駄にライトアップされた庭を前面に見渡し、扉や窓が開け放たれて本来開放的な空間であるはずの居間兼食堂は、重苦しい空気の元凶のせいで、くつろぎの空間という称号を奪われてしまっていた。
元凶は重々しく口を開く。
「遅かったな」
なるほど、そういうことか。
部屋には家族全員がそろっており皆何も言わなかったが、
どうやら耀宗は、夕食の時間に遅れたらしい。
「どこへ行っていた」
禮一郎が耀宗を見もせずに言う。
「……お隣のお屋敷です」
耀宗も禮一郎を見ずに応えた。
「あの阿呆に近づくな」
阿呆、とは氷瀧のことか。
氷瀧がああなってしまったのは不幸な事件のせいなのに、周りの大人たちは「呪いのせいだ」とか「元々頭がおかしかった」とか勝手なことを言い、疫病神扱いしている。噂が噂を呼び、話は悪い方に膨らむばかり。こと悪い噂話に関しては、退屈な貴族たちにとって格好の話の種だった。
実際、社交界での宮嶋家の信用は下がり、少なからずその地位に影響を与えていた。
――あんたに近づくよりよっぽどマシだよ。
耀宗は指先がピリつくような妙な不快感に襲われたが、極力表情に出さないように取り繕う。
「阿呆が感染ったか」
無言でいる耀宗に対し、禮一郎は皮肉めいた嫌味を吐いた。同時に目の前の空いた席を顎で指す。はやく座れ、と言っているのだ。普段ならばここで、苦汁を嘗める思いをしながらも自分を制して席に着くところだが。
「……あいつは阿呆じゃない」
震えた声が口から出る。
母親、妹、弟、使用人たち――その場にいた誰もが、はっとした。耀宗が口答えという明確な形で禮一郎に反抗したのは、驚くことにこれが初めてだった。
禮一郎の嫌味の矛先は、なぜか芳哉に向く。
「阿呆はお前か、芳哉」
「申し訳ございません……私の教育不足です、どうか……」
名指しされた芳哉は消え入るような声で謝罪の言葉を述べる。
耀宗は指先の不快感を打ち消すように固くこぶしを握り締める。殴りかかる、とでも思われたのだろうか。その様子を見た使用人が何人か身構えるのがわかった。
「……なんで」
耀宗が発したのは、先ほどの芳哉よりも小さな声。
「なんで、母さんに言うんだよ……」
耀宗の口からはそれ以上何も出ず、握りしめられたこぶしが開かれることもなかった。重い重い最初の一歩を後ろに踏み出すと、あとは弾かれたようにくるりと振り向き、そのまま部屋を出る。本当は捨て台詞の一つも吐いてやりたかったが、それさえも出ない自分に嫌気がさした。
すでに白樹の一日は終わっていた。この時間帯に屋敷の敷地を出る勇気はない。だが自分の部屋に戻ればすぐに使用人がやって来る。
耀宗はやり場のない感情をじっと内に押しとどめ、次第に早足に廊下を進んだ。
長い廊下が、いつもよりずっと長く感じられた。
渡り廊下を進んだ先にある、離れ。誰にも会いたくない、そう思ってたどり着いたのがここだった。
廊下の左右に見えるのは、先代の当主が趣向を凝らしたという趣味の悪い庭。電気代がバカ高いこのご時世に無駄に散りばめられた電飾、蚊の揺りかごにしかならない微妙な大きさの池、専属の庭師が丹念に整えたというよくわからない形の木――いつもはそれほど悪く思わない景色も、今は何もかもが煩わしい。
離れへ続く扉は、開いていた。近づくにつれ、畳の匂いが強くなる。庭の景色を楽しむために造られたというこの離れは、普段は心地よい開放感を与えてくれるのだが、そこから見える庭はすべてが色のない世界に押しやられたように曇っていた。
どうしようもなく胸が苦しくなって、耀宗はその場に座り込んだ。
反抗心を持っていても、結局何もできない。言いたいことは山ほどあっても、口に出せない。その一線を越えてしまえばどれだけ楽になれるか、わかっていても一歩を踏み出せない。自分の何もかもが惨めで、許せなかった。
耀宗は、握られたままの拳を何度も自分の足に打ち付けた。今は、誰よりも自分自身が一番憎い。
叩き続けた太ももの感覚がなくなる頃、渡り廊下を歩く足音が聞こえてくる。今更他のどこかへ逃げ出そうなどという考えは起きなかったので、足音の主が部屋に入ってくるのを静かに待った。
「やっぱり、ここにいたのね」
部屋の隅でうずくまる耀宗に、芳哉が優しく声を掛けた。そして震える小さな背中を抱き寄せ、隣にふわりと腰を下ろす。
「……母さん」
喉の奥から声を絞り出した。
「耀宗は、お父さんが嫌い?」
「……」
芳哉の問いに、耀宗は答えなかった。答えられなかった。
父親が大嫌いなのは事実。けれどそれを口に出してしまったら、大好きな母親に軽蔑されてしまいそうで怖かった。
こぶしはさらに固くなる……と思いきや、反対に力が抜けていく。芳哉のあたたかい手のひらが、耀宗の小さな拳に重ねられたのだ。
「あなたはそのままでいいのよ」
耀宗は母の手の温かさに次第に緊張が解けていき、胸のつかえまでもがほぐれていくのを感じた。
「あなたがお父さんのことを嫌いになっても、自分のことを嫌いになっても……お母さんだけは、いつでもあなたの味方ですからね」
手のひらから伝わるぬくもりはやがて全身に広がっていき、耀宗は母に身を委ねて目を閉じた。身体が楽になっていくのと同時に、頬を一筋の涙が伝う。
意識が緩やかに遠退いていく。耀宗は全身を覆う心地よさに逆らうことなく、ゆっくりと眠りに落ちていった。
「大丈夫、私がいるわ」
芳哉は子守唄をうたうように、静かに声をかける。
「あなたはいろいろと溜め込んでしまうから……そのうち穢れがたまって鬼を呼んでしまうわね」
愛する我が子の寝顔を見ながら、悪戯っぽく笑った。
大丈夫、大丈夫―――。
穏やかな微笑みで我が子を見つめながら、芳哉は繰り返し繰り返し語りかけた。
庭の幻想的な雰囲気に抱かれながら、夜は深まっていった。
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