第2話 常、日常②

 かつて、都の周りは海だったという。今では城を囲う堀や、都中に張り巡らされた水路にその痕跡を残すのみとなっているが、遥か彼方まで延々と続く黒い海に、都が一つの島のようにぽつんと浮かんでいた時代があった。

 方々にも小さな島がいくつかあり、都への往来はただ一隻の舟のみがその役目を負った。それ故に舟は、人々の生活に欠かせない重要な架け橋となる。建築資材や食料の運搬、交易、交通──舟の用途は多岐に渡った。誰が呼んだか舟の名は〈匣舟はこふね〉。他に舟を造ることは許されず、匣舟は次第に権力を持つようになっていく。

 時代は移り変わり、海がなくなった今でも匣舟はとある組織にその名を残していた。

 都の政治や経済の中心となりさらには警察権まで行使する、都の生命線をほぼすべて担う巨大組織。誰が呼んだか名乗ったか、匣舟はこの組織を指す名前となった。

 半ば洗脳のように叩き込まれ、幾度となく説明されてきた、匣舟の成り立ち。説明文を今すぐ紙に書きだせと言われても、多くの子供たちがすぐにでも一字一句違わず実行できるだろう。


 耀宗あきのりも、その一人であった。

 鷹司たかつかさ家三兄弟をはじめとする貴族の子供たちは、物心つく前から匣舟の教育機関に通わされている。学年が上がるにつれてより専門的で高度な教育が行われる仕組みだが、ベルトコンベアーか何かのように、ただ乗っていれば用意された場所に行きつくことができるそのシステムが、耀宗はあまり好きではなかった。

 親の言うとおりにすれば、将来は約束されている。反対に、親に背いたり、頼るべき親がそもそもいなかったりする子供たちには、過酷な未来しか残されていない。そんな馬鹿げた風潮を容認する、今の都の社会も嫌いだった。

 学校へ向かう耀宗の足取りは重い。耀宗が通う中等部の校舎は南地区にあるが、【空傘からかさ】に隣接しているので、鷹司家からは病院の脇の道を進んですぐのところだった。歩いても大した距離ではない。朝の出来事があったとしても、鉛の靴を履いていると思わせるほどの疲労感が耀宗を襲う理由。

 耀宗は“学校”という場所が嫌いだった。

「おはようございます、耀宗様」

「耀宗様、ごきげんよう!」

 このように、チヤホヤしてくる連中がウヨウヨいるからだ。

 この学校に通う生徒は貴族ばかりだが、鷹司家はその中でもより高位の家系。序列は九条くじょう家に次いで二番目、都の四代貴族に名を連ねる一族だった。

 しかも耀宗は本家の跡取り。毎朝恒例のイベントが今日も始まる。

「耀宗様、ご機嫌麗しゅうございます」

「耀宗様、本日も穏やかな日和ですね」

「お早うございます、耀宗様!」

 親に言われたのか、親の手前自発的に言っているのか。たかだか十四、五の子供がよくもまあこれだけ媚びへつらうことを覚えているものだ。

 学校という子供の社会も大人の社会同様、わけのわからないしがらみに取り憑かれている。

文華あやか様、おはようございます」

「おはよー」

「あやちゃんおはよう」

「おっはよー」

「今日は少し元気がありませんね、文華さま」

「そー?」

「だいじょうぶ? あやちゃん」

「ぜんぜんへーきだよー!」

「おはよー!」

 すぐ隣の敷地にある初等部の方から、同じような──

 ……いや、同じではない。フェンスと生垣を挟んだ隣から聞こえてくる喧騒は、中等部のそれとは様子が違った。中に文華の名を呼ぶ声があったが、彼女は持ち前の明るさでうまくやっているようだ。耀宗はそんな妹を少しだけ羨みながら、周りの人間を無視して突き進んだ。

 耀宗は、自分の家が高位の貴族である、ということは知っていた。わざわざ学ばなくても、広大な敷地、父親の厳しい態度、そして周りの人々の態度からもわかる。小さい頃はそういうものだと思っていたが、段々と知識や経験が重なるうちに鬱陶しく思うようになっていった。それでもまだ鬱陶しい程度だったが、耀宗が人々のそういう態度に嫌悪するようになった理由は別にある。母親や他の兄弟たちに対する周囲の態度が、耀宗や父親に対するそれと明らかに異なることに気付いたのだ。

 周りの態度だけならまだマシだ。たとえ分家、親戚にしても遠い存在なので割り切れるし、適当にあしらっていい顔をしておけばそれでいい。それはそれで疲れるが、被るのは自分だけで済む。しかし、実の父である禮一郎れいいちろうも不愉快極まりない周りの大人たちと同じ……いや、それ以上にひどかった。

 耀宗は鷹司家の嫡男で正式な跡取りだが、妹は政略結婚の道具、弟は単なる予備でしかないのだろう。もちろん母も、後継ぎとなる子供をつくるためだけの──

 耀宗はそこまでで思考を打ち切った。考えれば考えるほど嫌悪感が増して気分が悪くなる。代わり映えのしない人ごみを適当によけながら、教室へ向かった。

 教室でも媚びへつらい隊は相変わらずだが、授業が始まれば干渉してこない。授業自体、勉強自体は嫌いではなく、むしろ好きな方だった。話を振ってくる一部の教師には放っておいてほしいと思うが、休み時間を人目の少ない場所で過ごせば、苦痛に満ちた時間は終わる。耀宗はそうした場所に、あらかじめ目星をつけていた。



 昼休み。一段と長いこの休み時間が、耀宗にとっては最悪の時間だった。

「耀宗さまあ!」

 またか。

 耀宗は呆れ顔を隠せなかった。昼休みになる度にいつもしつこくまとわり付いてくるので、見つからないうちに教室を出るつもりだったのだが。ちなみに、名前は覚えていない。

 授業の合間の短い休み時間なら、見つかってもほんの少し我慢していればいいのだが、昼休み中張り付かれたのではうるさくてかなわない。耀宗は、なるべく他の生徒たちにまぎれるようにして教室を抜けた。

「……ん?」

 教室を出てしばらくして、耀宗は違和感を覚えて振り返る。

 いつもなら、馬鹿丸出しの大声を上げながら追いかけてくるはずのあいつが、今日は来ない。まあ、それはそれで都合がよいのだが。

 休み時間に過ごす場所は何箇所かストックがある。同じ場所に通い続けると見つかる確率も高いので、数日おきに変えるようにしていた。

 一番のお気に入りは、中等部校舎の裏手にある大きな木の陰、隣の初等部の校舎からも死角になっているこの場所なのだが、昨日はとうとう見つかってしまった。そろそろ新しい場所を探さなければならないかもしれない。

 今日は誰もついてくる気配がないので、耀宗は木の根元のちょうどよいくぼみに腰を下ろした。

 面倒見がいいと言えば聞こえはいいが、悪く言えばお節介な使用人が毎日持たせてくれる弁当の包みを広げる。栄養バランスはきちんと考えられているようだが、たいしてうまくも不味くもない。不特定多数の生徒がうろつく食堂には死んでも行きたくないし、購買もまた然り。だがどんな文句を並べたところで、これ以外に食べるものもない。耀宗は仕方なく、弁当の蓋を開けた。

 できるだけ時間をかけて弁当を食べ、時間が過ぎるのを待つ。そうして、耀宗は鐘が鳴り終わるか終らないかの時間ギリギリに教室に滑り込んだ。

 いつもならそのすぐ後に眠そうな声で授業開始を知らせる老教師が来るはずなのだが。老教師には違いないが、昼休み明けの眠たい時間にはとてもつらい、キンキンと声を張り上げる老齢の女教師が教室に入ってきた。

「教科書はしまいなさい。さあ、席について」

 すでに鐘は鳴り終わっているので、全員席に着いている。それでもそう言ったのは、教頭である自分に注目を集めるためだろう。

 もちろん耀宗はこの手の教師も好きではない。

 注目を集めるのには成功したが、所詮は子供。烏合の衆がそう簡単に静かになるわけがない。

「あれ、教頭先生だ」「なんで?」「櫻井先生は?」「授業しないんですか?」「お腹すいた」「次の授業何だっけ」「眠い」「全員席についていますよ」「皆さん静かに!」「眠い」

 生徒たちは各々勝手なことをしゃべっていた。

「お静かに」

 教頭はより一層鋭い声色で注意する。身長は高くはないが、栄養が行き渡っているのか心配になるほどの細身な体。顔には深くしわが刻まれ、白髪交じりの短い髪は一生型崩れしそうにないほどしっかりと撫で付けられていた。背筋を正して胸を張る姿は、さながら巣穴から出て見張りをする小動物のような印象も受けるが、小動物のようなかわいらしさは一切ない。教壇から生徒を見下ろし、自信に満ちた表情で、バランスよく鼻の上に乗った眼鏡の奥から目を凝らしていた。

 生徒の喧騒の間に一瞬の隙を見つけ、教頭はその瞬間を逃さなかった。

「悲しい、事件がありました」

 声色を絶妙に調節し、教頭は話し始める。事件と聞いて、教室はまた騒がしくなった。

「事件!?」「大丈夫なのですか?」「どういう事件ですか?」「眠い」「重蔵は?」「授業しないんですか?」「みなさん静かに!」「事件ってなんですか」「お腹すいた……」「さっきお弁当食べたじゃない」

 教頭はそれらを制することはなく、一段声を落としていかにも深刻そうに話し始めた。

「昨日の、お昼休みのことです。警備室から、とても大切なものが、なくなってしまいました」

 教頭はたっぷり間を持たせながら、イライラするほどゆっくりと言葉を紡いでいく。生徒たちは次第に深刻な雰囲気に乗せられて、教頭の話に耳を傾け始めた。

「皆さんの成績や、個人情報など、学校にとっても、皆さんにとっても、とても大切なものを保管しておく、金庫。その鍵が昨日、盗まれたのです」

 生徒たちのざわめきが大きくなる。それには一切気に留めた様子もなく、教頭は同様のペースで話を進めた。

「ただ紛失したのではなく、盗まれたのです。警備員が、わずかに目を離した、その隙に。問題なのは、それだけではありません。その鍵が、本日のお昼休みに、、一部が破損した状態で、発見されました」

 ここで教頭は、一段階声のトーンを上げた。

「心当たりのある生徒は、名乗り出なさい」

 名乗り出ろと言われて名乗り出る犯人など、余程間抜けな奴でない限りいるわけがない。教頭ももちろんわかっているのか、理不尽にも犯人が名乗り出る時間を与えることなく続ける。

「では誰か、怪しい人物を目撃した、あるいは、犯行を目撃した、という生徒は、いませんか」

 さすが匣舟に属する教師。これではまるで取調べではないか。教頭はここぞとばかりに間を取り、じっくり教室中を見渡す。もう好き勝手に話をする生徒はいなかった。自分に無関係だとしても、教頭の発する圧力に負けて自白してしまいそうな、いつの間にかそんな雰囲気になっていた。

「あの……教頭先生? 外部の人間による犯行、ということは考えられないのですか?」

 張りつめた空気に耐えかねて手と声を上げる生徒がいた。この手のクラスに一人はいる、真面目な女子生徒だ。彼女はよく、率先してクラスをまとめたがっていた。

「何? あなた、何か、気になることでもおありなの?」

 質問に質問で返す教頭は、行きつくべき答えに誘導しているようだった。

「いえ……」

 矛先が自分に向くのを恐れた女子生徒は、すぐに手を引っ込めた。耀宗は、彼女にもう少し粘ってほしいとも思ったが、他人のことは言えない。

「気になることは、なんでもいいのですよ。たとえそれが、確信に触れないとしても、答えに近づく手段としては、十分役に立つものです」

 教頭は、をすでに知っている。生徒たちは皆そう思った。

「誰からも見られていない、というのも十分、容疑者になりえます」

 教頭が提示したに、何人かの生徒は気づき始める。だが声を上げる生徒はいなかった。その様子を見て、教頭は静かに核心をつく。

「昨日のお昼休みに、誰も、はいますか」

 既に問いかけではない。教頭は勝ち誇ったような表情を浮かべ、教室の一点を見つめた。他の生徒も、つられて同じ点を見つめる。ある生徒はまっすぐに、ある生徒は遠慮気味に、ある生徒は驚いた様子で。

「鷹司耀宗さん。あなた、昨日のお昼休みは、どちらにいらしたの?」

 全員分の視線を重みとして身体に感じていると、ゆっくりと近づいてきた教頭が不快な猫なで声で訊いてきた。

「校舎裏の、木陰に」

 耀宗は教頭の方を見ずに答えた。

「おひとりで?」

「いえ……」

 昨日は一人ではなかった。いつもしつこく追いかけてくる生徒がいた。

 一人静かに弁当を広げていると、突然背後から「耀宗さまあ!」と馬鹿丸出しの声をかけてきて、それから昼休みが終わるまでずっと一緒だった。苦痛の時間だったので、それだけは覚えている。だが、その生徒の名前どころか、顔も思い出せない。いつも意図的に避けてきたので、覚えているはずがなかった。このクラスの生徒なのか、そうでないのかさえわからない。

「では、本日のお昼休みは?」

 教頭の声が、追い討ちをかけるように降り注ぐ。耀宗は答えたくなかった。

 沈黙していると、教頭が肩に手を置き、静かに言う。

「詳しくは職員室で伺いましょうね」

 それ以上は反論するのも面倒だったのと、肩に置かれた教頭の手の湿度がこれまでになく不快だったので、耀宗は素直に席を立ち教室を出た。

 教室は、静かなままだった。



「私は、己の身分や権力を振りかざす人間が、大嫌いです」

 そこは、職員室ではなかった。昼間だというのに薄暗い小さな部屋。中央には机、それを挟んで向かい合う形に置かれた二つの椅子。まるで取調室だ。もっとも耀宗は、本物の取調室を見たことがなかったのだが。

 教頭は部屋へ入るや否や、後ろ手にドアを閉めて言った。

「あなたなら、何をしても許されると思いましたか? お父様が、何とかして下さると?」

 教頭はドアに近い方の椅子に座り、耀宗に奥の椅子を勧めた。口調は穏やかだが、確信と自信に満ちた響きだった。耀宗は苦虫を噛み潰したような面持ちを悟られないよう、できるだけ平静を装って椅子に体を預ける。

「お家でも学校でもちやほやされて、さぞ気持ちがいいでしょうね。ですがいいですか、あなたはまだまだ子供。身分や権力とは、あなたのお父様を指す言葉です。あなたは子供で、私の生徒。ご自分の身分をはき違えた振る舞いはおやめなさい」

 反論は、山ほどあった。

 まず、耀宗本人から確認を取らないうちに、決めつけたような犯人扱い。していいことと悪いことの区別くらい持ち合わせているつもりだし、父親に頼ろうと思ったこともない。ちやほやされるのも、つくづくうんざりしていた。

「あなたのその、度を越した振る舞いが、お父様の誇りを穢しているのですよ。おわかりになって?」

 度を越しているのは、周りの方じゃないか……。

 教頭の理不尽な言い方に、喉の奥が締め付けられるようだった。耀宗自身が望んでやったことは、一つもない。特別扱いしてほしいなどと一度も言ったことがないし、思ったこともない。

「自分ではありませ──」

「言い訳は結構。昼休みにあなたを目撃したと言う生徒は一人もおりませんでしたそれに」

 やっとのことで声を絞り出した耀宗を遮り、語気を強めた教頭は一息にまくし立てた。そして、一人の生徒を部屋の中へ招き入れる。

「勇気を出して、この子が証言をしてくれました。あなたの犯行を、目撃した、と」

 教頭は猫なで声に戻り、一言ずつはっきりと、驚く内容を口にした。

 つまり教頭は、端から耀宗を犯人だと確信した上で、クラスの皆の前で茶番を演じていたのだ。

「……確かに、見ました……彼が……」

 部屋に入ってきた生徒の顔が窓から差し込む明かりに照らされると、耀宗の脳内に電撃が走る。ぼうっとしていた記憶の中の輪郭が生徒の顔と重なり、悔しさと恥ずかしさに頭が真っ白になった。

 少し涙目になり、俯いて手をもじもじさせているその生徒は、いつもしつこくまとわりついてくるあの生徒だったのだ。

 その後の教頭の言葉は、全てが遠い世界の出来事であるかのようで、何一つ頭に入ってこなかった。いつも耀宗を取り囲んでいたのは、身分や権力の恩恵にあずかろうとする弱くて面倒な連中だ。気にも留めず、相手にもしなかった。しかし彼らも、決して味方ではなかったという訳だ。

 耀宗は友達だの仲間だのという面倒なつながりを敬遠してきた。上っ面だけの薄情な人間関係を避け続け、その人の真意や本心を知ろうともしなかった。

 そのツケをこんな形で突き付けられるとは思わなかったので、耀宗はたっぷりと教頭の期待に応えて動揺を見せていたのだろう。耳元に吹きかけられる教頭の猫なで声で、一気に現実に引き戻される。

「認めますね?」

 耀宗の無言を肯定と受け取ったのか、教頭は満足そうな笑みを浮かべた。

「親の身分で、偉くなったつもりでいましたか? それは大きな間違いですよ。あなたは何の権力もないただの子供なのです。幸いここは教育の場ですからね、私がしっかりと教えて差し上げましょう」

 両肩に教頭の手汗が染み渡っていくのを感じる。もう何を反論しても無駄だろう。一刻も早くこの部屋と教頭から解放されたい気持ちでいっぱいだった耀宗は、何ら抵抗することなく静かに座っていた。

『……大丈夫ですよ。恩師となり得る存在は、すぐそばにあるものです……あなたがこれ以上道を間違わないように、導く者の存在は不可欠………私がいる限り、あなたが間違うことは今後一切ありません………そして大人になった時、思うのです……あの時あの先生が…………』

 両肩から、部屋の空気から、教頭の本心が伝わってくる。いや、実際教頭が口にした言葉だろうか。もう、どうでもよかった。耀宗は教頭の目論見を見抜くことができなかった自分に絶望し、全身から力が抜けた。所詮、自分はまだまだ子供だったということだ。

 その時、何の前触れもなくドアが開けられる。

「教頭先生。今、権力を振りかざしているのはあなたですよ」

 窓からの逆光のせいで耀宗から顔は見えなかったが、ドアを開けた人物は、教頭の勝ち誇ったような態度を揺るがすことのできる人物だった。

「校長先生……」

 ゆっくりと部屋に足を踏み入れた校長は教頭に負けず劣らずの細身だったが、ピンと背筋を伸ばしている教頭とは違い、猫背気味でどこか柔らかい雰囲気を持っていた。

「教師の権力を生徒に振りかざすようなあなたに、教育を語ってほしくはないですねえ」

 まだそれほど歳をとってはいないだろうに、くたびれた背中だった。人当たりのよさそうな口調で話す校長だったが、教頭とは異なる種類の圧力を感じる。

「権力の恩恵にあずかろうとしているのは、あなたもでしょ。ここで恩を売ったつもりですか? まあこの子は、あなたに恨みこそ抱けど、感謝はしないでしょうねえ」

「こっ……」

 教頭は抗弁すべく薄い唇を動かしたが、短い声を発したにとどまった。その理由は、校長に続いて部屋に入ってきた人物にある。

「校内での出来事とはいえ、窃盗事件ですからねえ。わたしの旧知の仲でもある、公政庁こうせいちょうの方にお越しいただいたんですよ」

 禮一郎だった。校長と知り合いだったことは今初めて知ったが、有無を言わせぬ威圧感を放ち、堂々とした立ち姿の人物は、逆光を受けていても間違えようもなく耀宗の父だ。

「校長先生、心配は無用です。もう解決しましたから」

 動揺を取り繕うように早足で駆け寄った教頭が言う。禮一郎はなおも無言だったが、校長は先ほどから変わらぬ調子で相槌を打った。

「ええ、そのようですね」

 そして、くたびれた背中を左右に揺さぶりながら部屋の隅に歩み寄った。そして、わけがわからないという顔で見上げる生徒に向かって、校長は静かに言い放つ。

「犯人は、君ですね?」

「こっ、校長……!」

 しわが刻まれた口周りを一層引き締めて詰め寄る教頭を目の動きだけで制して、校長は続けた。

「前期は成績が振るいませんでしたね、伊集院いじゅういん君? それを親御さんに知られたくなくて、あるいは誰にも知られたくなくて、金庫を誰にも開けられないようにしたのでしょう?」

 伊集院と呼ばれた生徒は表情こそ変えなかったが、手や足は小刻みに震えていた。

「あーいや、それに初めから耀宗君に罪をなすりつけるつもりで、鍵を壊しましたね? 彼がいつも一人でいるのを知っていたから」

 震えが全身に及び、ついには表情までも崩れる。図星をつかれた伊集院は校長を睨みつけることで、精いっぱい無言の抗議をしていた。

 抗議をしているのは彼だけではない。

「しかし校長先生」

「耀宗君にはアリバイがありますよ。彼は昨日も一昨日もそして今日も、わたしと一緒にいたのですから」

 教頭を遮って校長が述べた言葉は、耀宗にとっても驚くべき内容だった。校長はさりげなく、耀宗に向かって意味ありげにウインクしてみせる。

「早計でしたね、教頭先生。この話はまた後ほど」

 校長の言葉は、教頭から生気を奪うのには十分だった。校長よりもくたびれた背中になった教頭は、力なく後退し椅子に倒れ込んだ。

 さらに校長は、すでに両目から涙をあふれさせている伊集院少年にもとどめの一言。

「ひとつ言っておくことがあるとすれば、金庫のカギはひとつではありません」

 伊集院は教頭同様に、支えを失ってその場に崩れ落ちた。

 校長は耀宗にニコリと笑いかけ、部屋の外へと促す。教頭は、自信に満ちた態度も教師としての威厳も奪われ、ひどく小さく見えた。何か言ってやりたかったが、うまく言葉を紡げない。代わりに口を開いたのは禮一郎だった。

「私が権力を行使する分には、構いませんね」

 教頭も父親もどちらも大嫌いな大人だったが、今だけは父の言葉が嬉しかった。

「教育は、あなたにしていただかなくとも結構」

 未だ席を立てないでいる耀宗を一瞥すると、禮一郎は踵を返して去って行った。

 すっかり圧力から解放された部屋は、入る前よりも暗く狭くなって見えたが、耀宗の心持ちは少しだけ穏やかになっていた。だが、自分だけではどうしようもなかった事態を思い返すと、やはり悔しさがこみあげてくる。その気持ちを奥深くに押しとどめ、耀宗は部屋を出た。

 ドアのすぐ横に、校長が立っていた。

「校長先生……僕は、先生と一緒にいたことは」

 校長と並んで歩きながら、耀宗は遠慮がちに言う。すると校長は指を一本立てて口に当てるしぐさをした。

「気づきませんでしたか? 校長室からは、毎日、よーく君のことが見えていましたよ」

 誰にも見つからない場所、と思って探し当てたスポットが、まさか校長室から丸見えだったとは。そもそも校長室はどこにあるのだろう? 一昨日は、今日とは違う場所にいたのに……。

 耀宗は深く考えるのをやめた。

 伊集院とかいう生徒が自分をハメようとしたことも、それを教頭が利用しようとしたことも、既に関心の外へ追い出されつつある。耀宗は、明日からはまた休み時間を過ごす場所を考えないといけないな、と呑気なことを考えながら教室に戻るのであった。



 教室に戻ると、既に話は伝わっているのか校長が話したのか、それにしては伝わるのが早すぎやしないかとも思ったが、いつも通りクラスメイト達が駆け寄ってくる。

「耀宗さん、とんだ災難でしたね」

「耀宗様を犯人にしようとするなんて、どんでもない奴ですね!」

「そいつ、最悪」

「私は耀宗様を信じておりました」

「お気持ちお察しします……!」

 それぞれ都合のいいセリフを言いながら、次第にそれもいつもの光景へと溶け込んでいく。

 今はなぜか、悪い気はしなかった。

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