覚えている(明治30年の榎本と大鳥)
大鳥に引っ張ってこられたのは、大阪の造船所だった。最初、身分を隠して梅田に来いというから、何やら遊びに連れ回されるのだとばかり思っていたが、よもや磯の香りを嗅ぐとは。
「どういうことだい、大鳥さん」
「いやあ、ちょいとばかし。忙しないってのに来てくれて嬉しいよ」
そりゃあ多少無理をしても都合をつけるってもんだ。大鳥とは出仕してすぐは互いを労うために定期的に飲んではいたが、すぐにお互い忙しくなって、私用ではめっきり会わなくなっていた。
「しかし榎本さん……あんた、立派な格好してきたな」
眉を寄せて嫌そうに言う大鳥は、水兵見習いかというようなくたびれたシャツに擦り切れたサスペンダー。どうして位階持ちのお前がそんな服を持っているんだ。対する榎本は一目で手入れされていると分かるジャケットに、肌触りのよさそうなシャツ。革靴は榎本が持っているものの中では一番くたびれたものを選んだが、それでも磨かれたそれは存在感を放っている。変な遊びならば舐められるような恰好はできまいとの、榎本なりの判断であった。
「君が用を言わないからだろう」
「それはまあ、ちょっとあんたを驚かせたくてな」
コロッと表情をおどけさせた大鳥は、くるりと振り向いて「やあ」とか「今日は堪忍な」とか言いながら、作業員の集まる方へ歩いていく。置いて行かれた榎本は、一呼吸おいてようやく大鳥の後を追った。作業員は見慣れない男二人になんだなんだと振り返る。埃っぽい床に二人分の足跡がつく。榎本の革靴も、すぐに白くなってしまった。
「すいませんねえ。急に言ったんに、おおきにな」
大鳥は棟梁風の男に声をかける。男は大鳥を追ってきた榎本を見て少し怪訝そうにする。
「小林さん、またあんたお偉い方っぽいのを連れてきたねえ」
小林。榎本は大鳥を見る。小林は確か彼の実父の姓だ。大鳥はウインクした。こいつ、いけしゃあしゃあと。大鳥の横に追いついた榎本は、自身も名乗らなくてはと頭を掻いた。しかし、榎本は生まれた時から榎本である。何と言おうか……と周りをちらと見て、ここが造船所であることに思い至る。
船。榎本の中では、船と言えば開陽であった。開拓使、外交官とどれだけ船に乗ってこようとも、榎本の頭にいるのはぴかぴかの開陽。思い起こすのは軍艦頭となって開陽を見上げた時のこと。
「……イズミです」
榎本は棟梁に向かって口を開いた。目の端で大鳥が可笑しそうに笑いをこらえている。
「和平の和に温泉の泉って書いて、和泉です。今日はどうも」
右手を差し出せば、棟梁は嫌な奴じゃなさそうだとその手を握った。今日俺は和泉だ。それこそ「いけしゃあしゃあと」和泉守なんて名乗った、青二才の俺だ。
「じゃあ、早速こっちだよ。小林さん、和泉さん」
棟梁は造船所の奥へ二人を連れていく。そう言えばまだ用を聞かされていない。
「しかし小林さん、俺は驚いたよ。急に知らない男が船の解体を見せてくださいと来るもんだから」
「いやあ、思い出の船なんですわ。これを見届けなきゃあ成仏もできないってね」
榎本は前を行く大鳥の表情を見た。飄々としていながら、目に微かに力が宿っている。俺を呼び出したのだから箱館関係だとは予想はついていた。しかし陸軍方の彼が、どうして造船所なんか。しかも船の解体ときたものだ。
棟梁が「ほらよ」と奥を指さした。するとそこにはひらけた空間。中央には、ぼろぼろになった木造の船。榎本は立ち止まった。動けなかった。三本あった帆柱は二本になり、美しかった彫刻は跡形もない。
「蟠龍」
面影を失ってもなお榎本には気品が見えた。三十年前共に北の海を駆けた、確かにそれは蟠龍丸であった。
「覚えているかい」
大鳥は問う。そうか、そういう事だったのか。
「覚えているさ」
三十年前の、あの戦いの跡。俺たちが奥歯を噛み締めて生きようとした跡。その跡がいま消えようとしていた。過去に、なろうとしていた。
「なんだ小林さんたち、御一新前の付き合いかい」
棟梁は目を丸くする。そうして、俺たちに蟠龍のその後を教えようと言葉をつづけた。
「この船は箱館で一度燃えてねえ、それから上海で直されて、開拓使に拾われてまた日本に戻ってきたんだ。そこから名前は「雷電」よ。軍艦として西南の役に行ったりしたが、最後はぼろくなっちまったってんで商船としてたらい回しにされて、ついにここで解体ってわけさ」
そうか蟠龍、いや雷電。お前は長く旅をしてきたんだな。でも俺は知っていたよ、棟梁。だって俺はこいつと箱館に行った。開拓使としてこいつに乗った。こいつは澤さんのせがれだって乗せた。生きる決断をした俺たちと、こいつは共に生きようとしたんだ。俺たちは死んだ仲間の分まで。こいつはきっと、あの洒落た船長の分まで。
『榎本さん、こいつはいい船だね。俺はすっかり一目惚れしちまった』
楽しそうに言う男の声、波の音、風にたなびく帆布の音。今でも耳が覚えている。ありありと思い出せる。
「……じゃあ棟梁、お願いします」
いつになく緊張した大鳥の声。こいつは、俺をどんな気持ちでここに呼んだのだろう。
「あいよ。お前ら! 始めるぞ!」
棟梁が声を張り上げると、準備万端とばかりに作業員は動き始めた。ついに、終わりがはじまる。
蟠龍。雷電。俺はお前を覚えているよ。共に必死で生きてきた、仲間として。
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