追憶探訪(現パロ・榎本と黒田)
海をつぶてのような雪が叩きつける。そして雪は昏い海の波間に沈んでゆく。白波を立てる海は凍りもせず、淡々と、そして複雑に、海面を絶えずうねらせる。
見つめていると、吸い込まれて、藻屑となってしまうような。
「榎本さぁ、撮れもしたー」
後ろから気の抜けた男の声がする。その声に引き戻されて思い出した、ここは冬の日本海。はるばる遠く函館の地であった。
「おう、ありがとよォ了介」
振り返らずに声を張る。そうでもしなければ波の音に掻き消されてしまうからだ。依然目が離せない海は、一層闇色に見えた。
「よし、今日は宿に戻るか」
振り返って声の主を訪ねれば、すぐに分かるもじゃもじゃの髪に、にへら、という言葉がよく似合う笑顔。
「わっぜ寒か、汁物でも作ってもらいもんそ」
寒さで赤くなったその顔はずび、と鼻をすする。それに笑いをこらえながら駆け寄っていく。
「そうだなァ、今日の寒さはちと堪える」
了介は年季の入った一眼レフを手持ちのトートにしまう。俺もかじかんだ手をポケットにしまって、もじゃもじゃの隣に並んだ。
「榎本さぁ、顔真っ赤」
もじゃもじゃは無遠慮にプッと笑いを漏らした。
「それはお前もじゃねえか!」
奴の腰あたりを軽く小突くと、えー? と自分の顔をべたべたと触り始めた。触って分かるもんか。こっちまで笑ってしまうじゃないか。
「ほら、帰ろうぜ」
少し小走りに進む。振り返らずともおいかけてくるのが足音で分かる。それにペースを合わせながら、のんびりと停めてきた車へ向かった。
函館にはずっと来たかった。何で見たのか忘れたが、百何年か前、俺と同じ苗字の男がここで戦ったのだという。それだけだ。しかし、それだけが俺を突き動かした。深く青い海を、鈍色の空を、刺さる寒さを、この身に焼き付けなければいけないと、俺と同じ苗字の男を知ってから、ずっと思ってきた。そして、就活を控えた大学三年生の春休み、思い立って飛行機に乗った。一つ下の了介を連れて。
了介は写真が趣味だという。だから連れてきた。九州育ちらしい彼は北の果ての写真なんて撮ったことが無かっただろうから。函館に行くぞと誘ったとき、やけに嬉しそうにしていたから、間違いない。その後やたら寒さがどうだとか、心配してきたのは腹が立ったが。
俺たちの泊まっている旅館は街のはずれにある。玄関を開けて中に入ると。客もなく張り合いも無かったのか、退屈そうな顔をしたおやじさんがのそのそと歩いてきた。
「ふうん、随分しばれてたんだな」
しばれる、というのは気温が冷え込む、みたいな意味らしい。俺と了介は思わず顔を見合わせて苦笑した。
「おやじさん、食堂ってまだ開いてるか。このまんま風呂浴びんのは具合が悪いや」
おやじさんは俺たちの赤い顔を交互に見て、ふふんと薄く笑う。
「運が良かったな、あと十分だ」
マジか、と俺と了介は急いで雪まみれの靴を脱ぎ始めた。ジーンズの裾にもこびりついていて、ほろうのに手間取る。おやじさんはクツクツと喉の奥で笑いながら食堂の方へ歩いて行った。何か言づけてくれるのだろうか。
まだー? と壁にもたれる了介に急かされながらようやく裾の雪を落とし終わって、食堂へ向かう。と、その途中のロビーのソファに今朝は見かけなかった顔が座っているのに気付いた。見たところ自分と同じくらいの歳らしい。手に何か難しそうな本を持っているのがちらと目に入った。
「新しい客かな」
寂しい旅館なのにな、なんて失礼なことを言いながら隣を歩く了介を見る。と、何やら不満げというか、不機嫌な顔。
「なんだ、お前の知り合いか?」
「…いや、何でもあいもはん」
そうは言っても眉間の皺は確かだ。きっと何かあるのだろう、あまりあの客のことは言わない方がいいな。
食堂に着くとおばちゃんがにやにやしながら温かいみそ汁を出してくれた。とろろ昆布が入っていて、微かに鼻に抜ける磯が心地いい。体の芯まで沁みてゆくようだ。
「美味いな」
向かいに座る了介を見やると、再びゆるい笑顔に戻っていた。
「うまかぁ」
内心ほっとしつつ、時計を見るともう少しで大浴場が開く時間だった。
「落ち着いたら風呂入るか」
「じゃあ、その後は酒でも」
「良いけど、程々にしろよ。お前悪酔いするんだから」
分かりもした! とはつらつとした了介だが、どこまで分かっているんだか。呆れつつ、こいつを連れてきて良かったな、と思ったりもした。一人で来ていたら、このあたたかな笑顔が無ければ、俺はさっき昏い海に飛び込んでいたかもしれなかった。
香る出汁と和やかな時間を享受する。しかし、その一方で、先ほど見かけた新しい客の事がなぜか気にかかるのだった。
ざぶん、と湯が波打つ。腕を広げると、うっすらと濁った温泉が全身をくまなく包んでいく。思わず息を漏らした。湯けむりで辺りがおぼろげに揺れている。
「榎本さぁ、おっさんみたい」
先に湯船に漬かっていた了介が可笑しそうに言う。さっきの吐息を聞いたのだろう。湯けむりの向こうにいるようだ。もじゃもじゃ頭も頭を洗ったことでなりを潜めているらしく、奥に大柄な男のシルエットだけが見える。
「何だと。お前とひとつしか変わらねえじゃねえか」
むきになってそのシルエットに近づいていく。湯をかき分けるたび、ざぶんざぶんと波は広がっていく。船の先になったようで気もちがいい。
「だって、それで『生き返る』なんて言ったら、まこちおやっどみたい」
「お前なあ!」
何か言い返してやろうと近づいて、ぎょっとした。陽気に笑う了介は先程の自分のように両腕を大きく広げ、そして、その鍛えられた肉体を露わにしているのであった。
思わず自分の体に目をやる。人並みに運動はしてきたつもりだ。決して貧相な体つきではないと自負している。しかし、どうだ。目の前の男と比べたら。
「榎本さぁ?」
きっと取っ組み合いの喧嘩なんかしたら、すぐに組み伏せられてしまうのだろう。まあ、そんな事後にも先にも無いのだろうが。
「了介、お前、隆々だなあ」
空いてしまった間を誤魔化すようにおどけて了介の顔を見る。もじゃもじゃ髪は大人しくなって、後ろにかき上げられていた。普段は髪のボリュームに目が行ってあまり意識していなかった、精巧な顔つきがよく見える。
どぎまぎとした俺の気もちなんか気づいちゃいないのだろう。了介は目をぱちぱちさせて、それから自分の体をじろじろと見た。
「えー?」
「お前、高校までは剣道してたんだっけ。今でも鍛えてんのか?」
「いやあ、特には。おいはそうでもなかですよ。まだまだな方じゃっで」
「へえ……」
比べて俺は先輩風吹かしている割に。男のプライドみたいなものが分かりやすくぐらつく。
と、脱衣所の方の扉がガラッと開く音。誰かが入ってきたらしい。そろそろ夕時だ、飯前にひとっ風呂という奴でこれからごった返してくるだろう。そろそろ上がろうかとも思ったが、肩まで漬かりきった湯が放してくれそうにない。やわらかな泉質だという半透明な湯はどこか琥珀のように色づいていて、疲れた体をほぐしてくれるような気がした。
「榎本さぁ、今日の夕飯はどげんもんやろうか」
「そうさなあ。函館だし、イカや魚が嬉しいなァ」
湯船の奥の壁は、上の方が窓になっていて空の様子が見えた。夕焼けの紅色がじわじわと広がる藍色に溶けている。薄暮の空の微かな光を、トワイライトと言うのだそうだ。北の地が暮れる。いちにちが終わっていく。
「ああ、イカはよかねぇ。東京じゃあなかなか新鮮なのは食えもはん」
楽しそうに了介が笑う。その顔が逆光でやわらかく暗くなる。何でもないようなそれを、見ていたいと思った。
後ろでざぶんと音がする。先ほど入ってきた男が湯船に漬かったのだろう。どんなおやじさんだとそちらを見やって、驚いた。先ほどロビーで見かけた青年であった。いや、客なのなら入ってくるのは当然なのだが、こんなにすぐ顔を見ることになるとは思わなかった。
すると、横から腕を引かれる。見ると、了介であった。打って変わって難しい顔をして、いま入ってきた男を見ている。俺の知らない了介の顔だった。
「……酒、美味いとよかね」
「ん、ああ、そうだな」
「今日は飲みもんそ。酒は百薬の長じゃっでな」
男がちらとこちらを見るのが、目の端で分かった。
「はは、なんだそれ……」
本当になんなんだ。変に重くなってしまった空気に居心地の悪さを覚える。了介とあの男に、何があったんだ。
「上がるかぁ。のぼせちまう」
ぐっと腕に力を入れると、了介はすんなりと手を離してくれた。ざばっと勢いよく立ち上がると、微かに目の奥がふらりとする。これは本格的にのぼせたかな。ざぶざぶと湯の中を歩き、湯船から出ようとする。
「よぉ、兄さんたち。観光かい」
すると、男に話しかけられた。見ると、了介と同じくらい良い体格をしていて、ハリのある黒髪をかき上げた、切れ長の目の男であった。同じ男の自分からしても、女に受けそうな顔であることが容易に受け取れた。男の口調は、俺と同じように、江戸っ子みたいに舌が回った喋りかたであった。
「ああ。兄ちゃんもかい?」
「いや、俺は地元のモンでね。ここの酒には期待しない方がいいぜ。まぁ、飯は美味いから安心しな」
どうやら、酒を楽しみにしていた俺たちに忠告してくれたらしい。そう思うと、自然と力んでいた肩の力も抜ける。
「へぇ、そうしたら酒は嗜む程度にしようかね。ありがとよ兄ちゃん」
軽く手をひらつかせて、脱衣所へ向かおうと一歩濡れた床へ踏み出す。
「随分若くなったなあ」
ん、と再び男を見る。湯けむりで表情はよく見えなかったが、少しだけ眉が下がっているような気がした。
「何でもねえよ。じゃあな」
そう言って男は湯船の奥の方へ湯をかき分けていき、湯けむりの奥でよく見えなくなった。俺のような、船みたいな風でなく、足音を殺すように、静かに進んでいくようだった。
不思議な男だ。ひとまず脱衣所へ出よう。再び歩みを濡れた床へ。火照った足の裏がぴちゃりと床に触れて、微かなつめたさを吸い取るようだった。
温泉宿の浴衣はいくつになっても心が躍る。明らかな非日常と、ゆったりした形による解放感。運ばれてきた熱燗は確かに美味いとも不味いともつかなかったが、それでも俺は気持ちよく酔っていた。
ただ、目の前の了介が今一つ判然としない。対面に座って、楽しそうに笑ってはいるのだが、心ここにあらずと言ったふうで、時折ぼおっとする。乾いて威勢を取り戻したもじゃもじゃの髪だけが元気だ。今だってお猪口を手に持ったまま、ぼんやりとしている。
「いやあ、イカに生姜も合うなあ!」
「そうじゃっどなあ」
「なんで東京じゃ見かけねえんだろうな」
「そうじゃっどなあ」
酒好きの了介のくせに、その杯も進んでいない。思い浮かぶのは、やはり先程の風呂場のこと。
「了介お前、さっきの男と知り合いなんだろ」
「そうじゃっどなあ……あ、」
やってしまった、と了介は口を押さえる。
「まあ、深くは聞かねえよ。お前にも喧嘩の一つや二つあるんだろう」
徳利を手に取る。畜生こんなに熱くしやがって。ちりちりと指を刺す熱さをこらえる。
「まあ、ほんのこて大きな喧嘩やったなあ」
「ただな、了介!」
よいしょ、と了介の隣に座る。了介はぎょっとした様子で目を大きくさせている。ざまあみやがれ、これでお前もさっきの俺と同じだ。
「おめぇさん、誰と飲んでんだ?」
俺の分の熱燗を、了介のお猪口に入れてやる。そうして、了介の手ごとひっ掴んで、ぐいっと飲み干してやった。
「あっち! 一気に飲むもんじゃねえな!」
口のあたりを左手でパタパタと仰ぎつつ、右手ではまた了介のお猪口に酒を注いでやる。
「ほらよ」
ぱっと了介の手を離す。急なことにびっくりした様子の了介であったが、しずしずとお猪口に口をつけた。
「……熱かぁ」
「ま、湯冷めしなくて良いだろ?」
カラカラと笑うと、了介はふうっと息を吐いた。
「じゃっで、おいは貴方から離れられんとじゃ」
「離れてくれるなよ。頼りにしてんだからさ」
バシッと背を叩くと、了介は困ったように笑った。それが、風呂場の男と似ていた。自分だけ知らない何かがある事が無性に腹立たしい。だが、知らないものは仕方ない。今はありふれた酒を酌み交わす、このありふれた時を楽しみたい。そう心から思ったのだ。
「ほら、イカ食えって。味わって食えよ」
「さっきも食いもした……あ、甘かあ!」
「な! こりゃあ山葵じゃもったいねえ、さっぱりした生姜で正解だ」
「あ、榎本さぁ」
「なんだ?」
「さっきの、アルハラ」
「う、お前もそういう事言うんだな。すまなかったな!」
「はは、冗談じゃ」
「なんだよ!」
(もうちょっと、もうちょっとだけ書きたい)
(けど力尽きたのでここら辺で)
(がんばって完結させるぞ)
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