たそがれ(非国民と幽霊の一蔵と松菊)

 夕焼けが空を蝕んでいく。薄い青色にペンキをぶちまけたように朱、紅、そして藍が頭上を覆っていく。その爪に浚われぬよう急いで農機具を片付けて家の中へ。

 電気の通らないこの家は僅かな囲炉裏の火だけが頼りだ。ろくに本も読めないから東京から持ち帰った僅かな学問書も埃を被るだけ。

「お菊、その中身はなんだ」

 一足先に帰っていた妹が鍋をかき混ぜていた。微かに味噌の匂いがする。

「……大根の味噌汁」

「お、いいね。味の染みた大根は最高だ」

 ニッと笑ってみせるが、この妹は此方を少しも見ようとしない。今は慣れたが、帰ってきて直ぐの頃はかなり堪えた。

 彼女が言うに、僕は「非国民」だそうだ。この村の連中も皆そう思っている。身体検査に引っ掛かって従軍出来なかった僕を無遠慮に罵る事が、何故か許容されている。

 妹に母は農機具の泥落としでもう少し外にいることを伝え、手伝おうか、と尋ねたが知らんぷりを決め込まれる。この優秀な妹は既に粟飯も炊き上げているようなので手持ち無沙汰にふらりと外へ出た。

 あんな妹でも来月嫁に出る。一抹の寂しさを紛らせようと無風に固定された夕焼けに向かって伸びをして。

 夕焼けを背にして、誰かが畦に立っているのに気付いた。逆光で分かりにくいが上質なジャケットを着ているように見える。纏う空気は凛として、そして儚い。一蔵さんに、あのふらりと訪れる幽霊に似ている。そんな気がした。

「あの、どうかしましたか」

 浮世離れしたようなその人が今にも消えてしまいそうな気がして、思わず近寄って声をかけた。

「……たそがれていたんだ。今は丁度黄昏時だろう」

 その人は此方に少しだけ目をくれ、また視線を戻した。その先を辿ると、朱に染まる農村の風景。見慣れている筈なのに、やけに美しく見えた。

 その景に吸い込まれそうになって、はっとする。

「しかし、この辺りに泊まれるような所はありませんが。お帰りにならなくても大丈夫ですか」

 近付いて、やはり高貴な人だと悟った。暮れなずむ田舎道に置いておく訳にはいかない。しかし。

「大丈夫さ、私は死人だからね」

 ピシリ、と体が固まる。この人は何と言った。

「助かったよ、私が見える人がいて。実は一つ、尋ねたい事があってね」

 よく見ると、この人の胸あたりが少しだけ透けて燃える夕日が覗いていた。そこまで一蔵さんに似る必要は無いだろう。

「尋ねたい事、ですか」

 悪い霊でありませんように、と願いながら尋ね返す。

「ああ、この辺りに髭面の霊は来なかったかい」

 その人は人の良さそうな笑顔で軽く首を傾けた。

「……僕が見たことがあるのは、侍姿の幽霊だけですが」

 訝しげに返してみれば、その人は驚いた顔をする。

「侍?ふむ、その霊は表情が固かったりしないかい?」

「固いというかまあ、ほぼ無表情ですね」

 何となくで答えると、その人は難しい表情になりウンウンと唸り始めた。何とも表情が豊かだ。ここは一蔵さんと違うらしい。

「……すまないが、その霊から名は聞いていないかい」

 そっと窺うようにその人は尋ねる。

「一蔵、と自分で言っていましたね」

 それにつられて思わず小声で返す。

「……そうか、成程。うん、そうか」

 再び難しい顔に戻ったその人は眉間に険しさを浮かべていた。果たしてこの人の尋ね人は一蔵さんで良かったのだろうか。

「君、すまないが一つ頼まれ事をしてくれないか」

 パッとその人は顔を上げた。その表情は既に穏やかなものに戻っている。

「はあ」

「いやね、その霊に伝言を頼みたいんだ」

 そこで言葉を切って、その人は息を吸った。その瞳に一瞬、冷たい刃が見えた。

「業に向き合え、とね」

 上手く息が出来なかった。当のその人は既に表情を温和なものに戻し、いいかい? なんて軽やかに言っている。しかし、業、とは。一蔵さんは、本当に何者なのか。

「そうだ、挨拶が遅れたね。私の事は松菊と呼んでくれ。また伺うよ」

 その人、松菊さんがそう言った次の瞬間、ヒュウッと強い風が吹いた。巻き起こる土埃に思わず目を瞑る。おかしい、先程まで無風だったじゃないか。

「では、また」

 松菊さんの人の良さそうな声がして、風は収まる。恐る恐る瞼を開けると、そこには誰もいなかった。

 取り残されたように畦に立つ。夕焼けは気付けば殆ど沈んでいて、空には紺色と一番星が冴えていた。

 一蔵さんと松菊さんは何者なのか。そして、彼等はどんな関係なのか。

「……飯食うかあ」

 突然増えてしまった謎は気になる所だが、先ずは腹を満たさなくては。愛する妹が作った温かい大根の味噌汁が待っている。

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