歴史もの
ほずみ
かはたれ(非国民と幽霊の一蔵)
午前三時、東京方面から薫る風に焦げ臭さを覚えた。見渡すが周りの田畑に煙は見えない。眉をひそめてスンと嗅いでやったが、そこにはもう焦土はいなかった。
玄関先に出てじっと眺めていた空が少しずつ明るんでいく。夏めく木々を揺らすその風に炭になったと聞く学友達の面影を捜して、見当たらないことに息を吐く。
もう着なくていい国民服の捲った袖を戻して腕を擦る。北の外れのこの村は昼間でも照る太陽に相反して涼しい風が通りすぎてゆくので、夜半でもないのに白湯が飲みたくなる。
東京から此方に帰って来て半年経つ。この半年で色々なことがあった。酷い生活になることは覚悟していたが、まさか玉音を聞く日が来るとは思わなかった。
すっかり勉学から離れてしまった今の生活に慣れ始めた自分がいる。農作業に勤しむ自分を肯定する自分がいる。それを悔しく思う自分がいて、運命だと諦める自分もいる。
ただもう一度、一度でいいから学友達と語り合いたかった。この国の近代的な法整備を夢見て人目を盗んでは語り合った仲間。皆、地球の彼方で燃え尽きてしまったのだろうか。
深く、そっと息を吐いた。
「また落ち込んでいるのですか」
後ろから放り投げるような声がする。
「ちょっと違いますね。たそがれているんですよ」
空から目を離さずに言葉を返す。
「今は黄昏時と言うより、かはたれ時ですが」
「……ふふ、上手いことを言ったつもりですか」
感心してしまった事が少しだけ悔しくて、漸く声の方に向き直る。
「一蔵さん。今日はどうなさいました?」
其処には月代と髷を持つ武士風な。
「碁を、やりませんか」
穏やかで冷たい語り口の、無表情の幽霊がいた。
「良いですよ。置き石は六子程でどうですか?」
「八です。六では私には勝てません」
「手厳しいなあ」
幽霊の一蔵さんと出逢ったのは確か玉音放送から少し経った後。何か未練があって現世に留まっていたけれど、そのうちに成仏の仕方を忘れてしまったとか。どんな未練なのか尋ねたことがあったけれど、「さぁ」としか返ってこなかった。
普段は日本の色々な所をふらふらとしているらしい。霊の類いには詳しくないけれど恐らく一蔵さんは地縛霊の類いでは無いのだろう。一体どんな未練なのか。それから、一蔵さんはどんな人だったのか。
謎めく所は多々あるけれど、とにかく彼は月に二、三度こんな朝方に僕のもとへ来る。
幽霊と聞くと三角巾をつけ白装束を着て足が無くて……といったものを思い浮かべるが、一蔵さんは三角巾をつけていないし服も普通の袴で、足もしっかり地についている。しかし体は少し透けていて、一蔵さんの胸元には後ろで揺れる木々がうっすらと見える。
「貴方が上達しないからです」
「そうですか?自分じゃいい線いってると思うんですがね」
物置からそっと碁盤と碁石を持ってきて、手でさっと砂を払って玄関の踏み石に据える。少しずつ顔を見せ始めた太陽の微かな光を頼りに石を置いていく。
「では、お願いします」
一蔵さんは碁石に触る事が出来ないから位置を言葉で指示して、僕がその通りに碁石を置いていく。横に碁の指南書なんかを置いておけば、僕が碁の勉強をしているだけに見えるだろう。
実際、この対局は勉強になる。何といっても一蔵さんは碁が強い。東京で友人と打っていた時には僕だって強い方だった筈なのに、一蔵さんには歯が立たない。
「えっ、そこかあ」
実際、今日もまた負けた。
「投了しますか?」
「……します。敵わないなあ」
溜め息をつきながら碁石を片付ける。一蔵さんは勝った瞬間だけ、少しだけ得意そうな顔をする。
「どうですか、もう一局」
悔しさから再戦を申し込むが。
「いや。母君が起きてきます」
いつも一局しかしてくれない。
「そうですか……じゃあ、片付けてきますね」
渋々碁盤と碁石を持って物置へ向かう。時計を確認すれば既に四時近く。確かにそろそろ母が起きる時間だ。さっさと身なりを整えて朝食作りを手伝わなくては。
片付け終えて再び玄関に向かう。一蔵さんがまた何処かへ飛び立つのを見送るのが月に数回の習慣となっているのだ。一蔵さん、と声をかけようとして、口を閉じた。
彼は西の上空を見つめていた。その先には、消えかかる月。その横顔に漂う凛とした、それでいて悲壮な色は彼によく似合っていた。
武士のような格好をしているが、果たして彼は何者なのだろうか。きっと、もっと高貴で野蛮で、美しい人だと思うのだけれど。
「……何か」
一蔵さんは此方に一瞥もくれない。
「いえ、綺麗な月なのに消えてしまうのかと思っただけです」
「それだけですか」
「ええ、それだけです」
一蔵さんは変わらず無表情。ただ少し目を細めたように見えた。
次はいつ頃来るんですか。成仏の仕方、思い出しましたか。掛ける言葉は見つかるけれど、あんまり静かな横顔だから声を出すことは憚った。
「では、これで」
一蔵さんは此方をちらと見て、消えた。また、僕の知らない何処かへ彷徨ってゆくのだろう。
「あら、おはよう。早いのね」
母が起きてきた。これから朝餉の準備だ。
「おはようございます。うん、ちょっとね」
再び国民服の袖を捲る。ふと空に目を向けると月は消えていた。代わりに薄橙が空を覆っていく。また忙しい一日が始まる。
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