第7話


「お前が間違っているなんてことを言うつもりはないけどよ」


 私の喚きに対して、特に反応も示すことのなかったおっさんではあったが、しかし、しばらく時間がたった後に口を開いた。


「この世界は確かに腐ってる。ゴミみたいな人生を送ってきたんだろう。同情するぜ。かわいそうだと本気で憐れむわ。死にたい。消えたいなんていう気持ちも、まあ、わかるわな」


「だから――」


「でも、そこにお前の本心はあるのか?」


 彼が私を遮っていった。


 いつの間にか立ち上がっていた彼は這いつくばる私を見下ろしている。


 一瞬彼が、なにを言っているのかがわからなかった。


「その『死にたい』にはお前の本心がないと、俺なんかは思うわけよ」


「……何、いってるんですか?」


 正直ほとんど切れていたと思う。自分でもびっくりするほどに声が低くなった。


 喧嘩売ってんのかこのおっさん。


「何を知った風にいってくれてるんですか? あなた、私のこと何も知らないでしょ」


「うん、知らない。別に知ろうともしてねえし」


「……は?」


 本気で何を言っているのかわからなくなっていた私だが、別にこいつも私に理解させようと言っているわけではないらしく、目を合わせていなかった。


「確かに何も知らないけれど――でも、お前が心の底から死にたいと思っていないことは知っている」


 精神異常者では君がないことは知っている、と続けた。


「…………」


 いい加減好き勝手言うこいつをそろそろ一発ぐらいぶん殴ってやろうと思っていたが、しかし、自分が幽霊であるということを思い出してその拳を解いた。


 そしておっさんはそんな私を見ることもなく、ただ、あるがままの事実を注げるように続けた。



「お前は死んだ。人のせいにもせず、誰のせいにもせず、ただ自分のせいにして、逃げて、逃げて、そして最後に死んだ。精神がおかしくなって耐え切れなくなって、最初から最後まで、ただ死にたがり、生きたくなくて、異常者に成り果てて、死んだ…………まさかそんなわけがないだろう」


「…………は?」


「それは嘘でしょ。お前が心から望んだ結末じゃないはずだろう」


「…………」


「死にたいと、お前みたいな人間が本気で心の底から思うわけがないだろ。こうやって頭を垂れてまでして死にたがるわけがないだろ」


「……違う」


「お前は本当は死にたくなんてないはずだった。本当は生き続けたいはずだった」


「……違う! 私は本気で!」


 死にたいと! こんな世界から消えたいと! 本気で! 


「何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も死にたいと思っていた! 逃げたいと思っていた! 楽になりたいとずっと思っていた!」



「――じゃあ、何でお前はここまで生きてきた!」


「……え?」


 いきなり声を荒げたおっさんに私はセリフを止める。


「じゃあ、どうしたお前はこんな歳になるために生きてきたんだ。本気で、死にたい、逃げたいとずっと思ってきたのなら、どうしてその日まで生きてきたんだ。どうしてすぐに死のうとはしなかったんだ」


「そ……れは……」


「分からねえか、じゃあ教えてやるよ。それはな、本当はお前自身が、誰よりも生きたかった普通の人だったからなんだ。死にたいと思う以上に、生きたいと心の底から願っていたからなんだ。どんなに殴られても、どんなに寒くても、どんなに殺されかけても、たとえどんなに……死にたいと思っても、ただそれ以上に『生きたい』って、死にたいよりも生きたいって思っていた証拠なんだよ。お前自身が生きたがって、息をしたくて、明日を見たくて、そう思っていたから、だから、お前はこんな十七になるまで、みっともなく生きてきたんだよ」


 死のうと思えば、いつでも死ねた。


 寒空に追い出された時はかまくらを作ってまでして暖をとった。


 包丁で刺された時なんかはインターネットを使って痛みに耐えながら、何とか包帯の巻き方を調べた。


 第一、なけなしのお金を使って一人暮らしを始めた時点で、私は何とかしようとしていた。


 私は生きようとしていた。


「お前は精神異常者なんかじゃない。死にたがりのクソ野郎なんかじゃ、絶対にない。ただの普通の女の子だ。それも相当頑張り屋の、生きたがりの、ある意味の異常なぐらいな生の亡者だ。第一本当に自殺するような奴なんて自分の意識とは別のところでいつの間にか死んでるもんだ。お前みたいにごちゃごちゃ考えて死ぬ奴なんて自殺者ですらねえよ」


「生きたがり……」


 そんなことを言われるなんて思わなかった。


 そんなことを言ってくれるなんて思わなかった。


 涙が漏れる。


 それに実体は、ない。でも、私の目元は確かに温かみに満ちていた。

 

 

 でも……、だとしても、だ。


「そんなこと、そんなふうなことを言われるなんて思わなかったけれど……でももう私は死んだんだ。間違いなく死んだんだもう全てが遅い。どうしようもなく、どうしようもなくなってんだよ……! そんなこと今更言われたって、お前は生きたかったんだって、一生懸命頑張ったんだって、今更そんな言葉を並べられて――だから、どうだってんいうの。そんなこと、今更言わないでよ……。そんな言葉言わないでよ……」


 なんで今更そんな優しいこと言うんだよ。


 後悔させないでよ。


 死にたくなかった……だなんて、そんなこと気づかせないでよ。


 だって、もう遅いんだって。もう何もかも、遅すぎるんだって。


 頑張って生きようと思ってて、でもそうしようもなくて、もう本当に死ぬしかなくて、それで自分を自分でペテンにかけてまでして、そしてようやく、やっと、死んだって言うのに。


「そんな当たり前のこと、言わないでよ……」


 生きたかった。生きたかった。私は生きたかった。


「明日に希望を持っていた! どうしようもなく毎日に希望を持っていた! 命があることが本当に嬉しかった! いつか、いつの日か、必ず心から笑えるって本気で思っていた!」


 誰よりも生きたかった。明日を見たかった。生き抜いて生き抜いて、生きて生きて生きて、生き抜きたかった。


「本当に生きたかったんだよ。でも、もう遅いんだよ! もうどうしようもないんだよ。私は間違えたんだよ! どうしようもないところまで来ちゃったんだよ」


 もう遥かに手遅れ、死んでしまったら何もかもおしまい。


 それが一度の過ちであれ、なんであれ、もう……取り戻すことはできない。



 そんなことを反芻して思いながら、私は膝を抱え込む。うずくまったままかかえこむ。


 ふと頬に何かが伝うのがわかった。


 それが涙だとわかって、初めて幽霊でも流せるのだと、私は知った。

 

「なんだ後悔か」


「……あんたがさせたんじゃん」


「まあな」


 そういって彼は私の近くまで来て、そうして――頭に触れた。


「――え?」


 私は驚きを多く含んだ色々な感情から彼を見上げようとするも、しかし、その大きな手で無理やり下を向かせられる。


 ガシガシと、乱暴に、優しいそれでは全くないけれど、しかし全く嫌ではないそれに。


 きっと、心なんてこもっていなくて、たまたま手の行き場がなかったから、あまりにも見ていられない同情から、「生きたい」だなんてアホなことを抜かすバカな幽霊への哀れみから、


 そういった感情のもとでの行動であるなんて、もう。明らかにわかりきっているけれど。理解しているけれど。


 それでも、今、確かに私は生まれてきて初めて、人に撫でられていた。


 そのことは事実だった。


 涙腺が決壊していくのがわかった。

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