第6話

 割と今日まではいい子でいた自信もあったのだ。


 勉強だってしたし、食べ物だって残さず食べたし、わがままだって言ったことはなかった。


 歯ブラシを買ってもらえなくて乳歯が全部虫歯になってしまった時も、服が二着しか買ってもらえなかった時も、外履きを学校で履いていたら先生に注意を受けた時も、そのために上履きを買うお金のせいでいっぱい殴られた時も、底が破れた靴で運動会に出た時も、いよいよ足のサイズが全く合わなくなった時も、それを親に言い出せずに先生に相談した結果、『お前のせいで恥をかいた』と家でボロ雑巾のように再び殴られた時も、そんな中新しいお父さんができた時も、二回目の結婚はうまくいかずにイライラしたお母さんに右後頭部の髪を全て引きちぎられた時も、お風呂の中にまる三日間近く閉じ込められた時も、雪の降る中で裸でベランダに放り出された時も、朝、いきなり母にナイフで刺された時も、病院に連れて行ってもらえずに自分で止血をした時も、年齢を偽って自分の給食費を稼いでいた時も、その稼いできたバイト代を全部父のギャンブルに一晩で使われてしまった時も、いよいよ母が私を置いて出て行ってしまった時も、父がついに私を犯そうとしてきた時も、一人で家を抜け出した時も、誰も知り合いのいない街で一人暮らしを始めた時も、ついに居場所がバレてドアが激しく叩かれた時も、私が自分の喉にナイフを突き立てた時も。

 


 一生懸命に生きて、真面目に愚直に、我慢して、歯を食いしばって生き抜いて、辛いことだってたくさんあって、それを見て見ぬ振りをしたことだって、確かにあったけれど。それでも、少なくとも人並み以上には苦しい思いをしてきた私だったはずで、頑張って生きてきたはずで。


 それでも、やはり、その積み重ねを崩し切っても尚、自殺という大きな負債は取り返せないのだろうか。


 その苦しみに挑み続けなければ、私はいけなかったのだろうか。


 我慢し続けなければいけなかったのだろうか。


 この苦しいことしかなかった世界で、希望などかけらもなかったこの世界で、私は生きなければいけなかったのだろうか。


「一応」


 と、彼はいう。


「俺は、こうやって君と話せる最後の人だ。だから、君が心残りがあれば、全部聞こうとは思う」


「……心残り?」


「そう、心残り」


「……はは」


 その言葉に私はおもわず笑った。


 先程までの乾いた笑いではなく、明らかに侮蔑の意味を込めた笑いで、自分がこんな笑い方のできる人間だなんて思いもしなかったほどの笑いだった。


「私に、心残りなんてないですよ」


 私は顔に手を当てた。


「私に――心残りなんてあるわけがないでしょう!」


 そして、生まれて初めて、私は大声を出す。


「この世界から、この辛くて苦しくて、ゴミのようなこの腐った世界からずっと消えたいと思っていて、死にたい、消えたいと、そう思っていて、そしてそれがようやく叶った記念すべきこの時に、どうしてこの世界にまだ私に心残りがあるというんですか!」


 少なくとも、どんな地獄が待っていようとも、この世界のそれほどに、悪い場所でもないのだろう。


 この世という名の地獄に比べれば、幾分か楽園のように思える場所だとすら思う。


「私がこの世界に言い残すことなんてない。言い残すべきことなんてない。残してもらいたい言葉なんて、最初から、ない!」


 


 よく母が言っていた。


「辛かったらいつでも死になさい、あなたは自由なの。いつ死んだっていいの。誰もあなたを止めはしないわ」



 このセリフをほとんど毎日のように頭がおかしくなりそうなほど、そして頭がおかしくなってもなお、聞かされていた、


 彼女にとって私が心の底から邪魔で、毎日のように死んで欲しいと思っていたことはわかっていた。


 だから、この言葉をかけ続けることでいつか自ら死んでくれると願っていたことも知っていた。


 そして私はついには死んだ。



 そしてようやく死ねたのだ。



 自殺なんてする人間は精神がもともと狂っている異常者である。 


 周りが悪いのではない。


 空が青いように、太陽が東から昇るように、


 自分がもともと そうであるというだけの話なのだ。


 誰も悪くない。


 だから、そんな異常者の言葉など意味はない。


 放っておいてくれ。


 黙って逝かせてくれ。


 もう、生きるのは嫌なんだよ。


 つらいのはもう、嫌なんだ。


 だから


 だから……



「だから、もう終わりにしてよ……、あなたならできるんでしょ……? あんたがなんの仕事をしているのかとか、何ができるのかとかは分からないけどさぁ。ねえ、頼むから。本当に頼むからさぁ。なぁ、お願いだよ」


 早く


 早く、私をこの腐った世から消してよ。


 こんな異常者で気持ちが悪い私を……どうか殺してくれよ。



 そんな風に誰かに何かを頼むことなんて今までの人生で一度たりともなかったことだったけれど、ある意味、本当の意味での一生のお願いというやつだ。


 私は膝から崩れ落ち、そして頭を地面にこすりつけた。


 本気の懇願だった。

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