第3話
「――緊張は取れたか?」
「……え?」
しばらく無の時間が流れ、そして突然彼がストレートな質問をぶつけてきたことに普通に戸惑う。
彼は続けた。
「いや、やっぱり、緊張しているみたいだったからな。なんとなく会話でお互いの距離感を~なんて思ったんだけれど」
そう言って彼は自分の頬をボリボリとかく。
なんと不器用なことに、彼が話を長くしていたのは私の緊張をほぐすためだったらしい。
私はそんな彼の姿が、まるで好きな子へ声をかけるのに試行錯誤している少年に重ねてしまい、少し吹いた。
そして、また、彼が出てきたときにあった緊張感が、いつの間にか、なくなっているのも感じた。
人との会話で笑ったのなんて本当に久しぶりだった。どん底だった気分が少し回復する。
意外と単純なのも私の性格だった。
「よし。じゃあ……そろそろ本題に入ろうか」
「……?」
本題とは一体なんなのだろう。
と思ったが、そういえば彼は幽霊なのだ。
きっと現世に思い残すことがあって、やり残したことがあって、それでうまく成仏ができないのだろう。
いわゆるあの世に行けないのだろう。
その頼みごとを私は果たせばいいのだろうか。そういう感じのお話だろうか。
ということは何か……実は俺は殺されて、その時の死体を探して欲しい——的なことなのだろうか。
できればもう少し楽なのがいいのだけれど、まあ、久しぶりに会話で人間らしさを思い出させてもらったお礼である。
多少の無理は聞きましょうかね。
とりあえず、そんな感じだと思って先んじて聞いてみたけれど、彼は首を横に振った。
どうやら違うらしい。
恥ずかしい。
では怨霊的なそれだろうか。
例えば、私は成仏したいのだけれど、その憎しみのせいで天国に行けない。だから私の憎悪、その受け皿、はけ口になって欲しい――そういうことだろうか。
しかしこれも違うようで、それも全然違うようで、彼は馬鹿にするような笑顔を向けながら首を横に振った。
さらに恥ずかしい。死にたい。
では一体、本題とはなんなのか、ということをいい加減ストレートに聞こうとした時。
彼はその笑顔のまま、口を開いた。
「なんだ。結構大きな勘違いがあるみたいだな。それをまず正そうか」
「……勘違いですか?」
「そ」
そんな風に、うーんとあぐらの体勢のまま背伸びをしながら、「えーとね」と切り出した。
「俺、幽霊じゃないんだ?」
「は?」
一瞬、彼が何を言ったのか全く理解ができなかった。
しかし、そのままでいるわけもない。
すぐに思考を整理する。
このおっさんが、幽霊じゃない?
「……どういうことですか?」
「どういうことっていうか、まあそのまんまの意味だよ。俺全然生きてる。足あるし、ここまで歩いてきたし、精力だってこの歳にしてはピンピンよ?」
「そんなわけないじゃないですか。じゃあ、誰があなたをここにいれてくれたんですか」
「誰って……そりゃエントランスのお兄さんだよ。あの筋肉質のお兄さん。顔が少し濃い方ね」
そう言って彼はタバコを一つ吸う。煙がぷかぷかと口から漏れていた。
「ここは女性専用アパートですよ。あなたみたいな人間が入れるわけがないじゃないですか」
「でも、男が全く入ってこないというわけでもないだろう。ほら上の階の佐藤さんなんて毎日他の男を部屋に入れて色々やっているらしいじゃないか」
「仮にあなたみたいな汚い人が、あのエントランスを突破できたとして、どうやってこの部屋に入ってきたんですか? ドアでも壊したんですか?」
「んなわけないじゃん。普通に鍵で入ったよ……えーと……ほら、これ」
そう言って彼はポケットから鍵を出す。
確かに……それは間違いない。私の家の鍵だった。暗がりの中でもわかった。
「それにしても汚いおっさんってひどいなぁ。俺これでも若い頃はそれなりにモテたんだぜ? 今でもそれなりに行けるなりをしてるとは思うんだけど。この間もさ――」
「そんなことはどうでもいいです!」
「…………」
いきなり声を荒げた私に、しかし彼はずっと変わらないにやけた顔。何か私のいきなりの大声にイラついた様子もなく、びっくりした様子もなく、まっすぐに私をその顔で見つめていた。
彼が幽霊ではない。
その事実から、どうしてか、私の中の恐怖が加速していくのがわかった。
実態のある男と二人きりである——そんなことで今更怖がっているわけではない。
別に彼が今更私を襲うつもりなどないのだろう。
その証拠に彼は先ほどから一歩たりとも私の近くに来ようとはしていなかったし、さっきから彼の動作といえば手元に持っているタバコを口元に持っていくのだけだった。
ただただ、訳も分からないまま、なぜか嫌な予感が止まらない。
背筋が冷たくなるのも止まらない。
彼の言を否定する考えが止まらない。
私はおそらく今年一番多く喋っていた。しかし不思議とそこに息のしづらさや違和感は全く感じなかった。
舌も驚くほどに回っている。
異常なほどに饒舌な口周りで、しかし、体の重さは一向に取れない。
ずっと重いままだ。
いつもはあっさりと緊張で喉が乾ききってしまうのにそれはない。
水を欲しいなんて一度だって思わなかった。
ただ
ただ、直視してはいけないような事実がそこにあるような気がして、それに目を背けようと必死だった。
「わかった」
そんな私を見てだろうか、彼は首肯した。そもそも遠回りは俺も苦手なんだ、とまた少し広角をあげる。
「じゃあ――ストレートに言うことにするぜ」
彼はあぐらをかいたまま、しかし目線は私を直視。
そして彼は一呼吸置いて、そして初めて真剣な表情になる。
「荒川知紗、だったよな」
私が名乗ったことのない名前、私自身久しぶりに聞いた名前、忘れかけていた名前を彼は確かめるように呟いて
「あんたは――もう死んでいるんだぜ」
そんなん風に言ったのだった。
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