過年《としこし》
吾妻栄子
過年《としこし》
“Merry Christmas!”
日暮れ近い租界の路地。
西洋の言葉は解らないが、何かめでたいことがあるのだろう。
「今日は
椿油で髪を撫で付けて狭い
「西洋だとあと七日で新年らしいよ」
「そうなの」
あたしは努めて笑顔で頷く。
服と同じでこいつの西洋の話は大抵、同じ
一方、元福の方もちょっとやり過ぎなくらいに椿油で額を出した髪型に固め、着るものも他人に散々着古された上に本人の丈には合わない洋服に変わってしまった。
遠目にはそれなりに大人びて見えるものの、近付いて眺めると元福の姿にはまだ丸みのある頬といい、狭い肉薄の肩といい、ちぐはぐな幼さが浮かび上がって来る。
それは恐らくこちらも同じだろう。
浦東の貧民街の隣同士に生まれて、
そして、去年の今頃、両親を亡くしたあたしも
――八百屋の主人になったところで、洋人に頭を下げて踏まれる立場に変わりはないんだ。
再会してすぐ元福は八百屋の丁稚を辞めて
――これでもっといい服を着てお前の
元福を裏の世界に引きずり込んだのはあたしだ。望んだことではなかったけれど、結果はそうとしか言いようがない。
「西洋だと年の数え方も違うんだって。生まれたその日から数えるから、一、二歳若くなるそうだ」
こちらの思いをよそに元福は楽しげに受け売り話を続ける。
あたしたちも西洋なら十五、六歳になるのだろうか。洋人なんて子供でも体が大きくて老けた顔つきをしているのに、あたしたちの方が一足早く年を取らされるのだ。
特に、この
「俺は今の方がいい」
不意に椿油の匂いが鼻をついて外套の肩を抱かれるのを感じた。
「ガキでいていいことなんて一つもない」
何で笑ってるのに悲しそうに見えるんだろう。これもこの一年でこいつが良く見せるようになった顔だ。元福の一文字眉も、黒目勝ちな切れ長い瞳も優しく微笑んでいるのに、あたしの外套を肩を掴む手は熱く痛い。
「あっ、あんな所に……」
唐突に後ろから聞き覚えのあるダミ声が飛んできた。
「
これも体に合わない、ただし元福とは逆にパツンパツンにきつそうな外套を纏った赤ら顔のニキビ面が日暮れの埃っぽい匂いの漂う路地を駆けてくる。
「
元福もやってきた仲間に応じる。
「俺らも今すぐ行かないと」
明らかに声変わり途中と分かるダミ声で捲し立てる阿剛は本人は十九歳と言っているが、敢えて突っ込まないだけで恐らくは誰も信じていない。多分、十七歳のあたしたちより年下だ。
「分かった」
落ち着け、という風に元福の手が阿剛の肥った肩を叩く。そのあかぎれした手の甲に一瞬、痛みを覚えた。手がいつでも自由に使えるようにと元福は冬でも手袋をしない。
「じゃ、俺はちょっと行くから」
元福のダブついた外套の肩があたしから離れる。さっと音もなく冷たい風が通り過ぎた気がした。
「気を付けてね」
二人でいる時にいきなり入った“仕事”でどこかに行ってしまう。これが初めてではないが、いつも暗い気持ちになる。
そして、“仕事”から帰ってきた元福の体には必ずどこかに傷が付いているのだ。今だって服に隠れているけれど、こいつの左の二の腕には治りかけの切り傷がある。
「
数歩進んだところで元福の声が届いた。振り向くと、まるで怒ったように鋭く光る黒目勝ちな目にぶつかる。
「後で必ず行くから」
外套の襟元を押さえたあかぎれの手がぎゅっと握り締められた。
「分かった」
あたしはこう答えるしかない。
視野の中で元福と阿剛の背中がたちまち小さくなる。
二人の姿が見えなくなってから、我に返った体でハイヒールの足をまた舞庁に運び始めた。
元福は必ず来ると言ってくれたのだから、とにかく行って待っていよう。
*****
「今日、おわたら、どう?」
日本人の話す上海語は小さい子みたいでおかしい。喋ってるのは死んだ父ちゃんと大差ないおじさんだけど。
「今日は予定があるので、“ゴメナサイ”」
最後の言葉だけ日本語で伝えると、相手はニヤリと黄色い歯を見せて笑う。
「じゃ、またこどね」
恐らく“また今度ね”と言ったつもりなのだろう。煙草のヤニ臭い手であたしの顔を撫でる。
「また今度」
次は無いよと思いつつ、笑顔で一礼して控え室に足を運ぶ。そろそろ化粧を直さないといけない。
元福はまだ来ないけれど、向こうは仕事で疲れてやってくるからこそこちらは綺麗な顔で逢いたい。
酒と煙草と微かな
*****
「
控え室の鏡越しに目が合った相手に声を掛ける。
すると、鏡に映る珊姐はちょうど引いたばかりの口紅を手にしたまま、まるで幽霊でも目にしたようにギクリと固まった顔つきに変わった。
「翠……」
カチャリと口紅を卓上に置くと、相手は静かに立ち上がる。何だか覚悟を決めてこれから刑場に向かう人みたいだ。目にするこちらの背中にもひやりとしたものが走った。
「今、来る時、大世界の近くを通ったの」
話す内にも珊姐の顔からはますます血の気が引いていって頬紅と口紅の赤が浮き上がって見える。
この人は二十二歳と言っているが、実際はもう三十近いのではないか。いつも微かに覚える疑いが頭をもたげた。表情から華やかさが消えると、珊姐の顔にはそんな疲れた気配が漂ってくるのだ。
まあ、租界で舞女をやる女などあたしを含めて多かれ少なかれ訳ありだから、互いに素性は深く詮索しないのがここでの流儀だ。
「近道しようと裏口の方を通ったら死体の運び出しをしていた」
相手は酷く乾いた小さな声なのに胸に思い切り刺されたような痛みが走った。
「その中に元福が……」
まるで火が点いたようにハイヒールの足が勝手に走り出す。
「待ちなさい!」
後ろで珊姐の叫ぶ声が響き渡った。
「今、行ったらあんたも危な……」
そんな忠告、もう要らない。
*****
外に出ると寒いというより刺すように痛い空気が剥き出しの腕や脚を浸してくる。外套を舞庁の控え室に置いてきてしまったが、もうどうでもいい。
駆けながら元福がだぶついた外套の胸に強く抱き締めてくれる場面が瞼の裏を熱く通り過ぎる。頬に冷たい雫が伝い落ちるのを感じた。
視野の中で眩い灯りで飾り立てた、巨大な仏塔じみた建物が大きく迫ってくる。
「翠……」
囁くほどの微かな声なのに自分を呼ぶ声は不思議と届くものだ。既にハイヒールが脱げ落ちてストッキングも破けた足が止まる。
「阿剛」
振り向いて確かめた相手をそれと分かるまでに一瞬の間が通り過ぎた。
「あんた……」
相手の片目は夜目にも赤黒く腫れ上がり、切れた口の端からは血が一筋伝い、立ち姿なのに奇妙に傾いて見えた。
「生きてるのね」
こちらの言葉に阿剛はまるで思い切り殴られたように腫れた顔を俯かせた。
「元福は……」
相手は傷だらけの手で顔を覆う。
「許してくれ」
小さな子供のようにしゃくりあげた。
「阿福は俺を守ろうとして……」
サーッとあたしたちのすぐ脇を洋車を通り抜ける。裸足に触れる路地は冷えきってゴツゴツと痛い。
「それで、あんたは生きてるのね」
自分は安全な所で他の男と踊っていたあたしに責める資格なんか、ない。
もう何も話すことは無くなったのであたしはまた巨大な仏塔に似た大世界に向かって歩き出す。
小一時間前に殺し合いがあった場所とは思えないような煌びやかさだ。
*****
「やっと来た」
外から見ると目映いばかりなのに、中に入れば
大世界では毎日誰かが飛び降りて死ぬ。自殺に見せ掛けて突き落とされて殺される人もいるらしいが、それだけ死に追い込まれる人間がここに吸い寄せられるのだ。
もしかすると、少しでも命を絶ちやすいようにと屋上はこんな風に人気もなくまともな灯りもない風にしているのかもしれない。
「お父さん、お母さん、元福」
皆、あたしから剥がれ落ちるように逝ってしまった。
家族で最初にあたしが流感にかかって、お父さんお母さんは少しでも良いものを食べさせようと無理する内に本人たちも倒れてしまった。
そして、両親は息を引き取り、自分だけ生き残った。
「あたしが先に死ねば良かったね」
流感で早々にくたばっていれば、お父さんお母さんも生き延びることが出来ただろう。
元福だって裏社会で殺されずに済んだ。
「もう何の望みもない」
このまま生きていたって、あたしみたいな女は小金を持った男のオモチャにされて、若い内だけちょっといい暮らしして、でもそれもすぐ終わって、
この街にはそんな女、掃いて捨てるほどいる。
「死んだら、みんなに会えるよね」
屋上の間際に着くと、眼下には星くずを溢したように輝かしい夜景が広がっていた。
ゴーッと下から強く冷たい風が吹き付ける。
今なら、この瞬間なら、落ちずに空を飛んで行ける気がした。
「
目を閉じて夜空に飛び上がる。
*****
瞼を開けると、真っ白な天井が目に飛び込んで来た。同時に妙な薬の匂いが鼻をつく。
何だろう、ここは?
話に聞いていた
「
不意にこちらを覗き込む顔が現れた。
前髪を女のように切り揃えて垂らし、小綺麗だが風変わりな洋服を纏った、しかし、一文字眉も黒目勝ちな切れ長い瞳は正しく……。
「俺だよ、
低く温かな声も元福その人にしか思えない相手は語る。
と、その小さな顔の後ろにまた新たな顔が二つ現れた。
「お父さん、お母さん」
二つの顔がパッと光が差したように笑う。
「ちゃんと分かるのね」
「きちんと話せるみたいだな」
二人とも面影や背格好はそのままなのにやはり見慣れない型の洋服に身を包んでいた。
「お嬢さんは意識が戻られたようですね」
新たに声のした方を向くと、額を出した束髪にして白く長い上着を身に付け、化粧も控えめになっているが、珊姐にしか見えない女が立っていた。
「先生、ありがとうございます」
両親が白衣の女に一礼する。
元福にしか見えない男の子も倣って頭を下げた。
「どういうこと?」
問い掛けてから、周りはもちろん自分も以前とは異なる言葉を話していることに改めて気付いた。
多分、どこか間延びした響きからして日本語だ。租界で見掛けた日本人たちはこんな感じの言葉を話していた。
「覚えてないのか?」
“光一”があたしの手を握る。女みたいに白くて滑らかな手だ。
「
色鮮やかな朱色の包み紙に緑色のリボンを着けた小箱を取り出す。
「このクリスマスプレゼント、渡すはずだった」
「クリスマス?」
あれ、西洋のお祭りじゃないの?
「それから一週間、意識不明だったの」
お母さんもお金持ちの奥様のようにふくよかに滑らかな手であたしの頬を撫でる。
「元日に目が覚めたんだよ」
晴れやかに笑うお父さんの背後の窓には煌めく外の夜景が切り取られていた。
外灘の景色に似てはいるが、どうも様子が違う。
「明けましておめでとう」
“光一”の黒目勝ちな瞳が潤んで囁いた。
「今度は絶対、手を離したりしない」
(了)
過年《としこし》 吾妻栄子 @gaoqiao412
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます