<HE-ε>

 屋上庭園で見た太陽が帰還し、僕ときみは十年分の老化を獲得したり返納したりの繰り返しで随分疲れていた。


「私達二人が切望していた未来だった、というオチの方が無難だったでしょうか」

 言葉を取り戻したきみは、普通に喋れている。妹さんを僕に寄越したのは、精神病と複合した失語症が続いていたからだったのか。

「究極の照れ屋だったからでした、との言い分でホオリくんが納得していただければと思います」

 熟考する素振りをしたが、直ぐに首を横に振った。

「冗談は通じないようですね。で、かつての学び舎に私を呼んだのは?」


《彼岸の世界》で呼び起こした二人の少女との決別だ。

あの作品を書いた僕ときみは、ルミナさんとユクエさんを完全なる実在人物として接した。どうしてその必要があったのかは、きみも重々知っていることであろう。


「私は思春期にありがちの悲観的回避性自己投擲を試みまして、ホオリくんは不器用な愛を強引に紆余曲折させたかったからであります」


 けだし、究極の照れ屋は僕の方だったのかな。


「私への恋慕を私に見せず、ユクエさんのパパに嫉妬しルミナさんを抱き続けたのは、違った意味で勇気のあることでした」


 誇らしげな英雄鼓吹は好ましくない。僕はヒーローでもヒロインでもなく、主人公になりたかった脇役だったのさ。

 何もかもゴシックの消しゴムで消せるのなら、きみが無難だと評したように十年前の文芸部より僕等をやり直したい。でも、やり直せないから僕等は麻薬に似た幻想の友人に手をつけたのだ。

 雲が一掃された夏の青空も、僕等の後輩である学生達が部活動に励んでいることを表す声援も、短い命を燃やす蝉の声も、そして、僕の眼前に降臨したきみの胸が呼吸に合わせて微かに浮き沈みしているのも、遡れない現在が絶対的に進行しているからだ。


 零の共存在を小説内=存在で一にすることはできる。だが、一の現存在を小説内=存在に落とし込めても、零に拒絶する横棒が紙面やデスクトップから突出してきて、作者の僕達の眼を貫通させる未来が予期される。

 小説内=存在の仲間と共に過ごすことは、自らをフィクションに仕立て上げる愚行を意味する。きみもその自覚はあった。


「ええ。妹はホオリくんのせいで私が不幸になったという偏見を懐いておりますが、私の方が愚かでした。少女小説の極北を企図した《真偽の彼岸Ⅳ》は《イデアガール対話篇Ⅱ》の後身であり、偽装された私達の過去の一欠片です。憶出をバラバラのピースにしたのは私の本懐でして、ホオリくんは眷恋を捨てずについて来てくれた恩人です。十年間も違う路を歩いていたのは、ホオリくんが優し過ぎたからなのです」


 妙にきみは素直になった。ユクエさんのいない(いなくさせた)現世で十年間の辛苦を味わってきたのに、どういう心変わりだろうか。


 ……いや、きみの改心は皮相的なものだ。以前の問題に、きみが念じればユクエさんを再び自らの傍に寄せられたはずだ。対蹠的に僕はルミナさんの死を十年間認めなかった代わり、彼女の本質を不確かにさせたままでいた。


「私もそうするつもりでした。自分自身を欺くことで、もっと良い暮らしができたと思います。持続的な開発目標を拠り所にしなかったのは……興醒めな情意をひけらかすことを許してもらえるのならば……ホオリくんへの本来的な愛をいつなんどきも忘れられなかったからです」


 嘘だ。


「即刻で否定されると思いました。どうしましょう……どうすれば私はメタ階層から離れて私の本体から私の本心を伝えられるのでしょうか」


 きみは出口の無い迷路で未だに彷徨っていた。出口を暗闇の溶接で塞いだのは自業自得であるのに、そんなきみを僕は救いたい。

 小説内=存在との決着がまだついていないのだ。ルミナさんは一貫して導けたが、ユクエさんはどうだろうか? きみが架空世界に一石を投じた<死の練習>に於いて、核心に至る場面が確りと分断されている。きみの心の一半は……ユクエさんに課した近親相姦の是非とパパの殺害に在る。


「私はとんでもないことをしでかしました。ユクエさんが喩え(喩え、ではなく実際だが)フィクションの代物だったとしても、彼女の咎は深淵よりも深い底で蠢く凶悪な怪物でありまして、妄想の範疇を超越した脅威に私の精神は圧し潰されてしまいます」


 <死の練習>のBは、ホオリくんも切願していた瞬間がありました。そして今も、ホオリくんにとっての死の時代が到来しています。だから、此の地で一緒に死にましょうよ。


 自殺の御誘いをするきみが見ている僕は、僕の姿をしているだろうか。パパを愛した少女に僕はなっていないだろうか。こんな時、僕は反知性主義の女神が欲しくなる。矢張り僕もフィクションを杖にして老人のように歩いていたのだ。

 仮に僕等二人も非実在であったとすれば、この瞬間にこそ女神の声が脳内に響く神秘的な展開が訪れるはずだ。ルミナさんの魂なら、僕に何かしらの助言を与えてくれる違いない。


 されど、僕ときみが現実を補完させたマジックリアリズムとラブスプレマティズムの混淆は、を正しく形作れていない。臆病者の僕等は怯え過ぎているからこそ、自らが構想した絶望からの逃走に必死なのだ。


「AとBの順序を守るべきだ。僕はユクエさんのパパを殺すになる」


 僕の確乎たる信念は前後の括弧で確りと留められ、精神分裂病の起因となるノイズをシャットアウトした。


「――ホオリくん」


 僕の心象変化を読み取ったきみは、膨張したピンポン玉のように目を丸くさせた。あまりにも意外なことだったかもしれないが、安っぽい言葉を使い捨てるならばこれは奇蹟なのだ。


「エイセイさん。きみはユクエさんとルミナさんのになってくれ」

「それはプロポーズの御言葉でしょうか」

「解釈は言論や思想と同じく、自由が許されている」

 虚無からの弾圧に屈せず、僕は力業のグランドエピローグを狙った。受苦はほんの一瞬だ。小説内=存在の少女二人を踏み台にすることでの苦痛もそう長く続かない。僕は更新せられる僕の為に、犠牲になることを選ぶ。それが生きるってことだ。

「私、とても嬉しいです。ホオリくんと結婚できる現実なんて、夢でも叶いませんでしたのに」

「夢幻の舞台でさえ自分自身がヒーローにもヒロインにもなれないなら、死にたくなるのは当然さ。だから僕はエイセイさんを批難するべきではないし、エイセイさんの歪んだ思惟に凭れ掛かって過ごす日々を渇望しているんだ」


 僕等の空白を次々に埋める声音は絶えないが、いつまでもこの現在で腰を下ろしては居られない。<死の練習>の復活と終焉を纏めて済ませようとする僕ときみは、もう一度あの少女達と邂逅することになるだろう。


「さっき、本当の現在位置地点は十年前の此処であって今の私達こそが妄想の産物である仮説を提示しましたが、ホオリくんはどうお思いですか」

「思うも何も、有り得ないことだ。だって、僕等が此処こそ現実だと言い放てるから」

 とんでもなく普通な見識であったが、きみは偉人の箴言を拝聴したかのように深々と頷いた。

「聡明なホオリくんなら、私達の過去小説が未来乃至過去改変プログラムである根拠を見出せそうですね」

 邪推したくなるような与太話には賛同しかねる。現に、実在と非実在を交換し乍ら書き集めた言語世界には、不可侵の現在を基準に構築されている。その現在が不定にされてしまったら、僕達は既に非連続の考える生物になっていないだろうか。

「リアリズムから懸隔された希望論は用を為さない。同じことの繰り返しになってしまう」

「冗談です。でも、過去を改竄し尽した御蔭で自分の無力さを痛感したことに於いて、現在の改変と見做しても良さそうですよ」

「それは科学や魔法で立証される超常現象とは違う、人間本来に備わっている自立心だと思うけど」

 何方だって構いません、ときみは力強く声に出して夏空へ向かって拳を突き上げた。直射日光が炎の矢になって降りかかるも、先刻の雪風が僕の内側から放散されていき、矢を凍らせてきみの身体を守ることができた。是も僕の自立心が促した成果なのだ。


 あの時、僕ときみが手に負えなかった<死の練習>を再現したく思う。

 再現、という表現は適切ではありません。一度たりとも実行していなかったのです。


 最後の可逆的な時間遡行が非可逆的であって欲しく願うのはきみだけでない。仮に<死の練習>のAを遂行したことで、二人が納得するBに逢着すれば安らかな眠りにつくことが叶う。

 然し、僕等四人にとってのAは当初の目的は有していなく、非常に前向きな喜劇を軸に進められると信じていた。だから、僕は今という現在を壊す為でなく守る為に、麻縄を手に取ったのだった……。

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