<HL-Ⅶ>

「朝だよ、ホオリくん」

 小鳥の囀りよりも快適なモーニングコールに起こされた僕は、夢の続きを現実で見ていた。

「おはよう、ルミナさん」


 僕と彼女は十年という月日を経て、大人になっていた。ただし外見の変化は殆どなく、服装で判断する外にない。亜熱帯のジャングルを集約したような色のジーンズに露出面積の広いノースリーブで、彼女は季節感を夢と統一させていた。


「今日は何処へ行こっか」

「僕の好きな屋上へ」


 彼女を連れて、どの屋上へ連れて行くか悩んだ。病院……学校……庭園……それ以外の選択肢は……。

「だったら、高校へ訪問しようよ」

 悪くない提案だった。然し、高校迄の道程を今一つ思い出せない。

「わたしが案内するよ」


 彼女に手を引かれて、電車に乗り、バスに揺られ、山道を歩いた。僕等のいた街は疎外地であることを知っているはずなのに、僕の視路は真新しい世界の開放を実現していた。


「コンビニ、まだあるんだね」

 高校へ着く直前、彼女が昔話として記憶しているコンビニエンスストアに入店した。レジに布置している募金箱には今も、僕と彼女の小銭が入っている気がした。

「中、涼しいね」

「だね」

「高校に来るのが嫌だった」

「僕は嫌じゃない。ルミナさんが実は嫌だったの?」

「そう」

 今回の透明化された主語はわたしだったらしい。気が進まなかったのであれば別の場所でピクニックやショッピングを満喫すれば良かったのに、と僕は正論を放った。

「わたしだって、そうしたかったよ。だけど、もう無理みたいね。他我って言うのかな。こういうの」

 乾いた笑いと一緒にコーンに押し込められたソフトクリームを店員に渡し、僕が代わりに支払いを済ませた。一連の挙措で、虚構世界の崩壊を知らせる暁鐘が鳴ったかと思えば長期休暇で眠っている高校の鼾であった。懐かしのチャイムを鼓膜に響かせると、コンビニを出た僕達は校門を飛び越えて、校内に土足で入った。吹奏楽のコンバットマーチやアニメソングに出迎えられず、誰にも見つからないまま屋上へ続く扉を開こうとしたがチェーンで施錠されていた。

「犯罪行為に役立つような工具を持っていたりするかい」

「大きいカッターは無いけど、小さめのカッターなら」と、彼女からペーパーナイフをもらった。鎖どころか厚紙一枚すら切れなさそうな代物であり、振り下ろしたら案の定二つに折れた。先端部分の一欠片は階段下迄転がり落ち、僕の手許には用途を喪失したステンレスの棒があった。

「貸してみて」

 残骸を彼女に返すと、瞬く間に小さな鍵になった。それは鎖と鎖を係累する南京錠を開けるものであり、無事に扉が開かれた。

「わたし、マジシャンの才能も附与されているけど何でもアリなのかな」

「今だけは許されることにしよう」


 そう解釈した僕の眼から、取り外されて床に寝ていたはずのチェーンが鍵ごと消失した。どうして、と呟こうとした僕を遮ったのは自分自身の心臓の鼓動音だった。


「心配しないでいいよ。ホオリくんの世界を狂わせた始まりはもうじき終わるから」

 声がした方向へ駆けていくと、屋上の縁で悠々と仁王立ちしている彼女がいた。

「意外とつまらない終わり方をするんだな。屋上からの投身なんて、ベタ過ぎやしないかい」

「でも、ホオリくんは敢えてステレオタイプのエピローグを選択した。それは、わたしを一つの物語に閉じ込めたかったからなんだよね」

「違う」と言い返す僕の口の形は、そうだ、と言っていた。

「どうってことないよ。わたしは生を享けただけ満足している。心の底からホオリくんとエイセイに感謝している。ユクエちゃんには申し訳ないなって思っている。こんなわたしと表裏一体を担ったことは、そこらのブラック企業より苛酷な労働環境であったのは間違いないし」

「駄目なんだ、ルミナさん。僕はまだ手放せないんだ「いや、もう大丈夫になったよ。ホオリくんとエイセイを繋ぐ橋はもう崩していい。わたしは――――の役目を成し遂げた」きみとユクエさんは僕達と一緒でなければ、世界は再び現実を隠してしまう。悲喜の彼岸で「そう。わたしとユクエちゃんは悲喜の彼岸で生まれ、みんなの喜びと悲しみの均衡を超越した彼処へ還っていくの」手に入れた四人の絆を僕の心と小説にしまっておきたいんだ」


 こうなってしまうことを僕は何よりも恐れていた。不思議の国のアリス症候群が発症したような知覚が正常を破壊し、縦横無尽に伸縮する彼女の言葉がグチャグチャになって聞こえている。僕の声音は二倍速で早送りしたような気持ち悪いものであり、対話を成立する術が無いように思えたが、不思議と心は通わせていた。


 彼女の身体が傾き始める直前、何かを囁いた。さようならとありがとうの何方かが好ましかったが、マイペースな彼女のことだからコンビニで買ったソフトクリームは何処へ行ったの、と訊いたのかもしれない。


「――わたしの死体は、ホオリくんの心奥に埋めておいてね」


 これも少々長い遺言だが、最も適切だろう。事務作業を終えて定時で帰宅するオフィスレディのように、彼女は落下した。身を乗り出して地上を見下ろすと、グラウンドに散らばる野球部が奇声に近しい掛け声をあげており、彼女の躯は一本の金髪すら残存していなかった。


 胸に手を置いてみると、鳴っている心臓は一つだけ。喩え胸部にメスを入れて肋骨を除去し臓器を教卓に並べても、彼女は見つけられないだろう。当然の事実なのに、僕は無性に身体を解剖して欲しかった。ついでにシュルリアリズムの原動となる悪性腫瘍も見つけて握り潰したいところであるが、その症状に於いては別の治療方法があった。重篤な病気でさえも治してしまう画期的な手術は、飛び下りの四文字で説明が事足りる。


 然し、死を判断するのはもう少し後だった。文芸部の未来を暗くさせた<死の練習>はまだ継続しており、偶然にもそのエピローグも……此処で開演されていたから。

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