<HL-Ⅵ>

 十年前の容姿と恰好で、僕とルミナさんは浜辺でキャッチボールをしていた。ハンドボールを野球用のグローブで捕球していたので多少扱いづらいが、僕が<設定>した彼女が準備してくれた用具だから文句は遠くの地平線に放擲させていただく。


「これは違う人達が経験した過去だと断定している」

「僕はそれに近いことを感じた。ルミナさんは断定したのか」

「や、仮にこれが一つの小説だとしたら、<読者>がこの場面を二人ではない違う人達の過去になぞって話が進められていそうだと思うかどうか、ホオリくんに質問したの」

「言葉足らずが烈しいな」


 彼女との会話では常時、迂回を強いられる。上手投げで放たれたハンドボールは反時計回りで横回転し乍ら、ルミナさんの鼻先で直滑降して砂浜に埋もれた。

「これ、どうやったの」

「物理法則での解説が不可能なことさ。それとさっきの質問だけど、ルミナさんの仮説には現実への不具合が生じてしまうから無回答を回答にするよ」

 足元に落ちたハンドボールは、ルミナさんの左脚で蹴り上げられた。天を舞う一点は万有引力の鎧を脱き、大気圏を突破しては一つの星になった。二つのグローブは早々に役立たずになった為、海に投げ捨てられた。

「青春って難しいね。ちょっとでも油断したら遊べなくなっちゃうじゃん」

「僕が難しいと思うのは、ルミナさんとの附き合い方だけど」

「何で」と、彼女は心底不思議に感じているかのように首を傾げた。生きとし生けるものの中で最も純粋無垢であることを誇示しているのでは、と訝る僕の心は穢れている。

「ルミナさんは僕を恨んでいないのかい」

「逆に、ホオリくんは私に恨まれるような負い目があると自覚しているの」


 彼女の大腿部を露顕させる短い制服のスカートが浜風に泳がされ、太陽よりも明るい金色の髪が頬に張り附いている。女神に等しい外見から漏れ出ている腐臭は両翼の形をしていた。彼女が咥えてきた男性器の数に比例して臭みが増しているだろう。


「発達障害に類似した知能の欠落……言わば堕天使の烙印を押したのは僕だ。ルミナさんはそれを容認し、反知性主義のふりをし続けた。でも、時折見せる叡智は僕とエイセイさんの真理を的確に言い当て、優しく諭してくれる善人の時代であったルミナさんが根強く残っているんだ」

「わたしに過去なんかあるのかな」

 ふくらはぎに附着した砂を払う彼女はこれ以上にない媚態を表し、数百メートル離れて飛んでいた海鳥を海に落とした。女性らしい彼女を意識するのはこれが初めてであり、ユクエさんとの照応に依る彼女の進化であった。

「あるさ。僕達は十年振りに(会えた、ではないのだ)。久しぶりという感覚がルミナさんとの過去を保証してくれている」

「だけど、わたしはホオリくんと今を共有しているだけで、時間軸は崩落した橋の断片のようになっている。振り返っても海原以外に何も見当たらない」

「ルミナさんが瞬視を尊重していることの表れだ」

 シュンシ、と彼女は呆けて(実際には呆けた振りをして)漢字への変換が出来ずにカタカナで呟いた。彼女らしい逃げ道に僕は感嘆し、ズボンの裾を膝まで捲り上げて潮水の中へ進んだ。


 ずっと、僕は忘れていた。いや、やっぱりこの痴呆もイミテーションだったのかもしれないが……永らく忘却の彼方へ葬られていた事実を招来された感動は嘘ではない。僕が本来的に愛する人はユクエさんではなく、ルミナさんだった。彼女の知情意を限界まで歪ませることで、僕のひねくれた恋慕を受け止めてくれると信じていた。


「わたしの存在意義はエイセイの友達であり、ホオリくんの恋人だった。それが現実では(現実、と彼女は言った。何て優しいのだろうか!)援助交際をルーティンとする売春婦になり、恋や愛の定義をマジックで黒く塗り潰したの。間違いなくホオリくんが望んだ顛末だろうけど、わたし自身が選んだ人生だって思いたい。わたしは悲劇のヒロインではなく、愛の鎖から除外された孤在者でもなく、ホオリくんの独我が凝縮された補完者だと意図されたことを頓悟し、こうやって悟ったわたしの存在が現在から現在へ進めてくれることを許すホオリくんを好きでいる」


 愛している、と告白しないことが彼女のアイデンティティだった。後方から水飛沫の音が迫り、背中に人一人分の重みを受けて僕は海中に沈んでは浮かび上がり、仰向けになって夏の太陽と対面した。隣には僕と同じ姿勢で波の枕に頭部を預けているルミナさんがいた。黄金の髪の線が海藻のように攪拌され、女神の異名に負けない濃艶な表情を水面から出していた。


「わたしって、そんなに大層な神様じゃあないんだけどね。女神はちょっと恥ずかしいかな」

 最後の一文は声に出ていたようだ。彼女はきまり悪そうに笑った。

「謙遜する必要は無い。ルミナさんはずっと隠されていた美の究竟を備え続けていた」

「ホオリくんこそ、わたしにもう……気を遣わないでよ」

 船体のように海上で揺れる僕等二人は、空虚な睦言で励まし合っていた。めいめいの慈悲は相手に届かず、分泌液のように皮膚から漏れ出て大海へと薄まっていく。


 夢が醒める瞬間、僕は未練の手綱を自ら引いた。期待に違わず、一つのエピローグに立ち会ってくれる彼女が引っ張られて此方へとやって来た。

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