<HE-δ>

 鉛より重い瞼を持ち上げて、僕は眼を開けた。きみに似つかない妹が追加注文したオレンジジュースをストローで飲み、喉を潤していた。目覚めに相応しい飲み物だと感じたのは僕ときみの妹の二人であり、斜め四十五度に折れ曲がったストローの口を僕の方へ向けてくれた。

「おはようございます。良い夢を見られましたか」

「悪夢でも対面しないような化け物と戦っていたさ」

 彼女の好意に甘えて、オレンジジュースを飲ませてもらった。酸味が強く、目を瞑って口に含めばグレープフルーツジュースだと錯覚してしまうくらいだった。色が濃いだけで、実際はグレープフルーツジュースであるかもしれない。

「私は文学に疎いので何とも言えませんが、姉の小説って上手いものなんですかね」

「客観的な評価が難しいから、僕も何とも言えないな。でも、本当に訊きたいのはそういうことではないはずだ」


 きみの妹は、僕等の現実に近寄った希有な存在になった。頑なに眼を背けていた現実へ、今更遡行しようという気持ちになれたのはきみの思惟を引用すれば運命であり、架空のプレッシャーに自滅し敗残した成れの果てであった。


「ホオリさんと姉は、壮大な嘘をついていました……どれだけ壮大であるかと言えば……神の能力に匹敵する言語で現実を不確かにしていたと察します」

事の発端は、と口の形だけで質問を投じたので簡潔に答えた。「両方だった」

「御二人は普通の生活が嫌だったのですか? AやBを可能にする世界に魅力を覚えたのは、姉の厭世観が原因でしょうか? それともホオリさんの偏った文学志向がそうさせたと?」

「全部が正解だと見做せなくもない。が、具体的な因果で連関させても、身体の中に鉄片が入っているかのような不具合を覚えているんだ。僕はルミナさんと空の性行為を消化させ、彼女はユクエさんと愛の定義を論駁し合う……それが文芸部四人の理想的な関係だったはずなのに、僕の手には何も残っていない……いや、最初から何も無かった……」

「悲しいこと、言わないでくださいよ。ホオリさん達の過去小説って、意外と明るい話だと思います。私からしたら、これは喜劇です」

「喜劇?」


 恐ろしいことをきみの妹は易々と口にした。悲劇の真反対にいる兵士が手榴弾を投げ込み、僕の四肢をバラバラにさせる爆発が起きたのは《ニャオデリカ》ではない荒地の戦場だった。


「<死の練習>も陰鬱な生存が目的ではなく、明るい未来に向かって動き出すプロジェクトだったのです。そのためにAが文芸部の皆様にとって必要だったのでありまして、Bの導入もケースバイケースで姉とユクエさんの二人で検討する必要性がありました」

「妹さんは反動主義を極めているようだな」

「ポジティブと言っていただけるのであれば幸いです」

 きみは矢張り、姉妹間の一般的な概念を破り断鎖した。または、きみの妹から空気を読んで独立した。結果、僕ときみはまともなコミュニケートを断念している。自らの存在を虚構の河に流し入れないと呼吸がままならない身体になっていた。

「妹さんは姉を愛しているか」

「勿論」

 不意を突いた尋問だと思ったが、殊の外きみの妹は即答した。であれば前言撤回させていただき、世間の目からはあまり解り得ないような姉妹の絆があると僕から推定する。

「羨ましい。僕は……彼女を愛せなかった。橋渡しとなる友人を呼んだのは裏目になり、僕と裸の附き合いをしたのは彼女ではなかった」

「ホオリさんはユクエさんとも結ばれなかったのですね。結局は……ルミナさんがホオリさんの愛人になった、と……」

「ルミナさんに関しては、愛人すら至らない関係だった。遊戯、という属性が最も近しいだろうか……ルミナさんは目的無き興味で男性器と戯れていたから。ルミナさんの視圏に映る僕は人間の形をしていなく、竹の子よりもずっと細いペニス其物に見えていただろうな」

 一瞬、きみの妹は僕を侮蔑したような眼つきをした。きみと違って、上品な心を御持ちらしい。きみは下品な少女だった。糞尿以下の僕に纏わり附く蠅のように、一緒にいてくれたのだから。

「文芸部の憶出は構築し終えた。僕が語れることは以上だ」

「そんなはずはありません。AとBの内実を悉く無視しているじゃあありませんか」

「僕等の過去がどうしても気になるなら、彼女にもう一度問えばいいさ」

「そしたら私は再びホオリさんの許へ盥回しにされてしまいます」

「だったら僕が直接彼女を説得する。彼女の電話番号は?」

 無愛想にありがとうございますと言い、きみの妹はテーブルにあったナプキンを纏めて二三枚取り、手持ちのボールペンで数字を書き殴って僕に与えた。

「あなたがしっかりしないから、姉は気狂いになったのですよ!」

 急に怒鳴られても、僕は肩を竦めることしかできない。妹さんは月一の御客様に苛立っているんだな、と僕が附言したところ、アダルトビデオに出演している女優も声に出すのを躊躇うほど酷い淫語をきみの妹は連呼して、店内にいた客と従業員の視線を凡て掻っ攫い乍ら出て行った。僕はオレンジジュースのグラスを空にして、冷めたコーヒーはそのままに、きみの妹が書き残した電話番号をダイヤル入力しようとしたが、見覚えのある数列だったので手を止めた。


 USBに(メモリ的でなく物理的に)書かれていた電話番号は、確かにきみに繋がっていた。

 子供なんでも相談室の受附担当者は、きみだった。


 終電がなくなる前に家路へ赴いた。アルコール臭の漂う車内は窮屈であり、猫の額ほどしかない矮小な都市の中にこれだけの人々が梱包されていると思うと、人間は金銭に縛られた猿に過ぎないと痛感する。そう遠くない未来、地下鉄の吊革に掴まり乍ら自慰行為に没頭しては、優先席で生殖活動に勤しむ乗客が増加していっても僕は不思議だとは感じないだろう。

 きみの厭世観が妹を介して飛沫感染したことが起因で、頭蓋骨の中で鉄球が暴れ回っているかのような烈しい頭痛に襲われ、目頭を押さえてじっと堪えた。瞼の裏側なる闇のスクリーンには僕等の過去を網羅しているルミナさんとユクエさんの二人が登場し、きみの妹が述べていたような喜劇を開演しているようだった。現実と連動し、駅名のアナウンスが流れると二人はそれを物質的な文字に変換し、めいめいの文字に対する味や匂いや感情をレポーティングしていく。


「『路』はアンモニア臭がきついけど、甲殻類っぽい味がする」

「『水』は水っぽくないですわね。委縮の念が詰まった漉し餡みたいな味かしら」


 地上波どころかインターネットでも流せない番組の企画に、不本意にもプロデューサーを担当した僕は二人に謝罪をしなければならない。一般市民のオナニストが精液と共に垂れ流すネット動画配信のサイトでは多少通用するかもしれないが、可笑しみに対する感性が著しくズレている世界と世界が衝突し合った処で双方が不利益を被るだけだ。

 僕はこんな人間だから、まともな暮らしが出来ることなど一切合切望んでいない。だから、僕の両側に立っているサラリーマンの脇腹を刃物で刺し、捻って抉り内臓を痛め附けることも別にやっていいはずだ。それをしない理由が解らない。単純に刃物を所持していなくても横っ面を殴るくらいのことは出来るのに……僕は最寄駅まで奇異なモニュメントのように静止していた。


 自宅に帰った僕はベッドに倒れ、小波の音がする夢を見た。海が舞台となる記憶は乏しく、他者の絵日記の一ページが挟み込まれた世界で僕はルミナさんと再会した。

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