<HE-γ>

 <死の練習>は言わば、僕等の歪曲された世界を正す革命だった。きみは首魁として僕等三人を導いてくれた恩人だった。仔細を喋りたい思いもあるが、今も爾後も僕は言葉にしないだろう……。


 どういう訳か、僕ときみは長い歳月で離れ離れにされてしまった。ユクエさんの口調を借りるならば、永遠なる愛を育む二人なのに離別してもらっては困るかしらん、という不満を十年間持ち続けてきた。


 自分の声音を僕に聞かせなかったのは、肉体的な後遺症が原因ではないはずだ。きみはきみの意志で、声帯の労務を放棄した。その理由を追及するための手掛かりが、僕を主人公にして、且つノンフィクションに偽装したフィクション小説だった。


 きみから再度メールが届くことは想定内であるが、きみの作品を待ち遠しく思い一日二十三時間四十五分……寝る時も食事の時も……但し排泄時は除くとして……ノートパソコンの前に居続けたのはれっきとした嘘であり、現実の僕がしたことは書架に並べられてある古本に挟まれていた旧型の方のノートパソコンに関することであった。コンセントを差して電源を入れると、僕によく似た男が画面に映っていた。虫唾が走ると画面の男もしかめっ面をしたので拳を振り下ろして叩き殺した。ガラクタがガラクタになっただけだから問題は無い。

 

 待てよ。データだけ移したかもしれない。

 

 寝惚け眼を擦って頭を働かせると、私室の角で寂しそうにしているデスクの抽斗を開けた。横に長い空間をステンレスの小箱が独占していた。鍵附きであったが施錠はされておらず、外側にセロハンテープでくっついている鍵をゴミ箱に捨ててから中身を確認した。予期に違わず、USBメモリが入っていた。壊していない方のノートパソコンに早速接続し、内蔵されているファイルをダブルクリックした。此処までの流れは完璧に先駆していたが、未知なる未来は此処からだった。

 

 タイトルが全然違う……《真偽の彼岸Ⅳ》?

 

 《イデアガール対話篇Ⅱ》は別の標題に書き換えられていた。或いは最初からその標題であった。きみにお願いをされるまで文芸部の作品を保管していたのを黙っていた僕の記憶側にも致命的な欠陥があるが、僕の失態を棚に上げて指摘せねばならないことがある。《イデアガール対話篇Ⅱ》は何処へ消えた? それと、きみが原作として提案する小説はどうしていつも続編になる?


 質問も添えて、《真偽の彼岸Ⅳ》をきみへ届けた。それから日焼け止めクリームを塗り、日傘を持参して家を出た。僕の肌が白人より白人らしいことを今更意識した為にしたことだ。きみの言語世界は凡て虚偽している訳ではないらしい。


 最寄駅へ向かう道程、天蓋を圧迫する首都高の下、排気ガスの煤でコーティングされている歩道橋の上で僕は立ち止まり(このような日陰の場所でも僕は律儀に日傘を差していた。ユクエさんの姿を追うように……)電話をかけた。きみの電話番号らしい番号が記入されていたUSBメモリの胴体を見乍ら。


「お電話有難うございます。子供なんでも相談室です」 

 僕、成人ですけど電話して良かったのでしょうか。

「御自身が子供であると御思いでしたら、承ります」

 彼女の正しい電話番号を御教えいただけますでしょうか。

「かしこまりました」


 此処ではない何処かで、こんなやり取りをしていた気がする。その時の主観は僕だっただろうか。それも電話先が教えてくれるだろうか、と考えるも十一桁の数字を手の甲にメモするだけにして電話を切った。その連絡先へダイヤルすると、只今電話中ですとそっけなく言われて切られた。首を傾げると、今度は非通知から着信があったので一コール以上二コール未満で通話開始のボタンを押した。


「ホオリさんですね」

 子供なんでも相談室の担当者とは違った女性の声だった。僕の名前を呼んでくれるのは大概きみ達三人だったが、僕の追憶が非該当だと判断した。

 どちら様でしょうか。

「申し遅れました。私、エイセイの妹です」

 妹さん? 彼女に妹がいたなんて初耳だが。

「姉は自分語りを極力避ける人ですから。ホオリさんも姉の稟性はよくご存じのことでしょう」

 そう言われれば納得はするけど。で、妹さんが何の用だ。

「姉からの伝言です。文芸部の過去小説の続きと《真偽の彼岸Ⅳ》をお送りいただき有難うございます。それとカフェへのお誘いです」

 エイセイさんはステレオタイプのナンパを僕にするのか。

「いいえ、伝言はお送りいただき有難うございます、で終わりです。カフェは私からの依頼事項です」

 妹さんが僕と? 断る理由は無いが、快諾する理由も無いな。

「本日の十八時、N駅四番出口にある《ニャオデリカ》でいかがでしょうか」

 都合のつく時間帯だった。であるにしても、僕はきみの妹と食事会を開くメリットがあるのだろうか。答えの出ない僕は無言で返事をした。

「ありがとうございます。それではお待ちしております。予定変更等ありましたら、此方の連絡先までご連絡願います」

 非通知相手にどうリダイヤルするんだ、と言い伝える前にきみの妹は電話口から立ち去り、通話終了を示す無機質な単音が僕の耳をまち針のようにつっついていた。耳介には無数の小さな穴が空き、刺繍糸に似た血が噴水の如く噴き出てくる。


 《ニャオデリカ》はチェーン店だったが、僕は今まで利用したことがなかった。利用した覚えがないだけで、喉が渇いたら無意識の裡に店へ吸い込まれていっているのかもしれないが。地下鉄に潜り続けていた反動で地上に降り注ぐ淡い夕光に寒気を覚え、自動扉を存在感でこじ開けて店内に入ると、きみの妹は手を振らずに声も出さずに僕を呼んだ。眼路すら僕に向けない彼女は紙を拡げて黙読していた。その姿に僕の方からきみの妹だと確信したのだ。何故判ったのかと問われれば、あれがきみの妹でなかったら彼女は何者でもなくなってしまう……そんな虞を覚えたからであると言う外にない。


 先にカウンターへ行き、メニューを見ずアイスコーヒーを注文した。

「お待たせしました」と店員が間違えてホットのアメリカンコーヒーを差し出したのだが、僕の思惟は店員に対するクレームには一切使われず、僕等の過去話のみならず現在においても、コーヒーというアイテムが頻出している事実への考察に労力を費やした。結果徒労だと気附いたのは数秒後であった。


「こんばんは、ホオリさん」


 ホットコーヒーをソーサーで震わせ乍ら持って行くと、フロアの中央にあるテーブルから三四歩手前の辺りで僕は彼女に来訪を認められた。姉妹の血の繋がりは相貌では確認しかねる。きみの妹は模範的な笑顔の装甲で職員室にいる教師の信頼を勝ち取る学生と同等であった。由って、きみとの属性的隔絶を強制されるであろう。


 啻に、髪型は類似していた。きみの妹も短く切られた黒髪の毛先を肩に触れさせていた。ところで僕は、きみが断髪した理由をまだ聞いていない。教えると言ったのはきみであるが、それを知ったところで僕達の関係性は変化しないと見做して忘れたことにデジャヴを覚えた。不毛な脳内会議は複数回開催されていたらしい。


 彼女の対面で座らせてもらい、カップに口をつける前に僕はハッとした。きみの妹が読んでいた紙は……縦書きの小説だったのだ。


「ホオリさんと会うための予習で、《真偽の彼岸Ⅳ》を読ませていただきました。可也興味深いストーリーでしたね」

《真偽の彼岸Ⅳ》か、それは。読書感想文的な感想を伺っても?

「ええ。合わせて拝読しました姉とホオリさんの艶文と繋げて、是非語らせてください」

 艶文? 錯綜した文芸部の過去日記をラブレターに転釈する要素があったようには思えないが、エイセイさんがそう見做していたのか。

「姉もそう思ったようですし、私も概ね同意しています。ちなみに、姉は本日体調不良で自宅待機しています」

 妹を代理で寄越すにしても、電話くらいは出来るだろう。

「あれ? ホオリさんに連絡入っていませんか? 姉が電話したらしいですけど」

よく解らないな。まあ、脱線しても仕方ないから率直に本題へ入るけど、妹さんは僕達文芸部のことを何処まで知っている?

「姉とホオリさんの艶文、それと《真偽の彼岸Ⅳ》で描かれた世界が私の認識している凡てです」

 つまり、《イデアガール対話篇Ⅱ》と《真偽の彼岸Ⅳ》のズレは感じているね。

「はい。私の卑見を申し上げますと、姉の艶文にあった《イデアガール対話篇Ⅱ》は嘘だと思われます。ホオリさんも恐らく、こんなタイトルの小説を文芸部で書いた覚えは無いと感じているでしょう」

 妹さんは賢いな。でも、姉と僕は逆に愚か過ぎた。《真偽の彼岸Ⅳ》もまた、僕の記憶の抽斗には無かったのだから。執筆者であるはずの僕が訊くのはおかしな話だが……《真偽の彼岸Ⅳ》にはアイドル崩れの女流雀士Yと自殺願望者である無職のEは登場していたのか。

「ええ。最後まで二人は生きていました」

 僕とルミナさんのミルフィーユ的プロローグは?

「姉が絶賛していた、ホオリさん達の執筆技法ですよね。それらしきものは何も……」

 きみの妹は口を閉じ、目線を下げて《真偽の彼岸Ⅳ》の秩序を維持していたクリップを外した。ページを早送りしては巻き戻し、改めて原稿用紙一枚分の感想を述べようとした。

「ホオリさんが関与していない作品ということは、この小説は文芸部における正当な合作ではない可能性が高いです。私の姉とユクエさんをモチーフにした二人の登場人物が少女小説めいた浅はかなストーリーラインを延々と歩んでいく中で、自殺願望をスパイスにして召し上がるような言語世界でしょうか。ただし、タイトルが《彼岸の世界》と多少連関していることから、姉は事実と虚偽を上手く混ぜてハーフフィクションの過去を創造する奸計を考えていたのかもしれません。特に艶文の方で、ホオリさんを薬物中毒者に仕立て上げたのもその一つです。ゴシックの世界観で現実を捻じ曲げようとした姉の気概には感服しますが、若干無意義なリライトも含まれているため、読者の不要な深読みを誘ってしまう気がします。《真偽の彼岸Ⅳ》を、《イデアガール対話篇Ⅱ》に変換したこと自体には意味はありません。艶文で包括した総合的作者の気まぐれでしょう」

 

 きみの妹は綿菓子のような声音で二十×二十の桝目を埋め尽くした。

 妹さんの見解に、僕は凡て同意しよう。御察しの通り、《真偽の彼岸Ⅳ》だけでなくエイセイさんが書いた文芸部の追想小説にも架空が紛れ込んでいる。


「ですが、真実も含蓄されています。そう、喩えば……<死の練習>について」

 きみの妹は言葉の旋律を変調させ、舞台のメインテーマを流すような面持ちでいた。僕が此処に呼ばれたのは、……。


「私の姉とルミナさん……それとホオリさんは、ユクエさんのパパを殺したのでしょうか。ユクエさんのパパを殺したことで、私の姉は今も生きているのでしょうか。果たしてそれで、<死の練習>は上手くいったと見做していいものでしょうか」


 文芸部の過去を再検討する上で絶妙な三つの質問。きみの妹は僕の深奥にか細い腕を突っ込んだ。生真面目そうな顔で指を動かし、悪の腫瘍に触れようとしている。然し、僕の内側では現在を頼りなさげに連結させる不規則のノイズ以外に見当たらなく、僕を僕だと詐称してくれるテレフォンカードくらいの大きさの証明書は脾臓の裏側にあるゴミ箱に捨てられている。


「ホオリさんの声で、文芸部の過去の続きを書いてくれませんか」

 エイセイさんから、何も教えてくれなかったのか。

「ホオリさんと一緒に憶出を再構築してください、という姉からの言附を遵守している所存です」


 奇妙な姉妹だと僕は訝るも、視座を時の川の流れに逆らって進めさせた。啻に、咎の起点に到着した処で僕が話せることは限られている。漠然としたシノプシスに過度の潤色を附加させるしかなく、やっていることはきみと同じになってまう。それでも構わないなら、きみの妹を介して僕等の空白に数万種類のジグソーパズルを押し込んでもらい、取り繕うことにしよう。完成した一枚の絵は抽象表現主義のアーティストを失望させて、彼等の拳で細かなピースに戻される。僕はバラバラになった欠片を寄せ集め、その上で起臥する生活を送ることにする。

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