<EY-Ⅱ>
きみは覚悟を決めて、彼女と会う約束をした。落ち合う場所は、都内の庭園で。百貨店の屋上に設えている庭園とは違う処で。
コンクリートジャングルの亀頭が遠方で見え隠れしている日本庭園は粋ではないが、きみにとって肝要なのは皮相的な風景ではなく、彼女の傍にいる事実であった。マグマより熱い恋慕を口唇の震える振動で放出させ、何としてでも彼女の愛人でありたいきみの意欲が表に出ている。
「静かな場所ですわ。エイセイさんは普段、こういった場所で御過ごしですのね」
季節外れの紫陽花が咲いたような日傘を差す彼女は、きみの一歩後ろにくっついて来ていた。石橋を優雅に渡る姿に、沢飛石にしがみつく蛙が魅了されては池に落ちてしまった。蛙の落下点より波紋が拡がり、水面は静かな歓声をあげる。自然界に動揺を与える彼女は、自分の価値を未だに解り得ていない愚かな存在だった。そんな彼女の凡てを求めているきみはもっと愚かであり、二人の馴れ初めを想像で補っていた当時の僕は最底辺の人間であった。
「ゆくりなく、死の予感を覚えた時は……趣のある世界に浸りたく思います」
「素晴らしい。素晴らしき日々ですの」
きみは大仰に賞賛された。矢張り、彼女はきみの死を歓迎している。適応力の著しい愛しき人にきみは感激するはずであったが、喉から出てきたのは醜状の目立つ大蛇だった。
「××××××に嬲られろ」
「ん? 何かおっしゃいましたか」
「なんでもありません」
見るに堪えない大蛇はすぐにきみの食道へ引っ込み、猛烈な酸性である胃液に溶かされて消えてしまった。それは夢幻の代物とは言い難く、きみの憎悪が見せつけた慟哭の結晶が正解に近しい。百パーセントの正解がない世界だから、僕は断言を避けなければならない。
人気の少ない径に入ると、二人は陰影に守られた四阿を見つけた。其処には丁度、二人分の座席を用意しましたと言わんばかりに石柱の腰掛けが二つあったので、きみ達は自然と足を止めて休憩した。
「夏休みもあっという間に終わってしまいますわね。残念かしらん」
「ユクエさん、意外と高校生らしいことを言うんですね」
「そりゃ、高校生ですもの」
小動物の笑い方をする彼女の手は、へその下辺りに置かれている。其処に手を置くことで、二人が安心できるかのように。いや、三人だろうか……。
「出産の御予定は?」
「櫻が咲く頃には」
「春にちなんだ名前が良さそうですね」
きみは和やかな語調を選ぼうとしたが、二酸化炭素と同時に疑懼の念も漏れていた。黝んだ吐息は肋骨になっている宝形造の屋根をすり抜け、夏の熱射を遮蔽する若葉を病葉へと変えていく。
「ネーミングはホオリさん次第なので、期待して待っていますわ」
僕の突発的な進言を彼女は覚えていた。素直らしいことに文句は言えないので、生まれてこない可能性がある命の名附け親に軽率な判断でなってしまった僕を憎むことで妥協する。
「ユクエさんは彼のこと、好きですか」
「ええ、好きですわよ。彼からの眷恋はラブスプレマティストの主食足り得ますの」
彼女の善意に僕は褒められているのかもしれない。でも、彼女の実体より僕は認められていないのが、その言葉で明白だった。したがって、マクロ的僕を忖度してくれたきみが代理で悔しがってくれたのだ。
「どうしましたの、エイセイさん。頭でも痛いのかしらん」
知性が充溢しているきみの頭部が抱えられているのは医師が診断できるような症状が原因ではなく、年頃の女子が饒舌に語る恋の病が作用しているのでもなく、喪失したはずの大蛇に烈しく締め附けてられていたからだった。
「大丈夫です。薬を飲めば楽になります。そんなことよりユクエさん……」
大蛇を振り解こうとするきみの動きこそ蠕動する爬虫類其物であったが、情意は極端に苛烈なヒューマニズムを有し、並みの人間ではオーバーフローを起こして憤死してしまう処をきみは踏み留まっていた。
「結婚は考えていないのですか」
きみの質問に、彼女は目をビー玉のように転がした。
「エイセイさんったら、意地悪ですわね。わたくし達が婚約を遺棄せざるを得ないのを知っているくせに」
「不可能とおっしゃるのは倫理上のお話ですか。それとも、役所に受理してもらないから?」
「断然後者ですの。別に悖徳の行為ではなくって?」
彼女の双眸が一段と輝き、超新星爆発を思われる徴候を示していた。恒星の終焉を見届けて死にたいと願うきみが未だに死にきれない理由は、この世で最も猥雑な単語に尽きる。
「――近親相姦の神聖化は、果たして純粋愛に符合しますでしょうか」
キンシンソウカン。語感だけで聞く者を底なき底へ頽落させる、禍々しい<Co-Dasein>……もとい共同現存在。故に僕は、時を超えて絶望を再び味わう……。
「蓋然性の塊であるとわたくしは認識していますわよ。わたくしに血を分有してくれた生みの親と、絶え間ない感謝と協同愛を実現しなければなりませんの。実存協同と称すべき<死の哲学>はエイセイさんも御存じですわよね? わたくしも確かに一度は死にました。概念上の死でもなければ社会的抹殺でもない、正真正銘の死をわたくしは理会しましたわ。でも、後悔は全くありませんの。汗と油が混淆したような匂いを放つパパの胸に顔を埋め、(彼女は必ず、自分の父親をパパと呼んだ。それは彼女の本心の外、架空的存在の少女に影響を受けたと思われる。少なくとも現実には、彼女ほどの気狂いはいないはずだから)わたくしの体内へ侵徹する愛のベクトルに心躍り、パパがくれた血を流すわたくしを第三者の視界から恭しく眺めていましたの。もしかしたら本当に幽体離脱が起きたのかもしれないと疑ってしまうほどに、わたくしの精神は昇天いたしましたわ。エイセイさんもホオリさんもルミナさんも……絶対に味わったことのない幸福だと誇っています。パパはわたくしを抱いて悦んでくれます……わたくしはパパに抱かれる現存在の存在性を自覚して究竟なる愛のイデアを知り得ます……わたくしが逢着した世界規模の実存協同はそのような様態であり、荒廃した過去も不毛な将来も度外視した重々しい現在で満ち足りていますわ。エイセイさん。貴女は先刻、近親相姦と神聖化をコピュラで嫌々接着させたようでしたけど、思考の幅を拡げてみては? どうしてパパの子供がパパの子供を産むことを否定なさるの? どうしてわたくしの恋情を低く見積もってしまいますの? どうして(三回目の<どうして>できみは発狂しそうになったが、下唇を噛んで必死に我慢していた)エイセイさんはわたくしの望みに黒い懐疑を投げかけますの? どうしてエイセイさんも自分のパパを誘惑してみようと御思いになりませんの? どうして(五回目の<どうして>はきみの腕の皮膚を爪痕で赧くさせた)協同愛に常識の桎梏で不自由にさせますの? どうしてホオリさんとルミナさんの肉体関係は容認されるのに、わたくしとパパの同衾は十字抹殺されてしまいますの? どうして――――――(七回目の<どうして>ではきみの聴力が著しく喪失した)の見地に於いて、自らの思惟を働かせようとしませんの? わたくしにはこんなにも沢山の疑問がありますわ。時には不安になることも多々あり、人生解らないことだらけですけど畢竟、愛が凡てを救うことを長らく信じれば皆が救われますのよ。ほら、庭園の上空を飛ぶ烏も孤独に飛んでは、頼りない樹の枝に留まりますわ。苟も季節が反転すれば枯木寒鴉へと止揚できるでしょうけど、灼熱の国に適応するべく賎しい火の鳥になって旱魃の大地へ墜落してしまいますわ。人間も同様、世間体の火焔に炙られることで窮地を脱出する傾向にありまして、それが無償の愛との連関を持つ秘訣として――」
まだまだ彼女は詭弁を振るっていたが、僕は限界を感じた。それ以上拝聴していたら、廃人と化していただろう。彼女の声音は麻薬其物だった。されど、聴力をおかしくしてもきみは無言で耳を傾けていた。世界が狂っているのか、彼女が狂っているのか、はたまた自分自身が狂っているのか、何れにせよ凡てが薬物中毒者になり風俗街に紛れているクレイジーパーティーに出席すれば簡明な答えが得られるときみは漸悟し、瞼を閉じた。
<甚大な疲労を感じ乍ら、メールを送信した。添附ファイルを一度忘れてしまった為、再送信して眠りについた。誰の夢も見なかったのは幸いだった>
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