<HE-Ⅱ>

 あなたと私は共空間に居られない存在であり、あなたが北へ歩みを進めたら私は南を向き、あなたが東の空を仰いだら私は西の海底へと潜っていくような関係であると自認していましたが、その日は珍しく顔を合わせました。学校ではなく、近所のファミレスで。

「きみも部室から遠ざかって、こんな処で夏休みを過ごしていたのか」

 私服のあなたは真夏日でも長袖を着られていました。腕に残っている醜い注射痕を隠すためだからとあなたは軽口を叩くこともありましたが、それは半分冗談でして、まっさらな肌を焼きたくないのが半分の真実だったことでしょう。


 <尚、は此処で黙読を中断して自らの肉筆での小説に割り込んだ。気狂いや半身といったワードで僕を薬物中毒者へと偽造させる悪計が頻出しているのはどういうことか。《イデアガール対話篇Ⅱ》についても思い出した感覚はゼロではないが、果たしてそのタイトルで合っていたかどうか些か怪しい。>


 私の手許には相変わらず、ノートパソコンがありました。その脇に置かれているアイスコーヒーの氷は殆ど溶けていて、絶妙に気分の悪い褐色をグラスの中で漂わせていました。対面の椅子にあなたは座り、私達と年齢がそう変わらないウエイトレスさんを呼び、同じのをくださいと言ってオーダーしました。

「きみに確かめるべきことは日毎に加算されている」

「では、減法されてはいかがでしょうか」

 小学校低学年でも容易に答えられる数式を、あなたはわざと難しく考えているようでした。ウエイトレスさんに運ばれてきたプリンパフェを一口食べて糖分を補給してからやっと、対話を進行させるエネルギーを消費しました。

「僕は愚かだった。きみの自殺願望に全く気附かず暮らしていたんだ」

「正確には<死の練習>ですが」

「きみは言葉の外見を気にする人かもしれないが、僕にとってはどうでもいい。きみが死ぬ勇気を覚知したこと自体に疑問を覚え、悔悟しているから」

「ホオリさんらしい自省ですね」

 グラスに口をつけた私は、口の中で泥水が跳ねまわって順次蒸発していくような味覚を感じました。苦くもありませんが、甘くもないです。

「死へと向かう契機を教えて欲しい」

「生まれた時から、常に既に死へと向かっていましたよ」

「ハイデッガー流の存在論について論駁するつもりはない。通俗的な死の理由を僕は訊いているんだ」

 あなたは何かに焦っているみたいです。幻想の匕首があなたの首筋にピッタリと寄り添っているような、積乱雲の生クリームを掛布団にしたプリンに含まれている猛毒があなたを脅かしているような、あなたからの注文を間違えたウエイトレスさんが逆上して、エプロンのポケットに忍ばせていたリボルバーで頭部に大きな穴を穿たれてしまうような……実の処、私よりもあなたの方が屍界との距離を短くされています。

「敢えて言表するなら、死にたい時に死にたくなったからでしょうか」

「何故疑問形なんだ。きみのことを一番良く知っているのはきみだろ」

 すみませんが私の心を代弁してくれるのはあなたです、と私は目で訴えました。沈黙内言語を翻訳できないはずもないあなたは観念したように話を続けました。

「《彼岸の世界》もそうだったが、エイセイさんは厭世観を主食にしている作家だ。世間に対する恨み辛みを容赦なく外表させ、幸福な人間を妬み嫉みで突き放してきた。僕はそんなきみが好きだった。これからも好きでいられるだろう。だが、マイナス符号を伴う澱んだ電撃は現実と架空の狭間で跳ね返り、きみ自身の知情意に悪影響を及ぼしていることの自覚症状を持ったほうがいい。僕の言っている意味が解るかい」

 超現実主義に秀でたあなたの解説は見事でした。然し乍ら、私はあなたの思惟を高く見積るのみで、肝心の内実はぼんやりとしていました。

「不思議な人ですね、ホオリさんって」

「きみの方が不思議だ。髪の毛から足の爪先まで謎の元素がびっしりと詰まっているようだ」

「謙遜しないでください。ホオリさんがユクエさんを愛していることを私は知っています。文芸部の部長と話す時間は途轍もなく無生産的なもので、彼女の媚態を妄想世界で再現し乍ら自慰行為に耽る方が幾分有意義です」

「とんでもない。僕はルミナさんと寝ても、ユクエさんには一切手を出せないんだ。空想上の性行為も自らの右手に依る慰めも、聖母には通用しない」

「でも、その聖母は非処女となりました」

「ああ、そうだ!」

 観客に向かってわざとらしく叫ぶ演者のように、あなたは両腕を目一杯開きました。右隣のテーブルには喧しい子供二人を連れた母親がいましたが、私達二人の崇高なる思弁で偏頭痛を引き起こし、食事を済ませると泣き喚く動物を連れて早々と離席しました。その際、母親があなたに向かって悪言を放ったようですが、その数百倍穢い痛罵で跳ね返したあなたの刺々しい差別用語に依り母親は血の気を失い気絶しました。

「やっと本題に繋がった。エイセイさんに訊きたかったんだ。ユクエさんの子供の父親は誰であるかを」

「ユクエさんは言わなったのですか。パパのこと」

「勿体ぶられたのさ」

「悶々としたでしょうね。ですけど答えは簡単ですよ。彼女のパパです」

「正確には胎児のパパだろ」


「そうでもあるし、


 真実を伝えた瞬間、私の眼より血の涙が流れました。赧く伸びる流動線は私の口内へ侵入し、鉄パイプを齧ったような味がしました。その鉄パイプを握り締めて撲殺したい相手は恐らくあなたの宿敵と一致するはずです。

「そっか」

 そっけなく言った割には、あなたの眉間には皺が強く残っております。パフェの容器を空にすると、私のアイスコーヒーを奪って喉を潤し、<死の練習>と呟きました。

「エイセイさんは結局、ユクエさんに<死の練習>の御誘いをして断られたの」

「有耶無耶にされました」

「じゃ、代わりに僕としない?」

「大歓迎です」

 莞爾として笑った私に、あなたもステインが除去されている歯列を見せてくれました。<死の練習>の企図を説明しなくても、あなたは自力で理会しておりました。理智的な処がユクエさんと相似していて、第六感を超えた能力を酷使する姿がルミナさんと相重なっていました。

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