002 期待

 記憶がない、というのは実際に起こってみれば、大した恐怖体験ではなかった。正確には、”僕自身にとって”、それは怖いものではなかったというのが正しいけれど。

 しかし、それは大変厄介やっかいなものに変わりはない。

 特に、気づけば理不尽な苦しみに襲われていた、なんてシチュエーションで記憶がないなんて、厄介やっかいという言葉以外に、貧相なボキャブラリー所持者ホルダーの僕には言い表しようがない。言うまでもなく、僕にとって、その理不尽な苦しみというのは、耐え難い程に強い頭痛を中心とする全身の痛みだ。


 一方、記憶がないことを他人に打ち明けるのも、実際のところ躊躇ちゅうちょする。

 例えば車に轢かれて病院で目が覚める。そこで医者に「ここ数週間の記憶がありません」というのは、そう難しいことではないだろう。では、物理の授業を聞いていて、ふと記憶が無くなったことを、いきなりに受けて信じてくれる人が、はたして僕の教室内にいるのだろうか。仮にいたとして、僕はこの数週間を無事に過ごせていたと言えるのだろうか。実際のところは訊いてみなくては分からないのだが、自分の体の痛みをかんがみるに、何かしらをやらかしていることは察しがつく。結局のところ、記憶がないことを他人に打ち明けることは、土台どだい無理なこと、というよりやはり、躊躇ちゅうちょすることなのだ。

 とは言っても、この数週間に何があったのかは気になるし、知りたい。記憶が戻るのを待つのも手ではあるが、戻らないことも考えれば、他人ひとに訊くのは、できるだけ早いほうが良いだろう。


 そんな葛藤に揺れている内に、頭の痛みは強くなっていくのだった。

 記憶をさかのぼろうとすることも、自分の頭をめ付ける。キリキリと痛む頭に軽いストレスを感じ、記憶をさかのぼる行為自体を辞めざるを得なくなり、右頬をひんやりとした机に押し付けた。

 前にどこかで、脳には痛覚つうかくが無いとかなんとか言ってる医学者の話を目にしたが、あれが本当であったのか疑わしくなってきた。もしかしたら、ただの客寄せ用のジョークだったのかもしれない。


「脳に痛覚はないよ?」

 ふと頭を上げると、神代かみしろだった。

 

 うっかり声に出してしまっていたのか、頭の中を読まれたのか、神代かみしろは、少し左に首を傾げながら答えた。

椋代むくだい君、頭でも痛むの?」

「いや、あの。まあ―――」

 どこまで聞かれていたのか分からず、なんとなく言葉を濁した。

「―――少しだけね」

「ふうん」

「別に、大した痛みじゃないんだけどね」

「ほんと?そんな風には見えなかったからさ」

 神代かみしろは、僕の嘘をあっさりと見破ったうえでニッコリと笑った。

「あ、ちなみに脳に痛覚つうかくはないんだよ?頭痛とかで痛むのは、頭部にある血管とか膜とかの組織が痛覚をもってるからで、脳自体が痛がってるわけじゃないの」

 得意そうに話すわけでもなく、どちらかと言えば僕に新しい知識を授けてくれるような様子で、「頭痛いときに、頭で悩んでもしかたないよ」と付け加えた。

 それもそうだな、と僕は返した。


 神代かみしろあかり。我がクラスの誇る超級スーパー有能副委員長で、誰に対しても優しい。とりわけ僕には、めちゃくちゃ優しい。だから変にったき方をしなくても、彼女の物理のノートを拝借はいしゃくするくらいどうってことはない。

 また、彼女はそれでいてとても謙虚で、自分を飾ったり、傲慢に出る事はない。ひじりという言葉は、彼女にこそ相応ふさわしいと、僕は心の底から思っている。地域ではお金持ちとして有名な神代かみしろ家の一人娘でもあり、ふわりと柔らかそうなロングヘアから香る甘い匂いは、男女問わず誰をも魅了し、誰からも尊敬される存在。それが彼女だ。

 こういう人を見ていると、つくづく神様ってのはまったく不器用なヤツで、人を平等につくることができないのだなと、ため息をつきたくなるものである。無論、神に人を平等に作らなくてはならぬ義務などはなから存在しないのであるが。

 彼女のことを初めて知ったのは去年の3月のこと。僕が高校へ進学するためにこの町へ越して来たその日だった。その日以来、振り返れば僕は、彼女に頼りっきりの高校生活を送るダメ人間と化してしまっていた。

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消失世界のホログラム 蒼月 水 @Aotsuki_Titor

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