第2章 魔法の樹の森
9 魔法の樹
ゴブリン達の魔の手を逃れてから十日が過ぎた。
幾つもの険しい山を越え、朝から日没までただただ馬に乗り前に進むばかり、行けども行けども、ゴツゴツした岩肌、時に、山から吹き降ろす風は、凍り付くような寒さだ。
ゴブリン達の凄まじい攻撃で疲れ果てているうえに、この風は肌身にしみ、さらに心が萎える。
パルモラとステファノ、エルダルスの馬も、走り込む事が出来ない岩山と冷たい足下に悩まされた。ティノ達も大変な旅だが、ティノ達を乗せて歩く、パルモラ達、馬も厳しい道のりだった。ティノ達の髪の毛やまつげには、細かな氷粒が付く、あまりの寒さで心まで凍り付きそうだった。
こんな苦痛を強いられて、本当にこの先、魔法の樹の森にたどり着けるのだろうかと、みんなの心には懐疑的な気持ちがふつふつとわきたつ。
寒さだけではない、食べ物もだんだん少なくなり心細くなった。
この状態が続けば飢えと寒さで間違いなく、みな共倒れになる。
セレーナも、足の傷が、寒さのためになかなか直らなかった。時より、痛みが走り、優しいセレーナの顔も時より強ばった。
モナは、いつまで、この険しい山道を行かなくてはならないのかと、エルダルスにくってかかった。
「もう少しの辛抱じゃよ」
エルダルスは、モナをなだめたが、過酷な旅は、いつ終わるか予想がつかない。
そんなつらい日々が続いたある日、道が三方向に分かれる峠にさしかかった。
魔法の樹の森に行くに、どの道を行けば良いか、途方にくれた。
エルダルスさえも、どの道を行くべきか悩んでいる。
みんなが途方に暮れていると、突如パルモラの手綱が、光始めた。
憔悴しきった姿の一行は、手綱の光を見て驚いている。
「ねぇ、ベリータ女王様が言っていた、手綱が助けてくれるって、この事かも」ティノが言った。
「そうじゃな、その光は、魔法の樹の森が近づいている証じゃ」エルダルスが言った。
よく見るとその光は、ティノの右手側だけが光っている。
「右だけが光っているって、右の道を行けって事?」ティノが言った。
「そうじゃ、そうに違いない、みんな右の道を行こう、これは天の助けじゃわい」エルダルスが言った。
そしてその光は、日に日に輝きを増していった。
それから数日が経つと、突如エルダルスが大声で叫んだ。
「みな、見よ、あの山こそが、魔法の樹の森の入り口じゃ、もうすぐじゃよ」
エルダルスが指さす先には、氷河に覆われた鋭く切り立つ岩山が見えていた。
天に向かってそびえ立ち、人を寄せ付けないそう荘ごん厳さえ感じる山だった。
それから一行は、無我夢中で山の麓に向かった。
二日の時が流れ、遠くで見えていた鋭く切り立つ岩山が、目の前に迫った。
しかし、近づいて見ると断崖絶壁が続く危険な所だ。
もはや道は無く氷河が覆う山を進むしかなかった。
「もうすぐだって言うから来てみたら、これじゃまともに進まないわ」モナがまた嘆いた。
「モナさん、危険だけど大丈夫、任せて下さい」とパルモラが言った。
「こんなに苦労かけるなんて思わなかったよパルモラ本当にすまない」ティノが言った。
しかし、パルモラは、弱音を吐かなかった。
「ティノ、人間でも私たち馬でも、生まれたからには、必ず生きる使命があるものです、私は、天から魔法のヴァイオリンを造るティノを助ける使命を与えられたのです、だから、その目的を達成させるための歩は、苦労と思わぬことだと自分に言い聞かせてます」
パルモラの足下は、決して安定はしていない、しかし、パルモラ達は、弱音を吐かず、ひたすら前を向いて進んだ。自分の使命を全うする為に。
断崖絶壁を乗り越えると、渓谷が見えてきた。大きな滝、ドーと音を立て勢いよく水が流落ち川に注がれている、氷河ばかりだった山の裾野は、滝しぶきがシャワーの様に降り注ぎ、美しい森が広がっていた。
植物も獣も生きるのが難しいと思える程の氷山の中の一角だけ、信じられないほど美しい森となっている。
魔法の樹の森は、森の全ての木の葉が、朱色や茶色に染まっていた。
しばらくして、森に、夕陽が差し込み始め、森全体が萌えるように紅く輝きだした。
「うわーなんて美しいの」セレーナが感激して言った。
「すごい、これほど綺麗な森は見た事がない」ティノも感動で身震いしている。
「ティノ、やっと、やっと、着いたわね」ハーミィもティノの周りをぐるぐるまわり喜びを表した。みんなの心に、元気が蘇ってきた。
「ねぇエルダルス、魔法の樹の森は、スプルースの森じゃないねぇ?あの朱色の葉は、メープルの樹に見えるけど」ティノが首を傾げて言った。
ティノが言ったことは当たった。
森は、針葉樹のスプルースではなく、広葉樹メープル(楓)の樹ばかりだ。
「そうじゃよ、ほとんどメープルの樹の森じゃて」エルダルスが答えた。
ティノが疑問に思ったのも仕方ない、ヴァイオリンは、表板は響きが伝わりやすい柔らかい木材であるスプルース材、裏板は、響きを受け止め反響板の役目を担う為に、堅いメープル材と決まっている。
つまり、メープルだけの森なら、肝心な表板が出来ない事となる。
それとも、魔法のヴァイオリンのため、特別な樹がここに存在するというのか、ティノは、森を見つめながら考え込んでいた。
「ねぇエルダルス、樹の精は、どこに居るんだい?」ティノが尋ねた。
「うん、今、樹の精を呼んでみるでな」
すると、エルダルスは、森の奥を見つめ、右手を森の奥に向けながら、呪文を唱え始めた。
エルダルスが呪文を唱え始めるやいなや、ヒューと風が吹き出した。
風は、ティノの足下の葉を舞い上がらせた、風と共に、木の葉が集まり徐々に人の型になっていく、細長い葉が唇や眉毛となり、大きな葉は耳となり、最後に、二個のドングリが目となった。その姿は、まるで紅い木の葉のドレスでも身につけた人形の様だ。
風が収まると、木の葉で出来た人形が、ティノにゆっくり近づき話しかけた。
「お帰りなさい、ティノさん、皆さん、私が樹の精、皆さんが来るのを待っておりました」
そして、樹の精は、モナとセレーナに近づき、腰を屈め会釈し
「お嬢さん達、険しい山歩き、さぞお疲れになったことでしょう、皆さんのご苦労を労うために、今、お食事を準備しますね」と言った。
樹の精は、唇から、フゥーと地面に息を吹きかけた。
すると、森の中に、木のテーブルと椅子が現れ、見る見る間に、テーブルの上には、沢山のご馳走が並んだ。
果実はもとより、クルミ入りのパン、野いちごのジャム、木の実の蜂蜜漬け、かぼちゃのスープ、果実のパイ、そして、ティノ達が大好きな木の実がたっぷりのピッツァ等々
木の実、果実、樹から生まれる様々な食べ物が山盛りで並んでいる。
「すご~い、美味しそう!」モナが叫ぶように言った。
「本当に魔法の森は、素晴らしい・・・魔法でこんなに美味しそうな物が現れるなんて、驚いたなぁ・・・」ティノは、感心ばかりしていた。
「さあ、みなさん、思う存分召し上がれ」
樹の精が、木の葉で出来た右の手をテーブルにかざした。
「樹の精さん、ありがとう」ティノは、そう言うと「まずは、パルモラ達にこのご馳走を食べてもらわないとね・・・一番大変な思いでここまで来てくくれたんだから」
と話、ご馳走を、パルモラ達馬に最初に捧げた。
「ティノは流石ね、誰よりもそのパルモラ達を気遣って・・・」セレーナが感心して言った。
それからティノ達は、夢中でご馳走を頬張った。
苦しかった長旅の疲れが癒やされていく、みんなが幸せな気分になった。
「樹の精さん、本当にありがとう、元気が蘇りました」ティノが樹の精にお礼をした。
「それで、樹の精さん、肝心な魔法のヴァイオリンにする樹って、どこに有るんですか?」
ティノが樹の精に質問した。
「はい、これからご案内しますね、私に着いてきて下さい」
それから樹の精は、一行を森の奥へと案内した。
森の風景は、メープルの葉が朱色に染められ、黄昏の夕陽の中を歩いているように、鮮やかな赤色だった。
樹の精は、一行を、ひたすら森の奥へ奥へを誘導した。
「こんな美しい森は、見た事がないわ」セレーナは、あまりに美しい森に感動していた。
セレーナが感動するのも無理からぬ事、メープルの葉の一枚一枚が、朱色に染まっているだけでは無かった、どの葉を見ても、まるで宝石のルビーの様に輝いて生き生きしているのだ。森全体が生命の躍動感でみなぎっていた。
行く道は、まるでくれない紅のじゆう絨たん毯の様に、一面メープルの葉に覆われていた。メープルの葉が舞っていると思っていたが、よく見ると、葉の形に似た妖精が飛んでいるではないか
妖精達は、「おかえり・・・おかれり・・・」と次々に挨拶をしてきた。
ハーミィも、葉の形の妖精に会うたびに、挨拶をした。
紅いメープルの森を抜けると、湖が見えた。
「着きましたよ、ティノさん・・・あそこに見える樹が魔法のヴァイオリンになる樹の一つです」と樹の精が言った。
樹の精が言った場所を眺めると、湖の真ん中辺りに、小さな島が有り、たった一本の樹が見える。
森の中に立派な樹が有ると思っていた一行は、戸惑っていた。
確かに樹は見えるが、今まで見てきたメープルの様な美しさは、微塵にも感じられない。
皆が想像していた立派な樹にはとても思えなかった。
遠くに見えるので解りにくいが、どうも、樹は枯れかけている様にも見える。
「あの一本の枯れかけた樹?・・・」ティノは、樹を見て驚いていた。
「ティノさん、あの樹に会えるのは、魔法のヴァイオリンを造る事を許された、ティノさんお独りだけなのです」樹の精が言った。
「僕だけしか行けない?」理由は解らぬが、樹の精の言う通りにするしかないと思った。
「エルダルス、あの樹に行くには、小舟がないと」
エルダルスは、ティノに向かって言った。
「よいかなティノ、小舟はいらんよ、ティノが独りで、この湖の上を歩いて行くのじゃよ」
「まさか、湖を歩くなんて、ありえない、それとも魔法の樹の森だから出来るとか?」
「いやそうではない」とエルダルス。
「それじゃ、エルダルスが魔法を掛けてくれるの?」
「それも違う」
ティノの質問をエルダルスは真っ向から否定している、そしてエルダルスが真剣にティノに向かい言った。
「魔法のヴァイオリンを造る為に、ティノお前さんは選ばれた、じゃがの、この森も、湖も、そしてあの樹も、みなティノが選ばれた人間だと確信してはおらん、この湖の上を歩いて行けたとき、お前さんは確かに選ばれし人間だとみな認めるのじゃ、つまりお前さんは試されているんじゃよ」
ティノはエルダルスの話を聞いて驚いた。
自分が試されていると思うと、身震いする。
そして、湖を渡るのはどう考えても奇跡としか思えなかった。
「ティノお前さんの魂を込め、信じて湖を渡るのじゃよ、それが出来てこそ、魔法のヴァイオリンを造る資格を得られる。だから、この湖を歩かせたまえと祈るのじゃ、信じるのじゃ、必ず出来ると信じるのじゃよ、魔法の樹の森は、お前さんの心を試しておる」
ティノは、エルダルスの言葉を半信半疑で受け止めた。
奇跡が起こるかどうかは解らないが、とにかく、この湖を「歩かせたまえ」と祈り願った。
そして、ティノは、湖のあぜ畔に最初の一歩を踏み出した。
ティノの足に水が掛かった瞬間、ズズズ・・・ティノの足は水の中に沈んだ。
「やっぱり駄目だよエルダルス、溺れて死んじゃうかもしれないよ・・・」
ティノは、エルダルスを見ながら、かぶり頭をふった。
だが、エルダルスは、頑としてティノの弱音を聞かなかった。
「まだまだ信じ切っていないのじゃよティノ、信じることじゃ、勇気をもつことじゃ」
それから、何度も何度も、湖を歩こうとチャレンジしたが、何度やっても、足は、水の中に潜ってしまった。
ティノは次第に苛つき始めた。
湖を歩ける様になると言われても、とても信じる事など出来なかった。
ティノの足下は、びしょ濡れになった。
だが、エルダルスは、諦めさせなかった。
奇跡を信じる心を強く持てと、激励した。
「良いかなティノ、頭の中では、水の上を歩けるなぞ常識ではあり得ないと考えておろう、人生もそうだ、なんでも最初から、その常識とやらが、前に行く気持ちを止めてしまう、だが奇跡を起こしたいなら、常識は忘れるんじゃよ、駄目だ無理だ出来るわけが無いと思う心を閉じ込め、大丈夫、やれるんだ、そして信じ、一歩踏み出す勇気を持つ、さすれば、違う世界が見えてくる、諦めない心にこそ、新たな光が差し込むんじゃよ」
ティノは、水に濡れた足を引き上げ、もう一度、心の奥底から湖を歩かせたまえと祈った。そして再び湖の上に立とうとした。ところが、水の上に浮くどころか、今度は、深みにはまりズブズブと、ティノの身体は湖の中に沈んだ。
溺れそうになって、必死に岸辺に戻りエルダレスに向かってティノが叫んだ。
「だから駄目だって言ってるじゃないか!僕は、聖人や義人じゃないんだ、ただの人間、ただの若者なんだよ!」
ティノは、かなり落ち込み、うつむきながら弱音をはき続けた。
「そんな事で、奇跡はおこらんぞ、ただの人間じゃと、魔法使いも、妖精も、人間の本当の力にはかなわんのだ!人間だからこそ、奇跡を起こせる、弱音など聞きとうない」
エルダルスは、ティノがどんなに苦しくとも、頑として弱音を聞かなかった。
「ここまで何のために来たのじゃティノ、人間達の醜い争いを無くし、恨みや憎しみを消すために、命がけの道を選んだんではないのか!」エルダルスが叫んだ。
ティノは、そう言われ苦しくて泣いた。
大地の砂を握りしめボロボロボロボロと涙を流し、湖面を力一杯叩いていた。
「ティノ今何を感じておる」
「特になにも・・・」
「お前さんは、何のためにこの森に来たんじゃ、恨みと憎しみの無い世を創る為ではないのか!」
「ええ、そうだよ、恨みも憎しみもこの世から消したい、でもそんなの奇跡だよ・・・」
「いや奇跡ではない、お前さんが本当に世を救いたいと願い、全身全霊でその事の為に進めば、必ず成し遂げられる、信じるんじゃよティノ」
エルダルスの言葉を聞きながら、ティノはぼろぼろ涙を流して泣いていた。
大泣きをして、うつむ俯いていたティノだったが、しばらくして、ムクッと立ち上がり、大空に向かって祈る様な仕草をすると、再び、足を湖に着けようと歩き出した。
ティノが湖面の上に足をかざすと、なんと、今度は、水の上に足が浮くではないか
「エルダルス・・・」とティノが小声で言った。
「一歩踏み出す勇気だ!ティノ」エルダルスが励ました。
ティノの心に、歩けるという勇気がわき出した。
そして、湖を歩けると信じる心が全身を覆った。
そして、ティノは、湖の上を一歩また一歩と歩き始めた。
「すごい、お兄ちゃん・・・すごいすごい」モナが興奮しながらティノに呼びかけた。
「ティノ頑張って!」セレーナも応援した。
「大丈夫だってば頑張れティノ!」ハーミィも続けた。
「その調子じゃティノ、あの樹に向かいなさい」エルダルスがティノを励ました。
ティノは、湖上をゆっくりと進んだ。
湖の湖面は、ティノが進む度に、ゆらゆらと揺れ波打つが、ティノの足が水の中にもぐ潜る事は無く、確実に前に進んで行く事が出来ている。
とうとうティノは、湖を渡りきった。
ティノは、森の一行に大きく手を振り、湖を歩けた事を喜んだ。
モナもセレーナも、小躍りして、ティノの奇跡を喜んだ。
そしてティノは、一本の樹の下に辿り着いた。
喜んでいるのもつかの間、ティノは、目の前にある樹を眺めてみた。
遠くからは、枯れ木のように見えた樹だが、本当はどうなのか気になっていた。
ティノは、じろじろと樹を見つめた。
その幹は、随分と太く、根はうねうねと曲がり、東西南北に張り出している。
幹の表面は、鎧の様に堅く、ざらざらしていた。
確かにスプルースの樹だったが、葉の多くは枯れかけ、かなりな老木だった。
魔法のヴァイオリンになる樹は、さぞ立派で逞しく理想のスプルースだと思い込んできたティノには、信じられないほど、古びて今にも枯れそうな樹だった事が理解できなかった。ティノは、そんな老木を、また、じろじろと見つめていた。
「そんなにわしを見て、何かおかしいか」老木から声が聞こえた。
「話せるのですか?」ティノが驚いて返事した。
「ああ」
「魔法のヴァイオリンの樹だと聞いてきたので、ちょっと・・・・」
「ちょっと・・・なんだね・・・魔法の楽器を造るには、あまりにも古くさい枯れかかった樹だとでも言いたのだろう」
ティノは、心の中を読まれていると感じた。
しかしティノの思いも無理からぬ事、老木は、いつ枯れてもおかしくない程、古びていた。
樹の天辺は、葉も茂らず、まるで冬の枯れ木の様だった。
「あの~魔法の樹さん、あなたの樹齢は?」ティノが尋ねた。
「樹齢か、もう二千年になる」
「えぇ・・・二千年」
ティノは言葉も出ないほど驚くと、魔法の樹が、昔話を始めた。
「わしが生まれて直ぐの事だった・・・人間の世に、ある独り子が生まれての、わしは、独り子と共に恨みや憎しみをもたらす世を終わらせる魔法の杖になりたいと願った。じゃが、その願いは直ぐに消えてしもうた。その独り子が、若くしてい逝かれてしもうたからじゃ。わしは長い間、願いを果たせない失意の中で生きておった。だが、ある時、ベリータ女王様から聞いたのじゃ、何時の日か、魔法の楽器となり、恨みや憎しみが無い世を創り上げて欲しいと・・・わしは、その日を今か今かと待ち続けたのじゃよ、素晴らしい音色を奏でる魔法の楽器になろうとな」
「それで二千年も経った・・・」ティノが言った。
「お前さんが造る、魔法の楽器が出来た暁には、恨みも憎しみも無い世が始まると信じておる、だから、お前さんが来るのを待っておった」
魔法の樹は、二千年の間、風雪に耐え、大嵐を乗り越え、けして枯れてはならぬと自分に言い聞かせながら、時を待っていた。
今、その時がようやく訪れようとしている。
しかし、ティノは思った。魔法のヴァイオリンになると言うことは、この老木をき伐らねばならないという事だ、つまり、老木は、伐られて死ぬという事だと。
魔法の樹の願いは解るが、それでは、二千年も生きてきた魔法の樹の命が絶える事だと思った。
「魔法の樹さん、もし、魔法のヴァイオリンになるため、あなたを伐るとなれば、あなたは犠牲となり、あなたの命がなくなる、それでも良いのですか?」
「勿論わかっておる、魔法の楽器になる事で、わしは死ぬ」
「死ぬ・・・」ティノは目を閉じて考え込んでいた。
「よいかな、わしの命は、一つじゃが、この命を捧げれば、多くの命が救われるというもの、だから、わしは、死んだようで、実は生きておる」
「お前さん、わしに会う為に、湖を歩いて来たじゃろう」
「ええ、歩けるなんて思いもしなかったのに、歩けました」
「最初、お前さんは湖の上を歩くなんぞ、奇跡だと思っただろう、湖でおぼれ死んでしまうと、怖れたんじゃないかね」
「確かに、もしかしたら、死ぬかもと・・・」
「なぜ、怖れる、なぜ死ぬのが怖い、なぜだ」
魔法の樹から矢継ぎ早に質問されてもティノは答えられなかった。
「お前さんは、死にたくない、溺れたくない、身体が湖の上を行くなんぞ出来やしない、歩けても、どこかで溺れ死ぬと思っただろう、先の見えない事に踏み出すのは、怖くてならなかった、じゃがの、お前さんは、その恐怖を乗り越えおった、それは、一歩踏み出す勇気を勝ち取ったからじゃよ、死も怖くない、溺れるのも怖くない、それより、もっと大事な事に向かう勇気を、お前さんは、得たんじゃ、わしとて同じじゃよ、伐られる事が怖くないと思うかね、怖さはもちろん有る、だが、それ以上に、世の為に生きる事の尊さが有るからこそ、むしろ伐ってもらおうと思うのじゃよ」
ティノは、魔法の樹の心を知って、涙を流して泣いた。
ボロボロボロボロと涙が頬から流れ落ちる程、ティノは泣いていた。
そして、この老木を犠牲にして、魔法のヴァイオリンを造るという事に、ためらいが生まれていた。
「なにを泣いておる、よいかな、死には二つの道がある。意味なく死ぬのが無駄死にじゃ、しかし救いに至る死があるのじゃよ。無駄死には恐れるが、世を救う為の死は何も怖くはない。だから早く、わしを伐っておくれ、そして、魔法の楽器にしておくれ」
ティノは、魔法の樹の心を深く理解した。
ならば、早く、願いを叶えてあげなければと
「解ってくれたかね、それじゃ、あの森に戻り、樹の精からおの斧を受け取りなさい、そして、あそこに見える月が、新月になった夜、再びここに来て、わしを斬っておくれ」
「新月の夜に?」
「そうじゃよ、新月の夜、願い事を唱えながら、わしは逝く、さすれば、魔法の楽器に最もふさわしい者となろう」
ティノは、魔法の樹の志を深く胸に刻んだ。
それからティノは、魔法の樹の言ったことを行うために、樹の精と一行が居る森に戻った。
樹の精、エルダルス、みんながティノの帰りを待ちわびていた。
「お兄ちゃん、どうだっの、やっぱりあの古い樹が、そうだったの?」モナがティノに駆け寄り聞いてきた。
「ああ、確かに古い樹だったけど、でも素晴らしい樹だよ」ティノが言った。
「でも、なんであんな古い樹が、魔法の樹だったの?」モナがまた尋ねた。
ティノは、魔法の樹の姿、そして、その心の世界をみんなに話をした。
命を犠牲にしても、魔法のヴァイオリンの表板になるという心を伝えた。
「なんて美しい心なんでしょう」セレーナは涙を浮かべた。
「樹の精さん、斧を用意してもらえませんか、エルダルス、今度の新月はいつ?」ティノは矢継ぎ早に尋ねた。
樹の精が、目の前にあるメープルの樹の枝を両手で握りしめると、枝が、斧となった。
「これで良いでしょう」樹の精は、斧をティノに手渡した。
「ティノ、新月は、三日後じゃ」とエルダルスが言った。
それから三日がたち、新月の夜となった。
ティノは、再び魔法の樹まで、独りで行った。
魔法の樹は、とうとうこの日が来た事を心から喜んでいた。
「さあ、その斧で、私を伐っておくれ、私の身体は、魔法の楽器と、運ぶ為のイカダにしたら良い、さあ、早く」
ティノは、斧を大きく振り下ろした。
二千年もの年輪を積み重ねてきた魔法の樹は、幹も太くなかなか倒すまでに時間も掛かったが、ほどなく、魔法の樹が「さようなら、ありがとう」と声を発した後、轟音と共に倒れ、枝がバリバリと折れていった。
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