語るべき過去
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瑞嘉と僕のことについて語るには、都内(といっても二十三区から西に外れた田舎であったけど)の国立大学へ進学したのをきっかけで上京した時まで戻らなければならない。
大学を選んだ理由は、単純に自分の学力相応だったから。将来目指す職業など当時は決めておらず、文系を選択した自分に相応である難な経済学部があったから、というつまらない裏話は余談であり、都内でも四万円以下のアパートを借りられる場所があることを知った喜びも話すべき内容ではなく、大学の学食を一カ月週四日通い続け一番おいしいメニューは味噌ラーメンであったことも重要な情報でない。
『冗長な前置きね。そのプロローグ、もっと削れるんじゃないかしら』
リターニャの指摘は正しく、時間を過多に巻き戻したようだ。申し訳ない。
実際のところ五月中旬の頃から話せばよく、そろそろサークルに入ることも考えるべきかと思い始めた時の僕へ軌道修正させていただく。
何となくだけど、僕は昔から本を読むことが好きだった。だから何となくで、文芸同好会へ入部した。
別の選択肢もあった。中高六年間はサッカー部でそれなりに頑張っていたから、大学でも部活に入ってもいいし、サークルで遊ぶ程度で続けるのも悪くなかった。それがどうして真逆の団体に入ったのか、と文芸同好会の同期や先輩に何度も訊かれたけど、その答えも何となくで返していた。
そこまでサークル選びにおいて、本気で考えていなかったのだと思う。ブンデスリーガで活躍する日本人選手のプレイを真似る楽しみが妥当であれば、これまでとは全く違うコミュニティで過ごすことも妥当なのだ。大学生になった自分は親元を離れ自由に行動できるという解放感が、何となくの興味で新しい人生を提示してくれた。
その文芸同好会は基本的にゆるい感じの活動を進めており、年一回発行される部誌に載せる小説(ポエム系統もアリだった)を各自で執筆するくらいのことしかしていなかった。後は部室でゲームをしたり、部員の誕生日会などをしたりとか……だと思う。僕もそこまで顔を出すような人間ではなかったから、記憶は確かでない。
……その代わり、とも言うべきか。文芸同好会自体には深く関わろうとしなかったが、そこで出会った瑞嘉とは仲良くなった。
「土岐瀬くんって苗字も珍しいけど、名前も変わっているよね」
という初対面の会話あるあるからお互いに話し始め、愛読書のジャンルや性格など……この人は他とは違う……興味をひくようなものを感じていた。
「音羽さんはどうして文芸同好会へ?」
と、僕が訊いたのは二人だけの時……これもハッキリと覚えていないが、梅雨の頃……場所は学食だった、だろうか。先程触れた味噌ラーメンを僕が注文していたかもしれなく、気紛れでオーダーしてみた麻婆豆腐が殊の外辛く水をガブガブ飲んでいたかもしれないが……リターニャがどっちだっていいという顔をしているからメニューの仔細は無視する。
「昔から私、作家になりたかったの。それだけで食べていけるのは難しいけど、夢のある職業じゃない」
「作家って小説家?」
「それも一つかな。脚本家やメディアの構成作家……シナリオライターもあるけど、とにかく物語を書いてみたくって。土岐瀬くんも創作活動を目的に?」
「生憎、僕は音羽さんほどの向上心は持ち合わせていないよ。ただ、読書を趣味としていたからさ」
「インプットも悪くないけど、折角だから部誌以外でも書いてみたらどう? 土岐瀬くんオリジナルのアウトプットを文字に起こすことって最初は大変だけど、繰り返せば発想が豊かになるよ」
瑞嘉にとって文字を書く仕事は、昔からの夢だった。作家論を語る彼女は活き活きとしており、僕に書くことを勧めた。
最初は遠慮していたが、創作活動の面白さを経験談で教えられた僕は長編小説の執筆を始めた。約一年かけて……途中で何度もワードファイルを長期間眠らせた時期もあったが……書き上げた作品が、この、リライトに深く関与している《未来乃至過去改変プログラム》が登場したSF小説であった。
『ミズカさんも言及していましたね。その小説、わたくしも読んでみたいです』
残念であるが、ディオネの大切な時間を奪ってまで読ませたい小説ではなかった。話の起承転結が滅茶苦茶であり、SFという設定と不釣り合いである……幻想小説に傾倒した宝石のような硬い文体と抽象性が読者を惑わし、大団円を放棄した観念的結末は作者である僕自身も未だに理解できていない。
「読みづらいけど、タイムマシンのネーミングセンスは舞於らしいね」
四季が一周した頃には名前で気軽に呼べるになった僕達は、互いの作品を拝読することもあった。だが、僕の執筆ペースは遅く、対照的に瑞嘉は速いのでほとんどは僕が感想を伝える側になっていた。なので、瑞嘉のフィードバックは稀であった。
「でも、未来乃至過去ってどういう意味なの」
「時間遡行の目的は過去の改竄が多いけど、タイムリーパーにとって本当に重要なのは望ましい未来を手に入れることだ。だから、過去を変えることは未来にも繋がるから二つを並列させた」
「なるほどなのね。主人公の女の子、未成年の割には凄く達観しているみたいね」
「……かもしれない。年齢設定に合わない喋り方をさせたのは、サイエンスフィクションに観念論も取り入れたから、だろうか」
「そういう組み合わせもあるのね」
僕の独特な発想論にも瑞嘉は難しい顔をせず、じっくり味得するように頷いてくれた。僕にとって非常に嬉しいことであったものの、自分が書いた作品に価値があるとは思わず、部誌のほか新人賞にも出さずに今でもUSBメモリの奥深くで保存されている。
以降、原稿用紙百枚以上の小説を書ききる自信はなく、インプットだけで充分だと感じ、五分あればサクッと読める短編にも満たないショートショートを部誌に掲載するくらいの執筆活動に留めた。
一方、瑞嘉は精力的に創作活動と向き合い、エンタメ系の新人賞で最終選考まで残った実績も得た。
僕も拝読したが、彼女の作品は現実の出来事を現実以上に再現する、自然文学に寄っていた。着飾らない登場人物達の言葉は一つ一つに意味があるように見えて、何気ない日常の時間を流しているような……穏やかな気持ちになれる瑞嘉らしいフィクション小説だった。
「凄いじゃないか。もう少しで作家デビューできたんだろ」
半ば興奮気味に語る僕が深夜の部室にいた記憶も定かではなく、もしかしたら朝焼けの方へと進む歩道で並んで歩いている時だったかもしれない。
『その二択はそこそこ重要かもしれないわ。ハッキリ決めて頂戴』
リターニャに急かされる現在の僕は、過去の僕の所在点を夜にしておこう。
ペラペラの座布団の上に座る瑞嘉は、応募した作品を個人で所有しているノートパソコンで再度読んでいた。部室には僕ら以外の部員はおらず、少し遠くにあるバーベキュー場で騒ぐテニスサークル乃至ヤリサー軍団の奇声が静かな空間を汚していた。
「……だけど、これ以上納得できる小説はもう……書けないのね。相当な自信作であったから」
何がダメだったの、と瑞嘉はらしくないマイナスな言葉を吐いた。
「小説はスポーツの世界と違って、明確な評価基準はない。どんなに頑張っても受賞は難しいさ。だから、最終選考まで残ったこと自体も誇るべきだよ」
気遣ってみたけど、瑞嘉の表情は暗いままだった。
だが、それから夏期休暇に入り数カ月ほど経過して……しばらく瑞嘉と会っていないなと寂しく思い始めた時……経営工学の講義で彼女が隣の席に来てくれた。
「久しぶりじゃん。最近、どうしていたのさ」
「ちょっとアルバイトが忙しくって、ね」
作家デビューの夢が叶わなかった苦心は過去に置いてきたように、瑞嘉の声は明るかった。
「アルバイトって書店だっけ?」
「あれは夏休み前に辞めたの。その代わり、とあるベンチャー企業のインターンみたいな形で今は働かせてもらっているのね」
「そうなんだ。インターンか……」
僕等は大学三年生になっており、就職活動を考える時期に差し掛かっていた。周囲でも業界研究や面接対策に関する話題が大学内で飛び交い、それまで脱色していた髪を急に黒く染める(薄っぺらい)人間も少なくなかった。
「どんな業界なの?」
「クリエイティブ系と言えば見栄えがいいけど、実際は資本金が一千万にも満たないような中小企業のシナリオ制作会社かな」
それで、瑞嘉が元気を取り戻していることにピンときた。
「シナリオ制作……そんな業種があるのか」
「うん。最近はソーシャルゲームが流行っているから、ゲーム会社の企画や脚本を代行して制作する需要があるみたいでね。それでもシナリオライターはアルバイトでも門戸の狭い職業なんだけど、私はそれなりに書けることをこの前の新人賞の結果でアピールできたから……インターンで雇ってもらえたの」
「じゃあ、小説家からシナリオライターにシフトチェンジするの?」
「まあね。将来的な経済事情を考慮すると、より現実的な仕事の方が良いかな。シナリオは小説とは違うけど、オリジナルの物語を企画すること自体は一緒だから、やりがいはあるよ」
嬉々として語る瑞嘉の現状に、僕は安心した。一つの夢が潰えても、別の夢に向かって生きる気力があれば、きっと努力は報われる。
「そうか、応援してるよ。書いたシナリオがリリースされたら、教えてくれよ」
「別にいいけど、舞於も書く側に回ってみない?」
「え?」
言われたことの意味をすぐに理解できず、好奇心に満ちた瑞嘉の瞳を見つめていると、
「舞於もシナリオライター、やってみない? まだ人手が足りていなくってね、私の紹介なら社員さんも歓迎するって言ってくれているし」
喜んで応じるつもりはなかった。そもそも、シナリオの書き方とかも知らないし、僕が元々好きなのは大衆小説から離れた特定の作家であり、ゲーム向けの物語構築は全くの想定外だった。
「……まあ、後期になって登録した単位も減ってきているから、やってみようかな」
インターン生になっても、どうせ一カ月もすれば使えない学生の烙印を押されてクビになるのが妥当かな、と思いつつ瑞嘉が働いているところに行こうと思ったのは、単純な興味本位だった。
ダメだったらダメでいい。ただ、知らない世界を知っておくのはプラスになるし、タダ働きでなくアルバイトの収入を得られるのであれば、とりあえずやってみるかという曖昧な動機が、こうして今に繋がっていることなど当時は想像もつかなかったであろう。
今から丁度二年前のことになるが、その時のヴァニティはコンテンツマーケティングやWEBサイト制作代行をメインでやっており、シナリオ制作は新規事業であった。よって、これから人員を増やすという段階であったため、僕のようなシナリオライター未経験者でも常駐で仕事をもらえたのだった。
「あなたが音羽さんからの紹介で来た方ね。私はディレクターの八代です。インターン生でも意見が通る環境だから、やりづらいことがあったら何でも言ってくださいね」
現場の雰囲気は和やかで、八代さんに優しく迎えられた。
ライターの仕事は常に納期に追われ、殺伐としている先入観があったが、ベンチャー企業らしい風通しの良さがあった。
だが、ヴァニティで実際に働き始めた際の心境を明かすと、最初は抵抗があった。世間で人気だとされているソーシャルゲームのプレイ動画を観ていても、何の面白味もないシナリオだと思っているし、恐らく今の僕が読んでもつまらないと言える。
されど、売り物として扱われるシナリオを書くことは想像以上に難しく、そのつまらないと感じるゲームのシナリオよりも更につまらない……シナリオとも評し難い無価値なセンテンスしか最初は書けなかった。
「このヒロインの台詞において、何度もリライト要求された理由は解りますか?」
「……ストーリー内で最大の見せ場である割に、盛り上がりに欠けているとのことでした」
「把握しているのに、どうしてディレクター側で納得できるクオリティに達していないのか、と疑問に思っているようですね。キャラ設定の資料をもう一度読み込んでください」
八代ディレクターは常に温和でいたが、シナリオライティングの指導は厳格であり、並の品質では納品を許してもらえなかった。
やっぱり僕の才気では通用しないかと思えば、何とか納品し終ええてもう少しだけ頑張れるかと思えば、次の制作でNGを繰り返し心が折れそうになり、それでもファンタジー系統の苦手なジャンルでプロットから組めた達成感を得て……挫折と成長を反復しているうちに、瑞嘉に対して深く感謝するようになった。
「意外とこの仕事、向いているかもしれないって思えるようになったかもね」
「それは良かったの。八代さんも最近、土岐瀬さんがいてくれてかなり助かってるって言ってたよ。来期から本格的に事業拡大するらしいし、四月以降も週三日以上のシフトで入れるのね」
最後の学年へ進級し、ヴァニティのアルバイトを始めてから半年ほど経っていた。
本格的な就職活動の時期、学内セミナーが行われている中……パイプ椅子に座っている僕等は講師の話を無視して雑談していた。
「そんなにバイトして、説明会や面接の時間は取れるのか?」
「正直なところ、就職は考えていないの。あの講師、新卒の切符は一生に一度しかない重要なものだとか、学歴社会をブチ壊す努力が必要だとか言っているけど、私からすれば妄言としか聞こえなくってね」
リクルートスーツを一応着ているが、大多数の新社会人が望むルートを瑞嘉は望んでおらず、僕もまた否定できない意志をもっていた。
「僕も……そうだな。普通に就職するより、ヴァニティに貢献した方が自分のためになるかもしれない。この前、八代さんと面談をしたけど……このまま頑張れば卒業と同時に正社員にもなれるって言ってくれたからさ」
少し悩んでいる素振りをしたものの、既に僕はヴァニティで働く未来予想図を描いていた。
「瑞嘉もこのまま、シナリオライターに? 小説家の方は?」
「完全には諦めていないけど、今はシナリオライターの方が自分に合っているの。私もヴァニティに就職して……企画やディレクションもしてみたいかな」
「そっか」と、そっけない返事の割に僕は破顔した。
「随分嬉しそうにしているね」
「あの時、新人賞を逃した瑞嘉の悲痛な様子を知っているからさ。きみが立ち直って、創作活動と向き合って……何となく大企業に入りたい通俗的な就活生とは違う確固たる目標を懐いて……何て言うか……」
――羨ましさもあり、瑞嘉の背中を追いかけたい。
河川敷の芝生で寝っ転がって語る青春ドラマの一場面を再現するような台詞を用いたのは僕らしくなく、即座に後悔した。
「この前担当した恋愛ゲームの影響が出ているんじゃないの。キャラが乗り移っているのね」
「そうかもしれないな」
瑞嘉に肩を叩かれた僕はおどけて誤魔化した。その後は自然にシナリオ案件の話になり、先輩である瑞嘉からイベントシナリオをこなすコツやフレーバーテキストにおけるバリエーションを増やす方法など、絶え間なく語り合った。就職活動とは無縁だと確信した僕等は以後、リクルートスーツを着なくなった。
『あの……唐突な質問ですけど……マオ様はミズカさんとその……恋人同士といった関係だったのでしょうか?』
確かに僕と瑞嘉は歳を重ねるごとに、深く理解し合えるような仲になった。ディオネがそう感じたように、八代さんからも二人は付き合っているのかと詮索されることが度々あった。
「雪の降る東京はロマンよりも、道路と交通機関の凍結を気にしないとですね」
大学卒業間近の冬のある日、数年ぶりの積雪となった都内のヴァニティへ出勤すると、
「山手線が止まる寸前に来られて幸運でしたね。はい、どうぞ」
八代さんが温かいコーヒーを入れてくれた。
「ありがとうございます。瑞嘉は今日、休みのシフトでしたっけ」
「ええ。ここの近辺へ引っ越したいから、不動産屋へ行くみたいですね」
アルバイトという立場であったがシナリオライターとして会社に貢献した結果、僕等二人は春から正社員として雇用してもらえることが決定していた。
「そんなこと、言っていましたね」
「お部屋は二部屋あった方が良いんじゃないですかって私が提案したけど、音羽さんに断られちゃいました」
「何で二部屋なんですか?」
「土岐瀬さんとの同棲生活も考慮して、です」
角砂糖を一つ、そっと入れてくれた八代さんの笑顔には甘い優しさがなく、子供をからかうような感情がこもっていた。
「僕と瑞嘉はそんな関係ではありません。サークルでたまたま会い、たまたま趣味や嗜好が似通った感じなだけです」
「音羽さんも同じような言葉で取り繕っていましたよ」
「取り繕っているのではなく、本音ですよ。ちなみに、八代さんの浮いた話は?」
「三十路交差点でのUターンを望んでいる人には耳が痛い現実なので、難聴でスルーさせていただきます」
大抵、八代さんへ交際とか結婚など痛烈な二文字を突き付ければ話を終えてくれた。社会人になってからの出会いに乏しい側からすれば、僕と瑞嘉のような若い男女の進展について、嫉妬もあれば興味もあるのかもしれない。
だが、冷静になって考えてみても……僕達を繋ぎ止めているのは文学や創作活動といったものであり、恋愛感情はこれといって存在せず、たとえラブやリーベなどに換言してもエモーショナルな気持ちは生まれ得なかった。
けだし、兄と妹のような関係性に近い……のだろうか?
もしかしたら瑞嘉側の僕は弟になっている可能性もあるが、少なくとも瑞嘉は僕を異性として見てはいなかっただろう。
「今日は……学園モノリスのカードシナリオを書かなきゃ」
「あ、その前に簡単な面談、いいですか?」
社員である八代さんとの定期面談は先週に行ったばかりだったので、不思議な顔をして振り向いた。
「チーフとも話し合っている件なのですが、シナリオ制作の事業拡大に向けて……チームを増やす予定でいまして」
「すると、その新しいチームに四月から正社員入社する僕と瑞嘉が加わる形に?」
「察しが良いですね。で、そっちのディレクターの待遇について、土岐瀬さんに一度お伝えしようか、と……」
「はい」
一度返事をした僕は言われたことを完全に理解しておらず。
「……ん? 僕がディレクター、ですか?」
「ええ。私だけでなくチーフも、あなたが適任だと感じましたから」
別室にて改めて昇進の話を聞いた僕ははじめて、会社側から期待されていることに気付いた。
自分を過小評価しているつもりもなかったが、会社の歯車である僕はいくらでも替えのきく部品ではなく、中間管理職として活躍が望まれる人員であったのだ。
アルバイトであるが一年半近く働いており、ライター職の業務を一通り経験したからディレクター職へのキャリアチェンジ自体は珍しくない。
ただ……。
『自分より勤務経歴の長いミズカでなく、マオがディレクターに選ばれたことが意外だった、ということね』
ああ……長々と昔話をしているが、リターニャ……そしてディオネは僕が今まで……何気ない《フリ》をして記憶から外していた一つの事実……迷いとも言うべき過去が解っただろうか。
『シナリオライターの業界に誘われたマオが、ミズカよりも上の立場になり……』
『それが原因で……ミズカさんはレギュレーターとなり、マオ様に逆らった……』
僕がディレクターになると会社から命ぜられた件について、瑞嘉に直接伝えたのは大学の卒業式のこと……いや、それだと三月下旬だから遅い……そうだ。正しくは、瑞嘉の新居で引越しの手伝いをした時だった。
「新チームを作るってチーフから聞いた時に知ったよ。めでたい出世じゃないの」
気まずい感じで僕が告白しても、瑞嘉は曇一つない笑顔で答えてくれた。
「僕が、できるかな。瑞嘉の方が適任ですよって八代さんにも言ったんだけどさ」
「大丈夫だよ。『あなた』はライティングの質だけでなく、企画や納品物の校正管理もできるの。私の方が一応先輩だけど、マネジメントとかの能力を買われた結果だよ」
――あなた、か。
当時の僕は深く考えず聞き流していたが、瑞嘉にあなたと言われたことは過去にもあったのだ。
表象ではニコニコした妹のような無邪気さがあったかもしれないけど、僕との距離を置いた呼び方には腹の中で蠢く恨み辛みが恐らくは……。
「私は舞於の部下として、四月からも頑張るの。頼りにしてるよ、ディレクターさん」
「重圧を跳ね除けないとな……ああ、この段ボールも開けていいやつか?」
「あっ! ダメなの!」
ガムテープを剥がす僕の手を必死に掴んで止めた瑞嘉は、空いている手で段ボールの側面をペシペシと叩いた。
「ここに書いてあるの。下着類、って」
「……段ボール一箱分も占める下着を所有しているのか?」
「その疑問には『まさかアダルトグッズも下着類の類に含まれているのでは』という下司な妄想も含まれていると認識しても?」
「違います!」
家具が雑然と並ぶワンルームに二人の笑いが心地良く響いた思い出も、僕だけが素晴らしき日々の一ページだと見做しており、《彼女》は爆発する感情を心の裡へ押し殺していたと思うと、僕は御目出度い頭をしていたのだと自虐させていただこう。
ヴァニティの正社員になって以降も、僕と彼女は穏便な関係のまま仕事を続けていた。彼女が制作したプロットやシナリオを僕がチェックし、リライトの必要があればお願いしていた。
永久塋域で聞かされた彼女の本音は、過去の彼女も不穏なものにしていった。穏便だと思っていたのも僕だけで、彼女はじっと我慢し続けていたのだ。
どうして舞於が、私よりも高く評価されたの?
私の方が面白いシナリオを書けるのに、ディレクターには相応しくないの?
どうせ《あなた》は、私を抜き去って出世して、優越感に浸っているのね!
彼女の良心が本音を胸中に留め、社会人らしい分別ある行動を心掛けてきたが……非現実的なリライト干渉能力に目覚めたのを契機に、僕のリライトとの対立を決めた。
と、彼女の思いを代弁したがこれは憶測ではなく、真実であると確信し得る。レギュレーターになって僕のリライトを完全に阻止し、『シナリオライターにおける能力の欠如』を僕に指摘し、優劣関係が明白になった今……彼女が僕を恨んでいたことも、彼女が僕より優秀なシナリオライターであることも否定し得ない。
……怖かったのだ。僕は、臆病だった。
僕にシナリオライターの途を示してくれた彼女より上の立場になり、彼女から嫉妬や不満を懐かれることが、何よりも恐ろしいことだった。
だから、僕は鈍感で居続けた。無理に明るく振る舞う彼女の真意からの逃走を止める日はなかった。
でも、皮肉なことに……二人に非現実を与えたことで、悲愴たる現実が浮き彫りになった。
僕が語るべき過去は以上だ。後は……リターニャとディオネが把握している通り、僕が拠り所にしていた『キャラクターを大事にするシナリオ』は所詮、商業用のゲームシナリオに拒絶される無価値なものだと彼女に叱られたのだった……。
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