第5話

 前回、見舞いに来た時は、まだ元気だった。


 僕が顔を見せると、すごく喜んで、「ロビー」に行こうと誘ってきた。


 父が言う「ロビー」は喫煙室で、父は優しかった。記憶中では初めての優しさだった。



「煙草持ってるか?」父はソファーに座ると、徐ろに言った。

「持ってるけど……」僕は躊躇った。

 父は手のひらを上に向け僕の方に差し出した。



 癌患者に煙草を吸わせる訳にはいかない。


「一本出しなさい」

「でも……」


「いいから出しなさい。じゃなきゃ、水を飲ませてくれ」

「水はダメよ」妹がヒステリックに言った。

 父は水が致命傷になるくらい癌が悪化しているようだ。しかし、妹も母も煙草のことにはそれほど関心がないらしい。



「俺は若い頃から酒を飲み過ぎた。それがいけなかったんだ。お前も酒は控えなきゃいかん。でも煙草はいい。煙草は問題ないんだ」



 父は癌で脳までおかしくなってしまったのだろうか。でも、母も妹も父の意見を否定しない。


「酒がいけないんだ。煙草は全然いい」

 そう言って父は差し出したてを神経質に震わせた。


 母を見ると、母は小さく頷いた。


 僕は鞄から煙草の箱をを取り出して父に差し出した。


 父は震える手で、煙草を一本引き抜き、僕はライターで火をつけた。


 僕も煙草を咥え、火をつけた。看護師さんに見られたらきっと怒られるだろうとビクビクしながら煙草を吸った。


 父は僕のそんな気持ちを気にもせず、美味しそうにゆっくりと煙草を味わっていた。


「たくさん吸わないほうがいいよ」

「煙草はいいんだ。煙草はなんにも問題ないんだよ」


 そういう父が哀れでならなかった。


 東京大学の研究室で放射線とその生態系への影響を研究していた父がそんな戯言を言うのは聞いていられなかった。

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