第6話 デゼールロジエの夜は長い

 デゼールロジエに夜はない。最初にそう言ったのは誰だったか。その言葉を知らずに訪れたとしても、実際に一晩この街で過ごしてみた者は誰もが実感としてそう思うことだろう。

 立ち並ぶホテルや日が暮れてようやく営業を始めた飲食店の壁の一部が電灯の役割を持っており、地上はまるで昼のように明るい。照明の届かない路地も、そこに構えられた店の看板から発せられる光だけで十分に視界を得ることができる。


 夜のない花街デゼールロジエ。明るさも賑わいもまるで昼のよう、というよりむしろ太陽が沈んだ後にこそ、この街にはようやく夜明けが訪れる、と言った方がいいのかも知れない。実際、カイルたちが泊まったホテルの周辺に広がる繁華街では、艶かしい格好をした飲食店の呼び子が競うように観光客を店に誘い、その甲斐あってかそれとも街の評判そのものが呼び込むのか、どの店にもそれなりの人数が入っていく。

 しかし、地上の明るさに反して、それをホテルの屋上から見下ろすルキウスの周囲には塗り込めたような夜闇が広がっている。地上から届く淡い光と遠い喧騒は、却って静寂を際立たせていた。

 暗く静かな空間でルキウスは独り考える。自分の中にさっきから湧き上がる奇妙な温度がいったい何なのかを。初めに感じたのは、脱走の途中。黒い服を着た若い男に襲われていたカイルを救った直後だった。


 そのときに初めて直接聞いた「ありがとう」という言葉。


 実験の経過を見に来た科学者たちからの、「すばらしい」という賞賛と自画自賛の言葉ではなく、「ありがとう」という感謝の言葉。そして外に出た後、自分を北部商業区に導いたときに見えた強い決意の顔。数時間前に見た、意識を失くした自分を案じる涙。それを思うとどこかに妙な温度を感じる。今まで知らなかった感覚に戸惑う一方で、どこか心地よい気もする。

 しかし、「弱すぎる」相手の影響を自分が受けているという仮説は、彼の中ではあまりに非現実じみていた。

「何考えてんだ、俺」

 一言、敢えて大きめに言って首を振るルキウス。風で飛ばされた砂がうっすらと積もる床に仰向けに寝転がる。電飾の明かりで見えにくいが、大小様々な星が夜空に敷き詰められている。初めて見るその輝きに、彼の胸はまた躍る。

 そうだ、きっと俺はずっと出たかった外に出られたことが嬉しかったんだ、あいつのことは関係ない。そうに決まってる。そう思いながらも、ルキウスが呟いたのは、カイルに向けたものだった。

「ったく……、頼りないんだか頼れるんだか、はっきりしろよな」

 その何気ない発言すら、今までの彼には許されていなかった。

 彼は物心がついてからテラ――いや、その地下3階より深い所にある実験棟以外の場所を知らずに育ってきた。外のことだけではない、実験棟にいる白衣の人間たちはルキウスに、実験時に行われる最低限の意思疎通に必要なレベルの言葉以外何も教えなかった。

 その理由は、白衣の人間たちの中で最も頻繁に彼を訪ねて来た女の言葉が物語っていた。


『ルキウス、貴方は――いえ、貴方の目はいずれ私の一部になる。その為には更に調整が必要なの。だからそれが終わるまでは、くれぐれも死なないようにすることね』


 水槽の中でよくわからない溶液に浸されていたときに外から投げかけられた言葉。彼女が自分にその言葉を聞かせようとしていたのかルキウスにはわからなかったが、それが自分にモルモットとして以上の価値を認めない言葉であることが理解できるほどには彼も言葉を学んでいた。

 しかし、まるでその呪詛に反目するかのように、ルキウスは色々なことを学んだ。

 自分のいる世界がテラという、外に広がる本当の意味での世界から見ればほんの小さな1点くらいでしかない所であること、外という概念、その外には太陽という巨大な天体から秒速30万kmで放たれる光が満ち溢れていること、外では人間と魔族が、ここで結ばれている実験台と観測者という無機質なものでない関係を築いているらしいこと、外には楽しみにするような娯楽がたくさんあること。

 家族。友人。恋人。そう呼び、会うことを心待ちにできるような存在が白衣の人間にも――ルキウスに呪詛を投げかけた女は例外として――いるらしいこと。テラのすぐ外側はエデンと呼ばれる場所で、その外側にも更に大きな世界が広がっているらしいこと。砂漠。海。山。朝。夜。太陽。月。街。村。道。石。草。土。火。潮騒。雨。風。

 そのときの自分には触れることのできなかったものを科学者たちの会話から学び、そして今、自分は憧れていた「外」にいる。

 それは嬉しいことでもあったが、同時にいきなり触れた全く新しい世界に混乱してもいた。

 カイルは外に出たとき、懐かしそうに辺りを眺めていた。それにルキウスは全く共感できなかった。ここでも、数十分前に繁華街に向けて宿を出て行ったエスタのように喜んだりすることができない。ただ混乱するだけで、自分の置かれている状況を把握するので精一杯だ。少しの孤独感が彼の心を沈ませようとしたとき、背後で物音がした。

「――――――っ!?」

 思わず身構えたルキウスの視線の先に、つい先ほど思い浮かべていた少年の姿が現れた。張り詰めた緊張が一気に抜け、また視線を前に戻す。カイルはそのままルキウスへと近付き、横に並ぶとその顔を覗き込んだ。その視線に気付いて、少し鬱陶しそうに口を開く。

「……何だよ。もう起きて大丈夫なのか?」

「うん、もう大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

 カイルは、最初に収容所内で見せた泣き顔ではなく、笑いながらそう言った。その心から嬉しそうな顔を直視できず、ルキウスは思わず目を逸らす。

「は? 心配とかしてねぇって。それに、あんまそれ言うな。そんな大したことしてねぇし」

「いや、だってルキウスは、」

「いいって。それ以上何も言うな。変な気分になる」

 カイルの言葉を最後まで聞いてしまうと平静を保てなくなりそうで、必死に遮った。そんな思いを知ってか知らずか、「目が覚めたらいなくなってるから心配したんだよ?」などと言いながらカイルはルキウスの顔を覗き込んでいた。しかし、やはりその顔を直視できないルキウスなのであった。

 だから、屋上以外に、デゼールロジエの誇る繁華街に視線を向けていることができたことは、ある意味ありがたかったと言ってもいいのかも知れない。

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