第7話 夜のない街で
ホテルの屋上でルキウスを見つけたとき、カイルはその背中に孤独な影を感じた。声をかけるのに躊躇しているうちに気付かれたが、そのときにルキウスが自分に向けた視線。それは今までの彼がどのような環境にいたのかをカイルに想像させるには十分なものだった。
視線を前に戻したルキウスは、どこか落ち着きない様子だ。
その隣に立って、カイルは話しかけ続ける。
「目が覚めたらいなくなってるから心配したんだよ?」
「べ、別にお前が心配することでもないだろ」
ルキウスは、ともすれば投げやりな口調で返す。しかしカイルとしてはそういうわけにはいかなかった。ルキウスの体の不調は、自分のせいであるようなものだ。エスタはルキウスの体が弱いのだと言っていたが、ならば尚のこと自分は彼に負担をかけるべきではなかった。それでなくとも――
「それに、近くにいてくれないと君が連れ戻されたのかもって思って、不安になるから……」
言いながら、カイルは軽い自己嫌悪に見舞われた。
自分は、ルキウスに守られてばかりだ。今日1日で、どれだけ彼に守ってもらっただろう。
ルキウスだけではない、エスタの助けがなければエデンを出てここまで逃げて来ることもできなかっただろう。それどころか、昨日までのカイルには何かに抗う意志すらなかった。
抗うこともせず、ただ看守長の欲望の捌け口になり、他の囚人たちからの冷遇に心を磨り減らしているだけだった。
誰かに助けを求めることを諦め、かといって自分自身の行動で状況を変えようとしたわけでもない。ただ抵抗することを諦めて、いつか来るかも知れない「終わり」を心待ちにしているだけだったのだ。もしもあのときルキウスが来なかったら……と思う度に、カイルは自分が辿っただろう未来を恐ろしく思う。
自分もルキウスに頼りきりにならないように強くならなくてはいけない。そう思う気持ちと裏腹に、それはできないのだという諦めも彼の中にはあった。
彼は魔族で、自分は人間だ。
何の力も持っていない自分は、彼のように強くなれない。
そんな諦観を自覚したとき、カイルは自分の心が暗い水底へ沈んでいくように感じた。
それでも、とカイルは思う。
以前の自分ならば、逃げたいという意志すら持てなかった。それを変えてくれたのは、隣にいるルキウスなのだ。無理やりであっても、そう思うことで少しだけ心に光が差した感覚があった。
――君と一緒にいれば、僕も少しは変われるのかな。
そう言葉に出そうとしたカイルは、ルキウスがちらちらと目を泳がせていることに気が付いた。それが自分と目を合わせないようにしているだけではないように思えて視線を追うと、どうやらルキウスは屋上から見える下の方を見ているようだった。
確かに、初めて見る景色ならば、気にもなるのだろう。
「…………」
しかし、眼下に広がる繁華街から漂う夜の気配に、カイルは抵抗を感じずにはいられなかった。幼い時分から姉に徹底的に乱れたイメージを植え付けられていたこともあるが、何よりも街の淡い光が、収容所にいた頃ほぼ毎日連れ込まれていた、看守長ロドリーゴの私室の照明を思わせた。アルコールの臭気に塗れた吐息。体中を嘗め回すような視線、そして営まれてきた穢らわしい行為。そのどれをとっても、思い出しただけで吐き気を催すような記憶だった。
しかし。カイルは隣で眼下を気にしている少年を見やる。
彼は、外を全く知らなかったのだ。そんな彼の目の輝きはカイルにはとても眩しいものに思えた。そして、その輝きを持った彼ならば、自分の中に根付いて離れない澱を吹き飛ばしてくれるのではないか……そんな期待が、そのときのカイルには奇妙な確信を伴って芽生えていた。
今はもう1人じゃない。
ごめん、ルキウス。僕は、また君を頼ってしまう。
そう心の中で謝って、ようやくカイルはルキウスに問う。
「気になるの?」
「は……、は? 何が気になるって? べ、別に俺は……」
気になってなんかいない、と言おうとして、ルキウスは言葉に詰まった。カイルから目を逸らしてもいたが、眼下に広がる煌びやかな賑わいが気になっていないのかといえば、そんなはずもなかった。暗い研究室しか知らなかった彼にとって、そこは全くの別世界。戸惑いもあるが、見てみると、道行く男たち――そこには人間も魔族も関係ないように見えた――の顔は一様に綻び、中には鼻の下が伸びきっている者も少なくない。
あそこは、そんなに楽しいのだろうか?
カイルの言葉を否定するのとは裏腹に、視界はすっかり釘付けになっていた。そんな彼の目にエスタの姿が入った。その瞬間、すっくと立ち上がってカイルを振り返り、声を大きくして言った。
「なぁ、カイル! エスタのおっさんがあそこにいるぞ? しょ、しょっ、しょうがねぇから迎えに行くか! い、一緒に来てもいいからよ……!」
エスタの姿はカイルにも見えていた。カイルの目には迎えなど必要ないようにも見えたが、ルキウスのあまりにわかりやすい理由付けが微笑ましく思えて、つい先刻までの緊張も解けて「僕も付き合うよ」と自然に答えていた。
一方でその答えを聞くまでもなく、ルキウスは早速自分の言葉に恥じ入っていた。何だよあれ、一緒に来てほしいって言ってるようなもんじゃないか……! い、いや、本当に迎えに行くだけだからな!? その途中で街を見て回ったりするかも知れないけど。そんな言い訳を考えてはみたものの、カイルには言い直す間を与えてはもらえず、結局笑顔で押し切られてしまった。
……意外にこいつ、強引なところあるんじゃないか?
ほんの少し不本意な要素と疑問も入ったものの、ルキウスとカイルはこうして、デゼールロジエの真の姿とも言える繁華街に向かってホテルを出ることになったのだった。
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