第4話 壁の外に広がるのは
住み慣れたエデンの市壁が遠ざかっていく。それを死体のような目でカイルは見つめていた。
「おいおいカイル。まだ死んでるのか? お前さんの相方はもうとっくの昔に生き返ってるみたいだぞ。まぁ、意識はないけどな」
移動手段としては最速と
二人は今、声の主エスタの所有する馬車の荷台で死んだように横たわっていた。いや、カイルの方は傍目に見れば死体以外の何物にも見えないだろう。実際、呼吸も脈拍も止まっている。そして死体になったまま、思っていたより遥かに容易にエデンを抜け出すことができた。全てはこのエスタという魔族商人の――カイルが頼ろうとしていた知人の力であった。
エスタ=グラティウス。遠い西国に本拠地を持つ豪商である。しかし1年のほとんどをエデンという巨大市場の中で過ごし、時折商品の原料を仕入れる為に他の地域に行く――という口実でエデンに住居まで構えている。
「たまたま娘への土産物を探していたところにお前さんらを見つけたときは何かと思ったもんだが…………、まったく。とんでもないことをしたな」
そう言うエスタの口調は楽しげだ。その理由が知人の帰還を喜んでいるだけでないことをカイルは知っている。
エスタは、エデンに立ち入る魔族にしては珍しい反体制派だった。エデンで人間の夫と暮らしていた妹が不当な理由で収容所に入れられて殺された――と酒に酔った本人の口から聞いたことがある。それ以来エスタは中央収容所に対して疑念を抱くようになった。
といっても彼はカイルがかつてそうしてしまったように、表立って批判や疑問の投げかけをするわけではなかった。彼は体制批判を表立ってすることがいかに危険であるか、十分に理解していた。彼は中央収容所を内部から瓦解させ、権力者を衰退させた後で、本当の意味での共存の可能性を模索しようとしていた。
その為に出てくるのが彼の扱う商品であった。
エスタの商店で扱っているのは基本的にその流通網を駆使して世界中から集めた雑貨品であるが、その裏では依存性が高く危険視されているものから、特殊な資格がなければ所有、製造を禁じられているものまで、数多くの薬物を取り扱っている。ある意味ではエデンにおける社会問題を助長していると言えなくもないのだが、それが対・中央収容所では大きな効果を挙げている。
まず彼は、依存性が特に高い薬を巡回に来た保安員に安価で売りつけた。そして噂を聞きつけた看守が目論んだのは規制ではなくその快楽の享受である。そんな者たちに対しても、エスタは求められるままに薬を売った。そのうち、薬への依存から、それを唯一扱っているエスタに対して中央収容所の看守たちはある程度の自由を与えており、門番に至ってはエスタの意のままに動かせるといっても過言ではない状態にまでなっていた。
その一方でエスタが行なっていたのは、反乱分子として目を付けられかねない者の保護だった。先程述べた「自由」の範疇にその権利があり、中央の役人であってもエスタの了承なしには家内に踏み込むことはできない。反乱分子の隠匿を禁じられているエデンにおいてエスタの存在は、反体制派の住民にとって最後の救いだった。現に、彼の商店にいる従業員のほとんどが、腹の底では現体制の転覆を考えている者である。エスタがゴーサインを出せばいつでも反旗を翻す覚悟もできているという。
そんなエスタだからこそ、路上で倒れていたカイルを手早く自宅に連れ帰って、門番にも遮られずにエデンを出ることができたのである。
しかし、エスタの最大の長所は用心深さと言ってもよかった。門番の検問には恐らくかからない状態であったが、それでもエスタは馬車に積んだカイルとルキウスの姿を何とか隠そうと苦心し、その結果、ある『製品』を2人に投与した。
1つは「仮死薬」。これによって荷台に積む不自然さを無くした。
もう1つは「変装薬」。これは、名前こそ「変装」とつけられているが、その効果は単なる変装とは違い、骨格から何から、全てを一時的に変える薬である。
変装薬だけではエスタ本人ではないという理由から検問で調べられる恐れがあるし、仮死薬だけでは死体の回収という名目で連れ戻される恐れがある。考えうる限りの懸念に対してエスタが打ち出した策であった。
結果としてそれは杞憂であり、門番はエスタが通るとなったら止めるよりもむしろ率先して道を開け、まるで主に対する従僕のような
そして今に至る。投与から1時間近く経つが、まだカイルは仮死状態だ。
「うむ、この薬は人間には強過ぎるみたいだな……。今度お前さんに打つときはもう少し弱いのを調合しておこう」
「……」
意識はあるものの、当然の事ながらカイルはそれに対して返事が出来ない。
そうこうする間にエデン近郊地帯を抜けて、機械馬の
旅路はまだまだ長そうだった。
干上がりそうな暑さの砂漠をしばらく進むうちにカイルの体からも完全に仮死薬が抜けたのだが、生き返った直後に感じた強烈な渇きを何とか癒す為にエスタから水を分けてもらうことになった。
「喉が渇かない薬とかないんですか」
「そんなもんは全部売り切れちまったよ。お前さんが死んでる間にな」
「そ、そうですか……」
そう言いつつカイルは隣のルキウスを窺う。
ルキウスは、一向に目を覚まさない。仮死薬を投与する前には1度、意識のないまま仮死薬を入れることを危惧したエスタの手で叩き起こされていたが、そのときにもエスタやカイルの言葉に頷くか首を振るかの反応しか示せなかった。仮死薬の投与を躊躇するエスタを睨み付けて投与を促したルキウス。その目に射抜かれるようにして、エスタは仮死効果の出る最小限の量に抑えて投与したのだが……。
「一応は生き返っているようだし、呼吸は普通にしてるから、まぁ大丈夫だとは思うが……、カイル?」
エスタは、カイルの様子が変わったのを感じて声をかけるが、返事がない。
カイルは倒れているルキウスの方をじっと見つめたまま動かない。よく見るとその手は小刻みに震えている。
「カイル、どうした」
「エスタさん、どうしよう……。ルキウス大丈夫なんですか? ルキウス、商業区に着くまでずっと休みなく力を使ってたんです。僕が頼んだせいだ、どうしよう、どうしたら……」
「落ち着かんか、カイル。呼吸は正常だと言っただろう。大丈夫だ、もうじき目を覚ますさ。寝言も言ってるぞ? 目覚めたときにお前さんがそんな顔をしていたら、ほれ、オレがこの小僧に何をされることやら」
エスタの危惧も当然のことだった。ルキウスを叩き起こしたとき、彼が朦朧とした意識の中でエスタに言ったのは「カイルに触るな」という言葉だった。収容所の中のことはカイル本人も話したがらなかったのでエスタがカイルの身に起こったことを知る由もないが、自分がカイルの傍にいるのを見たときにルキウスが向けた自分への敵意とカイルに向けた心配そうな瞳を見ると、大体のことは察せられた。
――お前さんも苦労したんだな、カイル……。
しかし、そう言うことは躊躇われた。心身に負った傷を隠そうと努めているカイルにそれを告げることの残酷さをわからないエスタではなかった。
それにしても……。
エスタは黙考する。
恐らく収容所の地下深くにあると長らく言われていた妙な施設は実在する。
カイルが収容所にいる間、1度もルキウスを見かけていないこと。そしてルキウスの着ていた服が何かの検査をするかのような、しかも大きなエネルギー波に耐えられる仕様の衣服であったこと。そしてルキウスの体が魔族にしてはあまりに弱いこと。もし収容所内の施設で何らかの実験が行われているとしたらそれらの疑問に説明がつく。
エスタは傍らに座る、未だ表情が穏やかでない人間の少年をもう1度見る。
――まったく、お前さんも妙なのに懐かれたもんだな。
機械馬の手綱を引きながら、エスタはその言葉も喉の奥に飲み込んだ。砂漠の旅路は、まだまだ続きそうだった。
* * * * * * *
中央収容所、「地下3階」。
看守が着る黒い防護服と対称的な白衣を着た人間たちが靴音を響かせながら往来する薄暗い室内。あまりに広くそこは、そこ自体が一つの巨大な施設のようであった。地下2階までとされている収容所とは種類の異なる陰鬱さを感じさせる空間であった。ホルマリンの匂いと共に立ち込める沈黙を打ち破ったのは、1人の魔族囚人のあげた悲鳴だった。
「な、何だこれ!? どこなんだよここ!? なぁ、あんた教えてくれよ! おい、頼むよっ、なぁ……っ!!」
彼の驚きと同様はもっともなことだった。
かつてその強靭さを誇っていた肢体には何本もの管が刺さり、そこから注入されている神経毒のせいなのか、手術台に固定された体は指1本動かせない。しかし、何とかまだ動く目を巡らせて事態の把握に努めてしまったことは、彼にとっては更に不運なことと言えた。彼の視線はある一点に集中する。その目が、皮膚も裂けんばかりに見開かれる。
彼の二つ名である《鋼の右腕》。右腕の硬質化によって掘削作業現場で「お前がいれば掘れない場所なんてなんてねぇな」と親方や同僚の褒めた右腕が、その右肩には付いていなかったのだ。
「ああああああああっっ!!!」
神経がまともに作用していないのだろう、痛みは全く無かった。しかし恐怖と絶望が彼の肺を駆け回り、喉から絶叫となって抜けていく。
その声を無視して、白衣の人間たちは会話を始める。
「どうだった?」
「移植するようなものでもないよな、ただ腕が鉄みたいになるだけだろ?」
「まぁそう言うなよ。こいつにとっては唯一の自慢だったんだからさ」
「使いようによってはいいだろうが……。やっぱり扱いにくいだろ。腕1本丸々が『核』なんて。移植も腕ごと入れ替えになるし」
会話から漂う嘲りの気配に片腕の魔族は激昂したが、自分を嘲笑う人間たちを殴り飛ばそうとした左腕は動かない。ならば鼓膜を潰してやる。叫ぼうとして、彼は舌と喉が感覚を失ってしまっていることに気付いた。視覚もまともに働かないのか、目が霞んでくる。
彼が最後に残った聴覚で感じたのは、自分に迫る足音だった……。
白衣を着た1人の女が、片腕になった魔族の末路をモニター越しに見ている。女、というにはあまりにその容貌は若く、見た目には10代半ばの少女のようだったが、その顔に浮かぶ冷たい気配は決して少女然としたものではなかった。彼女は今、苛立っていた。眼前の手術台で蠢くものを一瞥してから、背後の男を振り返る。
「脱走者は見つかりまして? スミス看守長」
「……っ」
看守長――ロドリーゴ=スミスの顔に緊張が走る。
戦場では「不死身の男」や「暗殺の天才」と恐れられ、退役してから配属された中央収容所でも数多くの囚人をまとめ、いかなる反乱も己の力で捻じ伏せてきた普段のロドリーゴならば相手が誰であれ――ましてやこのような少女1人に対して――そのような緊張と恐怖を感じることはないだろう。
だがロドリーゴは相手が誰かを知っていたし、それ以上に今の彼は目の前で見せ付けられた光景に慄いていた。
手術台にいるのはロドリーゴの部下――カイルを犯そうとして、結果的にルキウス共々逃がしてしまった若い看守である。……といっても、手術台の上のものがその看守であるとわかるのは恐らく白衣の女と、彼を目の前で見ていたロドリーゴだけであろう。
「やっぱり人間向けに調整されてない臓器の対人移植は危険みたい。この方は、人間としての形を保てなかったみたいですし」
女は淡白に、まさに実験の経過を見守る以上の意味を持っていないような口ぶりで呟く。しかし、ロドリーゴへの見せしめとしては十分すぎた。
その瞬間のことを思い出して、ロドリーゴは我知らず身震いする。
魔族から摘出したという肝臓を移植された看守の体は、その肝臓から体内に流れ出た力の奔流に耐えられずに人間としての形を失い、今では生物の形を目指して中途半端に捏ねられて捨てられた粘土のような姿になっている。しかも――
「それなのに元の持ち主の能力のせいで死ねないなんて哀れですね。……不死の『核』を植えてもこれでは……ねぇ?」
絶えず聞こえる苦しげな呻き声がこの男の生存を示している。体が急に変質していく苦痛とやらが、この若い男をずっと苛んでいるのだろうか。死にたいほどの苦痛にあって死を許されない。それほどの罰がどこにあるだろうか。それを目の前で見せ付けられるほどの恐怖がどこにあるのだろうか。
女は無表情でロドリーゴを見つめ、最後に冷たく命じる。
「彼のようになった貴方を見たくありませんので、脱走者の少年、特に魔族の方は何としても連れ帰ってくださいね? 私も少しはお手伝いさせてもらいますから」
そして無防備にもロドリーゴに――暗殺で名を成した不死身の男に――華奢で小さな背を向けて、女は歩き去っていく。
しかし、その背中が完全に見えなくなるまで、ロドリーゴは一歩も動けなかった。
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