第3話 市街の逃亡劇

 ここを出る――そう言ったルキウスは、猛スピードで壁に向かって走り出した。

 迫る壁。止まらないルキウス。――ぶつかる! そう思って衝撃に備えようとカイルが心の準備をしたときだった。


 その瞬間、目に映る全てがスローモーションのように見えた。


 眼前数センチほどに迫った壁に突然黒い点が現れ、広がっていく。それは人が入るのには十分な大きさの穴になり、ルキウスは躊躇いもなくその中に走り込む。カイルも振り解かれそうな速度をその腕に感じながら、壁に開いた穴に入っていった。穴の中では後ろから引き込まれるような感触があって、平衡感覚が狂いそうになる。急激な嘔吐感がカイルを襲い、何とか気を逸らそうとカイルが視線を周囲に向けたとき、視界が光に包まれた。

「気を付けろ、カイル!」

 そんな叫び声が耳に入ったのと、慣性の法則に従って前に押す衝撃がいきなり止まることとなったカイルの全身、特に背中を強く圧迫したのはほぼ同時だった。ルキウスが少し足元をよろめかせながらも止まったのに対して、カイルはルキウスの背中を飛び出す。

「――――、――、――――――っ」

 その衝撃は、たとえるなら骨を砕かれ、肺をり潰され、心臓を握り潰されるような苦痛を伴うもので、カイルは思わず叫んだ。といっても、叫んだと思ったのは本人だけで、空気が一瞬で閉め出された体からは声など出ていなかった。カイルが呼吸を取り戻したのは、倒れた拍子に地面に胸を強打してからだった。滲んだ視界の中では、早くも動いていたルキウスがどこかからカイルの方にやって来ていた。

「今なら誰もいない――って、大丈夫か?」

「う、うん……」

 そう答えているわりには腰砕けになって、立つというよりはルキウスの腕に取り縋って体を支えることしかできないでいるカイル。しばらくは動けそうにないと思ったルキウスは、それと同時にあることに思い至って、カイルが体勢を整えないうちにその場に座り込む。「わっ」と小さく声を漏らしながらカイルもその場に倒れた。

「痛……、どうしたのいきなり」

「カイル」

 恨みがましく問う自分に対して真剣な顔で言うルキウスに思わず気圧されるカイル。「な、何?」と聞き返す。

「ここって、どこなんだ?」


 白状すると、カイルは驚いていた。

 なんとルキウスはエデンのことを――中央収容所の外のことを、ほぼ何も知らなかったのだ。

 楽園都市エデン。円形に設置された高さ7.5mの電磁壁に囲まれた都市である。町の中央に位置する収容所から見て南にある第1門、北西と北東に設置された第2門と第3門が外と繋がる経路だ。中は主に門付近に広がる商業区と他の全てを占める居住区に分けられ、商業区も第一門付近の中央商業区と第2門付近の北部商業区に分かれる。

 居住区の中では人間と魔族が入り混じって生活していて、治安維持を担う収容所、一般的なトラブル解決を主要な役割とする警察署、また病院などの施設の加護の下、百数十年にわたる平和を保っている――――という、中央収容所に入れられる前通っていた学校で教えられた常識を、ルキウスは全く知らなかったのだ。因みにカイルには、今自分たちが居住区の中でも北部商業区に程近い地域にいることがわかっていた。

 今までどんな生活をしていたのだろう、そう思ったときカイルは気付いた。

 ルキウスが着ているのは、自分が見慣れて、そして今着ている灰色の囚人服ではなかった。

 過去に1度大怪我をしたときに袖を通した入院服によく似ている。しかしその布質は服飾にうといカイルでもそうわかるくらいに上質なものだった。そしてルキウスのような人物を、どうやら自分より長く収容所にいたらしいにもかかわらず、1度も見たことがなかった。


「ねぇ、ルキウス。君は、どこから来たの?」


 ルキウスはそもそもエデンにいたことがないのかも知れない、と。それならば彼がエデンについて何も知らないことにも納得できる。そう思って尋ねたカイルは、予想とは違う答えを聞くことになる。

「俺、ずっとあそこにいたんだ」

「あそこ?」

「俺たちがさっき会った場所あるだろ?」

「…………うん」

 ルキウスの指す場所は恐らく中央収容所だ。そう思ってカイルは呟く。そして、それが示す事柄に気付く。

「ルキウス。君は、」

「――来た」

 そう言って再びカイルを背負って走り出したルキウスの背後で「おい、いたぞ!」と声がする。どうやら看守たちが追いかけてきたらしい。しかし、ルキウスの速度にはついて来られず、すぐに声と足音は遠ざかる。


 しかし、ルキウスは不安を覚えていた。何せエデン居住区は彼にとって生まれて初めての場所である。右も左もわからないまま、もしかしたら自分が先程までいた暗闇へと誘導されている可能性だってある。

 俺は、このまま走っていて大丈夫なのか?

 そんな不安がふとルキウスの頭をよぎる。自分1人なら、たとえ追い詰められても強行突破もできないことはないだろう。だが、背中の少年は――? 不安に耐え切れず、足を止めようとしたそのとき、後ろでカイルが口を開いた。


「ルキウス、ここから左に向かって走って」

「え?」

「商業区に知り合いがいるんだ、その人に会えれば大丈夫だから」

「……」

「僕が案内するから、ルキウスは走って」

 ルキウスは正直な話、カイルを信用していなかった――そう言ってしまうと語弊があるが、より正確に言うならば頼りにしていなかった、とするべきだろうか。先程出会ったときのカイルは、何の力も持ち合わせていない脆弱な男に組み伏せられていた。それに加えてその後のことを考えると、人間と魔族の個体差を考慮したとしても「あまりにも弱い」と認識せざるを得なかった。

 だから、というわけではないのだろうが、カイルの言う通りに動くのには、少しだけ不安があった。しかし……。


「大丈夫、この辺りの道は全部覚えてるから! 今いる場所からならきっと誰にも見つからずに行ける! だから……!」


 カイルの声には、振り返って見たその少女のような顔には、ちょうどカイルが収容所の中でルキウスに見たような輝きが、強い自身が見えた。

 ルキウスは「わかった」と小さく呟いた後、いきなり真上に跳んだ。想定外の動きに、思わずカイルは声を上げる。

「ちょっ、見つかっちゃうよ!」

「下を行くより早いだろ!? 大丈夫、見つかったって逃げ切れっから! 絶対2人で逃げ切る! 次どっちだ!?」

 律儀にカイルが指した方角を目指すルキウス。といっても翼があるわけでもないから、跳び上がった高さにあるビルの壁を蹴って進むくらいだが、これは2人にとってよい結果となった。カイルにとっては居住区の中を走るよりも見通しがよくなったこと、そしてルキウスにとっては障害物を最低限にすることでより自由度の高い移動ができるようになったこと。

 カイルが目的地を示し、ルキウスが密集したビルの壁を蹴って進む。その速度に、地上だけではなく空から追跡する看守すらも2人の姿を捕捉することができない。人込みに紛れるように2人が着地したときには、もうその姿を捉えられる看守は1人もいなかった。


 2人が逃げ込んだのは、第二門前に広がる北部商業区。


 世界に広いシェアを誇る大企業のビルが立ち並ぶ中央商業区とは違い、こちらは異国から来る露店商に解放された地区である。たとえば、世界様々な地域で作られる特産品や民芸品がその筆頭だ。エデンにも四季はあるが、その気候差は極めて小さく、故にエデンでは見られないようなものも多い。この北部商業区にはそうしたものが数多く集まっている。カイルも中央収容所に入れられる前は、姉によく連れられて来たものだった。

 あのとき買った、北方地域特産の万年雪を使った彫像は今もまだあの家にあるのだろうか。

 姉が死に、自分が捕らえられたことで誰もいなくなったあの家に……。

 カイルの感傷は、背後から聞こえた音に遮られる。振り返ると、足下でルキウスが倒れていた。

「ルキウス……?」

「…………」

 返ってくるのは今にも消えそうな、か細く苦しげな息遣いだけだ。起こそうとして触れた体は、たった今思い出した万年雪のように冷たい。

「ルキウス! ねぇ、ルキウス……っ!」

 いくら揺すっても一向に目を覚まさない。周囲に助けを求めようと視線を泳がせるが、道を歩く者は皆、市場の片隅に座り込む少年2人に関心を払うことなく、露店で自分たちが何を買おうかを考えている。苛立って声を上げようとしたときになって、カイルは自分たちの着ている服に気付いた。

 そう、今の自分たちは囚人服と入院服を着ている。明らかにこの場所を歩いていていい者ではない。そんな自分たちの存在を知らせるなど、「連れ戻してくれ」と言っているようなものだ。カイルは口を噤む。

 ……助けを求められる場所まではまだ距離がある。

 ルキウスのように早く動くことができれば何とかなるかも知れないが、自分は普通の人間だ。見つからないように移動するなんてできないだろう。

 だけど、ここにいたら見つかる。

 自分はともかく、ルキウスは――ずっと収容所の中で囚われていたというこの少年は何としても逃がしたい。

 カイルは覚悟を決めて、ルキウスの氷のように冷えた体を背負った。


 そのとき、目の前に大柄な影がぬっ、と現れた――。

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