第2話 運命への決意
カイルは、自分の前に現れた少年をまじまじと見つめる。
体は自分より少し小さいくらいだろうか。長く伸びたのを雑に、恐らくは自分で切ったらしい金色の髪は彼の奔放さを表しているようにも見えた。真紅の瞳に宿る力強い輝き。そしてカイルが見ていたのはその顔だった。正確には右頬にある林檎の形をした痣――魔族の証。
そして、それ以上に。
言葉では言い表せないような、とても懐かしい感覚がカイルの中を駆け巡った。その正体が何なのかわからず、しかし何かを言わなくてはいけないような焦燥感に駆られて、口を開く。
「君は、」
「しゃべってる暇なんてねぇ、ほら立て!」
言うが早いか、魔族の少年はカイルの手を引いて走り出す。その後をついて行こうにも走る速度があまりに違うため、半ば引き
狭く薄暗い廊下をどれほど進んだだろう、カイルの体が速度に耐えられず感覚を失い始めた頃、ようやく少年の足は止まった。その際もやはり、カイルは足をつんのめらせることになった。しかも痺れた足では体勢を直せず、尻餅をついてしまった。「何してんだよ、ほら早く!」小柄な体からは想像できない力で、少年はカイルを軽々と独房らしき部屋に引き込んだ。
少し冷たい空気に身震いしながら、カイルは辺りを見回した。部屋にある最低限の生活ができるレベルの家具は埃を被ったり錆びたりしている。どうやら空き部屋に入ったらしい。少年はドアを閉めて、深く息を吐く。
「ふーっ、ここまで来ればすぐには追いつかれねぇだろ。まさかこっちの方まで逃げるやつがいるなんてあんな下っ端にはわかんないだろうし」
「え、それってどういうこと?」
「あのさ、そろそろ服着ろよ。それから話すから」
部屋の中に干されていた不衛生そうな服を投げてよこしながら、妙に慌てた声で魔族の少年は言う。そこで初めてカイルは自分の着ている囚人服が服の機能をなしていないことに思い至った。その必要はないはずなのに、目の前の少年がやけに落ち着きのない反応をするので、カイルも必要以上に焦ってしまう。服を着ようとする手元が覚束ない。そんなカイルの姿を見て落ち着きを取り戻したのだろう、少年は溜息を吐きながら椅子に座る。それでもカイルの方を見ることはなかったが。まごつきながらも服を着終えたカイルは、椅子は取られてしまっているので仕方なしに埃の目立つベッドに腰かけた。
「俺、ルキウスっていうんだ。お前は?」
「僕はカイル。カイル=エヴァーリヴ。ルキウス、助けてくれてありがとう」
「べ、別に助けてなんかねぇよ! ……これはただ行きがけの駄賃っつーか、その……、とにかく、気ぃ付けとけよな」
そう言ってカイルから目を逸らすルキウスだったが、その顔が仄かに赤くなっていたのは隠せていない。それを自覚しているのかいないのか、ルキウスはさっさと話題を変えてしまおうというように口を開いた。
「なぁカイル。お前何したんだよ。まさか、へ、変な商売とかしてたのか?」
変な商売、という単語でまた顔を赤くしたルキウスに、カイルはその言葉の意味はわからないのに思わず噴き出してしまった。
「な、何がおかしいんだよ!」
「いや、何でもないよ。僕はただ、エデンって何かおかしいんじゃないかって言っただけなんだ。もちろん、表立って何かしてたわけじゃないんだけど、たぶん誰かが通報したんだ。帰ってこない姉さんを迎えに行こうとしたら後ろから捕まえられて……」
話しているうちに、カイルは収容所に入れられてからのことを次々に思い出していた。
捕らえられてすぐに知らされた姉の死。そして、人間の看守に虐げられている魔族囚人の人間憎悪。謂れのない言いがかりで毎日リンチされる。関係をよくしようという努力は全て裏目に出た。
周りにいる人間の囚人たちは自分たちへの飛び火を避けるために常に我関せずの姿勢を貫き、時には魔族に交ざってカイルを隅に追いやることさえあった。更に看守から老体の魔物を庇ったときなどは、看守からは全身が痣だらけになるほど殴られて危険思想者のレッテルを貼られたうえに、当の老魔族からも「酷い辱めを受けた」と罵られて蹴られた。その時に折れた左足は、最近ようやく治ってきたところだ。
そして、看守長ロドリーゴの存在だった。
看守長ロドリーゴの脂ぎった汚らしい肢体を初めて受け入れた日、涙に暮れるカイルに向けられたのは慰めではなく、嘲笑と根も葉もない侮蔑の言葉ばかりだった。今日、ロドリーゴの愛玩具となる為に居房を連れ出されたときも、聞こえたのは冷たく静かな笑い声だけだった。先程の若い看守が同情の言葉を口にしたのも、もしかしたらそこにあったのかも知れない。それほどまでに、カイルは囚人同士の中で冷遇されていた。
そんな現状に抗うことを諦めた毎日は、カイルの感情を夏空に揺らぐ蜃気楼のように曖昧なものにしていった。それでいいと、その方が楽だと、彼自身も思っていた。
しかし……。
「…………っ」
「お、おい! どうしたんだよカイル! な、何で泣いてんだよ!? なぁ、な泣くなよっ、悪かった、変なこと聞いてごめんって! もう聞かねぇから!」
目の前で慌てて自分を宥めようとしている少年、彼が――ルキウスが、救ってくれた。水底に沈んでいきそうだった自分を、引き上げてくれた。引き上げられた感情が、両目から溢れて止まらない。
「……今まで、誰もいなかったんだ、こんな風に、助けてくれる人が。看守と同じ人間だからって……、そう言って誰も……。毎日、毎日あの看守に呼び出されて、部屋に戻っても散々殴られて、もう死にたいくらい辛くて、だから、本当に…………っ」
そこから先は、もう言葉になっていなかった。時折「ありがとう」と呟きながら嗚咽を漏らし続けるカイルの姿をしばらく黙って見ていたルキウスは、いきなり立ち上がってカイルの頭を軽く抱いた。
「――――」
「わかったよ、カイル。だからもう言わなくていい」
「……………………」
「…………」
カイルは、ルキウスが少し緊張した深呼吸をしたのを感じた。
「なぁ、カイル。俺と一緒に、ここから逃げないか?」
その言葉は、俄かには信じがたいものだった。
この収容所からは逃げられない。それはエデンに住む者にとって常識であり、自分に向けられる陰口に紛れて時々聞こえてくる囚人たちの会話の中でも言われていたことだった。
地下1階、2階に広がる収容施設から過去に脱走を試みた囚人は、人間も魔族も問わず看守たちに捕まり、それ以来姿を見せていないと。その中にはその場で殺害されたものもいたそうだ。その現場を見たという年老いた人間の男が他の者に語ったことには、「あんな惨い殺され方を見たら逃げる気なんて一気に失せてしまったよ」とのことだった。そうした話も、脱獄の可能性、そして脱獄に向けた意志を遠ざけるものだった。
まず建物から出られない。廊下の至る所に監視カメラがサーモグラフィー式のモニターと併せて設置されており、たとえ姿を消す能力を持っていたとしても温度で脱走を察知され看守に捕らえられる。そもそも魔族の囚人たちは捕らえられた瞬間にその能力を封じるマイクロチップを血管の中に埋め込まれるため、どんなに脱獄に向いた能力を持っていたとしてもそう易々と使用することができない。人間と魔族の共存を謳いながらもそういった物を作った科学者たちは、何を思っていたのだろうか。何度考えてもカイルにはわからなかった。
もしも建物の外に出られたとしても、エデンには中央収容所以外にもいくつかの一般収容所がある。更に、この都市の公共機関はほぼ全てが中央収容所の傘下に入っている。つまり、中央収容所が手配した脱獄囚はエデン中の機関が探すことになる。恐らく市民もそれに協力するだろう。都市全体の目を掻い潜って逃げ続けるのは不可能に近い。
中央収容所の影響力がエデンにおいて大きい理由としてカイルが理解しているのは、エデンにまつわる全てを決定する都市議会の議事堂がこの建物の2階にあること。実際エデンに住む多くの市民は、収容所内にいる多くの看守でさえも、そう思っている。それに近い意味でもう1つ更に大きく重大な理由があるのだが、それをカイルが知るのは少し後のことだった。
「本当にそんなことができるの?」
だから、カイルの問いは至極当然のものであった。それに対してルキウスは事も無げに「あぁ、できる」と答える。先程カイルを助けたときのように、自信に満ちた赤い瞳を少し煌かせて。
その瞳に何物にも揺るがない自信が――成功するという確実な未来が見えた気がして、カイルはほんの少し希望を抱いた。その瞬間、収容所の外への渇望が渦を巻く奔流になって彼を昂らせた。目の前で自信に満ちた顔をしている、誰も助けてくれない地獄から自分を救い出してくれたルキウスとなら、本当に出られるかも知れない。その希望的観測を、その瞬間のカイルは何の疑問もなく受け入れていた。それがルキウスに、そして自分に何をもたらすことになるのかを考えることもなく。
「……行きたい」
ぽつり、と呟く声は涙に濡れていた。
「よし、行こう」
答える声は、どこか静かな響きだった。
そしてそれは、嵐の前の静けさと呼ぶべきものだった。
「離れんなよ。……確実に逃げられる道で行く」
ルキウスがそう言いながら身を屈める。それに従ってカイルが彼の背に負ぶさった瞬間、予想もしなかった事態が起こった。
突如ルキウスは、カイルを背負ったまま目の前の冷たい壁に向かって走り出したのだ。
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