第28話 アシュタロスの軍勢
オペラ伯爵は二週間程滞在して帰国していった。
冬の間疑惑を抱いていた事を確信にしたシャイアは、ナタリアにその確信を話すことにした。
「お話にあたって、まず、お願いがあります」
「はい、何なりと」
「結界を張ってください。――命を削る行為でないならば」
「お任せを。些末な事です、今までもそうしておりました」
「何と?」
涼しい顔で言ってのけたナタリアだが、シャイアは目を丸くした。
「貴方との会話を盗み聞きされるのは我慢なりませんでしたので。主に父に。結界を張っておりました。今もそうしております」
「それは早く言って欲しかったなーー?!」
クッションはいつでも膝の上でシャイアを待っている。今日も良くシャイアの悲鳴を吸収していた。
「……取り乱しました。ならばこのまま話を聞いてください」
「はい」
そうしてシャイアは話した。アシュタロスの軍勢の事、それが今この国に降りかかっている災禍であること、まだその軍勢の尻尾もつかめていないが確実に存在し魔術をも行使している事。
ナタリアの表情は些かも変わらなかったが、シャイアには分かる。彼女の動揺と怒りが。そして僅かな哀れみが。
「アシュタロスの軍勢の事は、裏の歴史を知る時に勉強致しておりましたが、まさかこの国に……いえ、時期を考えれば相応なのかもしれません」
ある一定の期間を眠って、というのは形を潜めてという事なのだろう。
ナタリアが知る限り、現れた時期を考えれば周期と合う事になる。
そういった規則的な側面があるならば、何かしらの文献が残っていてもおかしくない。シャイアは、あぁ、と思いついて声にした。
「私も過去にこの国がそのような災禍に襲われた事がないか文献を漁ってみます。あ、いや……そうか!」
「はい、シャイア様。リァン様にお話を伺うのが最善でしょう」
リァンはこの王宮の本という本を読みつくしている。今は異国の本を寸間を見つけては読んでいるようだが、そういった本や資料の中に今迄の事が載っていない理由が無い。
司書部というものがあってよかったと、シャイアは心より先祖に感謝した。
「明日一番に聞いてみよう。いや、助かった。何もかも運命のような気がしてしまうよ」
シャイアの言葉にナタリアはうっすらと笑った。
「それは……そうでしょう。貴方は自身の名前に何を戴いているかお忘れですか?」
「あぁ、そうか。そうだね。これもまた戦だ。何やら大きな話になってしまったけれども」
「えぇ。まさか悪神の軍勢と戦う等、思いもよりません」
可愛らしく肩を揺らして笑う。話の内容はどこまでも物騒である。
「はは、全くだ。――そして、神の名を戴く女性を妻に戴いた事も、思いもよらなかった」
ナタリアは珍しく自然に瞠目すると、いつかの日のお返しのように、シャイアの元へ歩み寄って膝をついた。最上級の礼である。
「私はあなたのものです。あなたの味方であり、あなたを守る者。あなたを励まし、あなたの背を押す者。盾にも矛にもなりましょう。私はあなたの……妻ですから」
神々しいばかりの微笑を浮かべたナタリアが歌を歌うように宣誓する。
何よりも素晴らしい神の加護を得たかのように、シャイアの心は晴れ晴れとしていた。
この先に不安ばかりが芽吹いていようとも。春の息吹きが運んできたものが、悪神の足音だとしても。
とある館の一室で、主が誰かと話していた。
まだ夜は肌寒い。窓は開けていないが、その部屋には主が一人のみ。しかし、声は二人分である。
「気付かれたようだ。結界が強い」
「我らが神がおわす場に、この国以上にふさわしい場所があったろうか」
主の言に、応えにもならない答えを声が言う。
「命が溢れ、幸福に満ちていながら、今また新しい文明というものを取り入れようとする生命力」
「我らが神にこそ相応しい。今迄の失敗は、全てこの機の為にあったのだろう」
主は自分の問い掛けに答えられなくとも特に気にしないようだ。これはいつもの事なのであろう。
「我らが神は豊穣の神にして地獄の一柱。二極の側面は我々に地上の王たらんとする意思であろう」
支離滅裂であるが、それを信じて疑っていない。
「あぁ、我らが神アシュタロスよ!」
「アシュタロスの名の元に!」
どこか狂った会話を繰り広げた二人は、その一言を機に言葉を潜めた。
姿の見えない一人が居なくなったのだろう。気配がしない。
そうして部屋の主は、黙々と表の仕事に戻った。
春は忙しい。冬の備えから一転、新たに一年の計画を立てて領地を運営しなければならない。
今年の春は、特に。
「今年こそ、我らが神の降臨が為される時だ……」
春の夜は更け行く。
不穏な足音と共に、眩しい日差しの朝を湛えて春の陽が昇る。そう、あと少し、あと幾時間かで。
翌日は、朝からリァンを呼び出してアシュタロスの軍勢の話をする事となった。
必然的に王妃の正体についても話さなければならなくなる。しかし、今は一人でも多くの知恵と力が欲しい時だ。
執務室に集められたのは、催事以降居座って本を読みふけっていたアッガーラのバルク、軍師であり書簡の全てを網羅しているリァン、王の右腕たる宰相ロダス、王妃ナタリアに、その侍女であるカレンとニシナ。武器庫の管理職を任じられたソルテス。そうそうたる顔ぶれである。
「長い話になるが、まずは聞いて欲しい」
シャイアはまず、ロダスとリァンにナタリア達の事を打ち明けた。
そうして今、この国に迫っている危機について。アシュタロスの軍勢についての話をする。
ロダスとリァンは驚嘆の中にあったが、何とかそれを飲み込んだ。はっきり言って話の情報量が多すぎる。
バルクは約束通りに尻尾を掴んだシャイアにやるじゃないかという視線を送る。だが、まだ完全に尻尾を掴んだわけでは無い。傍観を決め込んでいる。
「というわけで、今までにこのような災禍に襲われた歴史は無いかが知りたいのだが」
問われたリァンは未だ頭の中の情報を整理するのに時間を使っていた。
なまじ知識があるだけに、与えられた情報が知識として吸収されるのに時間がかかるらしい。
数分の沈黙の後、ようやく口を開いた。
「……、幾らか記憶に御座います。そして、アシュタロスは……、豊穣の神を原理に汲む者。果たして、本当に倒してしまっても良いものなのでしょうか……」
この国にあるのは肥沃な大地。言い換えてしまうと、それ以外は何もないと言ってもいいだろう。
豊穣を司る神を戴く者を敵としてしまうのは、果たして本当にこの国の為になるのか、というのがリァンの見解である。
「無論、私は陛下にお仕えする者です。陛下が国王を降りる必要は微塵も感じておりません。ですが、もしこの国が豊穣の神の奇跡によるものなら……いえ、それは国民に失礼ですね」
確かに神の加護は至る所に及んでいるのだろう。しかし、それを奇跡のままにせず、開墾し努力し成果を出したのはこの国の民である。
それを否定する言動はいけない、と自らを戒めたリァンは頭を乱暴にかいた。
「そうなりますと、ううん、他国の書に似たような文献はあるのですが……」
「あるのか?!」
「えぇ。しかし、それはまた別なのです。なぜなら海から現れると書かれているので……あ、いや」
同じ龍であったとしても、アシュタロス神が乗る龍とこの龍は別のものだとした方がいいだろうというのがリァンの考えである。しかし、共通点を見つけたようだ。
「この国が飢饉にあえいだのは、実に規則的で百二十年の周期にあります。確かに時期を見れば今年はそれに当たるのですが、毎回飢饉の原因は海からの風です。その風が作物をなぎ倒し、塩によって腐らせたとあります。何とか備蓄で贖ってきましたが、今は貿易で外に向けても盛んに農作物を出している状況。このままでは飢饉に対して無防備ではあるかもしれません」
「よし、ロダス。すぐに飢饉の対策を立てさせろ。どんな末席の者でも構わない、良い案を出した者には報奨金を出す」
「はっ」
ロダスは一目散に文官たちの詰める部屋に歩いて行った。
グラシャラボラスやらアシュタロスといった抽象的な事は分からない。魔術というのもそもそも理解できない。しかし、飢饉という具体的な災害にならば自分も対処できる。それが彼の脚を動かした。
「リァン、飢饉について具体的な資料を明日までに挙げよ。今日は眠れなくなるだろうが、すまないな」
「畏まりました。海にまつわる異国の書もお持ちしましょうか?」
「あぁ。……私に読めるだろうか?」
異国の書というのは、『古い異国の書』という意味である。実際結婚式の時もそうであったが、今を暮らす人々に言語の違いは無い。あるのは文化の違い、信じる神の違いだが、異国の書は何故か読めない言葉で書いてある。
その地の者ならば何となく内容が分かるのだが、というのもそれは神話を書いた本を原典にしている事が多いからである。神殿や社という場所には神が残したとされる石碑や書物が残って居るものである。
長年本に埋没してきたリァンならば分かるかもしれないが、シャイアにそれ程の知識は無い。
「そういう事なら、俺がお役に立てるでしょう、陛下」
「バルク?」
「俺はこれでも異国の書を読むのが好きでしてね。家にゃ研究資料がごまんとございます。ここの蔵書程じゃあございませんが……、まぁ物は試しです」
これ以上ない申し出である。リァンに本の手配を頼み、バルクには付き切りで解読してもらう事となった。
「たしか、その異国の書は先々代の国王陛下がお集めになられたのでしたわね?」
ナタリアが不意に口を開く。
「……そうか! 先々代より一代前はちょうど百二十年前に当たる。ならば先々代の蒐集品というのは……」
「飢饉に……アシュタロスの脅威に備えたものかもしれません」
「えぇい、私の元に持ってこさせる時間が惜しい。バルク殿、済まないがついてきてくれ」
「畏まりました。このバルク、友人として一肌脱ぎましょう」
こうして、リァン、バルク、シャイア、そしてちゃっかりとナタリアは図書室に向かった。
彼らが各々対策を立てている間、新しい領地を訪れたリユニア公爵に魔の手が迫っていた。
新しい屋敷の寝心地を確かめている時だ。不意に誰かの気配がした。
侍従ではない。とはいえ、殺意ある者では無い。
深夜に寝所に潜り込む時点で怪しさしか無いのだが、様子を見る積りで狸寝入りを続けた。
「アシュタロスの器として、貴殿は実にふさわしい……」
その呟きと同時、気配が黒い靄のように揺らぐ。リユニア公爵が目を開けたときには遅かった。
部屋の中は黒い霧で満たされている。毒の霧かと思ったが、リユニア公爵には毒が効かない。故に、分からない。
この霧が何なのか、どういった物なのか。
『貴方に毒が届かないとしても、精神的な毒ならば――』
この言葉は、リユニア公爵にも当てはまる。
リユニア公爵に魔術の心得など無い。普通持っているものではない。
黒い霧は呼吸として徐々に、そしてあからさまにリユニア公爵の身の内に吸い込まれて行く。
「な、にを……?!」
少しずつ、少しずつ、他人の意識が自分の意識に混ざってくる。
本に共感するのとは違う。無理矢理頭を押さえつけられ、読みたくも無い本の情報が頭の中に映像として流れ込んで来る。
精神汚染。洗脳。支配。力で屈させようというのではない、まさに内側から他人に支配される感覚。
自分の意思では指先一つ動かせ無いのに、他人の意思で勝手に動く指。
空恐ろしかった。なまじ自身の意識があるだけに、それを如実に実感してしまう。
しかし、リユニア公爵は鋼の精神でその支配に抗った。
それは即位して間もない従兄弟を傀儡せしめよ、殺して王座につけ、という圧を加えられてそれに耐え、跳ねのけてきた精神力である。彼は、シャイアは、実の兄弟と相違無い。
屈するわけにはいかなかった。今回の攻撃もそうだ。未知だとしても、怪しげな魔術だとしても、リユニア公爵はシャイアに反するものに与しない。屈しない。
しかしその努力もむなしく、やがて黒い霧はリユニア公爵の内側に納まりきってしまう。呼吸をしない人間は居ないのだ。
ドクン、と自分の身の内から己の物以外の心臓の音がする。
「…………くそ!!」
自分が誰かの支配下にありながら、腕が自由に動かせる。唇が動き、思考ができる。ただし、常に何かに見張られている、誰かが自分の中に居る。それが理解できる。
リユニア公爵の行動は素早かった。書面に三行程の文をしたためると、戦支度でもするように館に――旧ザナス邸に備蓄をさせて蟄居する事に決めた。
先の文はそれを王に知らせる書面である。すぐに王宮に使いが走ったが、シャイア王は今図書室に籠り切りである。宛先はリユニア公爵、優先度の低いものとされて執務室に置き去りにされた。
しかし、リユニア公爵が戯れに筆を執るならば便箋十枚はくだらない傑作となるのだ。
その薄さに気付けるのは、果たしてシャイアか、ロダスかといったところだろう。
シャイアが手紙を見るのは、まだもう少し先の話である。
その時間が手遅れとなる。
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