第26話 動乱の兆し

「害を成そうとする。その者の名を、アシュタロスと申します」


「やはり、そうですか……」


 グラシャラボラス信仰の話を聞いていた時からモヤモヤとした疑念はあった。胸の奥に燻っていたその疑念が黒い靄の形を持ったのは南へ向かった時である。何か、自分の手の届かない場所の何かに掴まれているような不快感があった。


 シャイアの頭の中の知識では、グラシャラボラスというのは確かにその原典においては高い階位にあったが、従僕に過ぎなかったはずである。ならばその上位の者が居てもおかしくない。その候補として、しかも最悪の候補としてシャイアが考えていたのがアシュタロスである。


 地獄の三柱のうちの一柱。強大な力を持つ悪神だ。


「はい。アシュタロス信仰の者は代々の錬金術師にして医師、そして魔術師です。貴方に例え毒が届かないとしても、精神的な毒ならば効く事もありましょう」


「……南で少し、それは実感致しました。何らかの影響を受けていたのだと、今ならば分かります」


 あの時の自分は平素の自分では無かった、とシャイアは自覚している。あの時の余裕の無さは、問題の多さや大きさのせいばかりにできない何かがあったように思うのだ。


「娘をうまくお使いなさい。ナタリアとは、ナーサティヤ神から名を戴いたもの」


「確か……東南の、アシュヴィン双神の片割れですか」


 グラシャラボラスとも、ガルフやアッガーとも違う原典を持つ神である。


 この世界には複数の神話が息付いている。本当に加護はあり、奇跡がある。人々はそれを身近にして生きているため、何を信じるかは人に拠り、その全てが認められている。


 そこに『ある』ものを『ない』という人間の方が奇異に写るものである。風土として根付いているのだ。


「そうです。――彼女の母は体が弱かった。私は元来のグラシャラボラス信仰を持ったまま、別の神を頼る他無かったのです。信仰の厚い地に密かに訪れ、神に祈って名を戴きました。ナーサティヤ神は、或いは悪魔とされる側面がありながら、グラシャラボラスと原典を別に持つ。そういう二極性の相性もあって、私は彼の神を信奉したのです」


 代々の職や館の者の信を裏切る事はできない。


 異国の神でありながら自身の信じる神に似たものを頼る他無いと考え、実際に針の穴を通すような真似をしてのけたと言えよう。


「こうして生まれたナタリアは丈夫に育ちました。些か私が過保護な教育を施したとは思いますが」


 彼女の無表情の事だろう。シャイアは破顔して応じる。


「なに、話していれば愛想の良い女性だと分かります。奥ゆかしくて好ましい」


「千里眼を持つ貴方ならばそう言ってくださると思っておりました。話を戻しますが、ナタリアはナーサティヤ神の加護を得ています。彼女の傍に居れば心の病も自ら逃げ出すでしょう」


 アシュヴィン双神……ナーサティヤ神とは双子の医神である。奇跡のような医療を行い、人界に長く留まり過ぎたせいで神格が落ちたとすらされている。慈悲深い神であり、だからこそ異教徒であるオペラ伯爵の願いにも応えたのだろう。


 オペラ伯爵の言葉に感ずるものがあったシャイアは目を見開いて頷いた。


「確かに、ナタリアと話している間は私の気も晴れておりました。――まず、我が国にアシュタロス信仰を戴く一団が居ると考えてよろしいか?」


 改まって確認する。話が広がり過ぎたが、まずはそこを確信にする必要がある。


「えぇ。アシュタロスの軍勢と我々行者は呼びますが、彼らは一定期間の眠りを終えるとある日国に現れ崩壊を導くのです。一見良い顔をしながら、その中身は腐った肉と同じ。周りに腐臭をまき散らし、毒となり、身の内から食い荒らす。それが奴らの手段です」


 悪し様な言いように軽く首を捻ると、シャイアは素直に尋ねた。


「どうやら浅からぬ因縁があるようですが……」


「ありますとも。オペラ座が頂くグラシャラボラス神とはアシュタロス神の使いの者の従僕に過ぎません。確かに我々は使うものがあってこそ、それを誇りに思っております。しかし、我々を使うのは……ここでは貴方ですが……ソロニア国王唯一人です」


 それは誰が国王であったとしても変わらない。彼らは、ソロニア帝国国王というものに仕えている。


「しかしアシュタロスの軍勢はそれを良いと思わない。手前味噌ですが、これだけの行者を従えたらどれだけ仕事がしやすい事でしょうな、と思います。何度も屈服させようと躍起になって来られましたが、失うのが惜しいと思っている時点で彼奴らの敗けです。我々は屈する位ならば死を選びましょう」


 そうして歴代のオペラ伯爵はオペラ伯爵家を守って来たのだという。


 確かに浅からぬ因縁である。


 シャイアが気に留めたのは、それ以上に別の部分であった。


「いや、死ぬ覚悟は今後やめて頂きたい。もし万一何かあったならば私からソロニア帝国国王に掛け合おう。オペラ伯爵との再会をナタリアも、カレンもニシナもソルテスも大層喜んで居た。貴方を失いたくはない。貴方を失わないという事は、貴方の身内も全て失わないという事だ。全員ヴァベラニアで匿いましょう」


「はは、それは心強い。しかし契約がありますからな」


 産まれてこの方身を案じられるなどと言う事に覚えがないオペラ伯爵は声を上げて笑った。


「そうならない事を願うばかりです。ですから、万一、と覚えて置いてください。命だけは大事になされますよう」


「承りましょう、義息からの忠言だ」


 この義息は実に楽しい。ナタリアは良い夫を持ったと、微かに誇らしくすら思った。


 頭の回転の速さもだ。こちらの命を案じたと思えば、一転既に姿の見えぬ敵について考えを巡らせている。


 その千里眼めで察して、オペラ伯爵は言葉を継いだ。


「何故、アシュタロスの軍勢は一定期間を置いて国を滅ぼそうとするのか、それは分かっておりません。しかし、現実に今ヴァベラニアにいる脅威は彼の者と考えて良いでしょう」


 暫しの沈黙が流れる。シャイアはソファに深々と埋まって考え込んでいる。


 アシュタロスの軍勢が本当に魔術を……神の奇跡を人の手で行う偉業を屈指するのならば、それに対抗する手段ははっきり言ってシャイアには無い。全くの零だ。今の今迄魔術というものは聞きかじっていた単語でしかなく、実際に敵対するものでは無かった。


 目を伏せて考え込んだ末、まじめな表情でオペラ伯爵へ向き直った。


「厚顔のついでに、もう一つお尋ねしてよろしいか」


「何なりと」


「アシュタロスの軍勢に対抗する、魔術師等は居ないものだろうか」


 オペラ伯爵は表情を崩して柔和に笑った。笑うと花が咲いたような華やかさを備える人である。 


 そのあたりはナタリアに似ているように思う。


「そこで、もう一歩込み入った話になるのですが」


「暫し待っていただけますかな、オペラ伯爵」


 せっかくオペラ伯爵が話そうとした出鼻を、真剣な面持ちで挫いたシャイアである。


「? はい」


 そしてシャイアは徐に背にあったヴィクトリアン柄の例のクッションを膝に乗せた。準備万端である。


「いつでもどうぞ」


「それは、何かの呪い道具ですか?」


 伯爵が訝し気に尋ねる。


「ただの相棒です、お気になさらず」


 本人はいたって真面目である。


「では些か気が抜けますが本題と参ります。――我々には魔術の心得が御座います」


「やっぱりねーー!!」


 そう来ると思いましたとばかりにクッション芸の再来である。久々に音を吸収した綿は日干しにより元の形状を取り戻していたのだが、力いっぱい抱き締められては綿もよれるというもの。くっしゃくしゃである。


「特にナタリアには素晴らしい才能が御座います。……グラシャラボラス信仰を戴く限り、行者としての才能とは身体能力の他に魔術の才を指します。孤児というのは若年の内に精神が不安定に広がるものなのでしょうな。そういう意味でも孤児を囲うのは有益な事でした。ナタリアは二神の加護をもって抜きんでた才を持っております」


 孤児に才能がある、というのは初耳であるが、ナタリアと一緒に来た三人は『館の者』である。


 つまりは孤児であり行者だ。


「ではやはり、一緒について来た三人も……」


「扱えます。一通りは。今は私がアシュタロスの軍勢から守る結界をこの場に張っております故、盗み聞きも出来ませぬ」


 そもそもは、オペラ座が情報戦や暗殺の為に妖術や幻術の類を学んだ事に端を発する。


 派手な魔術よりも、こういった目には見えないが地味に効果のあるもの、を扱う才に秀でているという。


「あーきっと今迄色々盗み聞きされてたんだなーー!!」


 シャイアはあれやこれやを思い出して恥ずかしそうにクッションに顔を埋めている。


 優しく聡明なはずの義息の取り乱した姿に、心配度合いが増した伯爵は嫌な予感を過らせる。


「シャイア王のそれは、何でしょうか、もはや呪いの手が……?」


 とんだ勘違いである。


「いえ、及んでいませんオペラ伯爵。これは、何といいますか、ある種未知との遭遇に耐えるための自己防衛手段です」


「そこまで驚くような内容でしたか……」


「魔術師というのがそうそこらに居られてはですね! あっという間にこの城なんぞ陥落するのです!」


 ただでさえも首都防衛の危うさは聞いている限りなのだ。あの城壁を簡単に超える者がすでに城の中に四人居る。きっと目の前のオペラ伯爵も、伯爵の連れて来た侍従達もできるに違いない。もうぼろぼろの穴だらけ、裏町の乞食の方が良い布を纏っているという位の穴だらけ具合なのである。


 そこに、どうだろうか。例えば遠くの軍勢と自在に通話できる者がいる。そこに、遠くの拠点を覗く事ができる者が居る。そして、軍勢をある一か所から一か所へ送る事ができる者がいる。


 魔術というのは、いわば世界の反則行為(ルール違反)なのだ。だから人々は神に祈る事でその加護を受けるに留める。名に神の一部を抱く事を、神の許しがあってようやく許される。シャイアの戦神の剣(ガルバンド)もその一つである。


 ナーサティヤの女名であるナタリアは、非常に強い加護を受けていると言ってもいいだろう。


 それがその上魔術を使えるとあっては……。


「私は、得難いにすぎる奥方を戴いたようだ」


 驚きも過ぎればちゃんと受け止める事ができるのがシャイアの長所の一つだろう。


 しみじみと呟いて、魔術を扱える、という事を受け止めてしまった。


 何も軽く見たわけでは無い。自分よりすごいものを、すごいと言えるのだ。心から。


「これもまた運命だったのだと思いますよ。貴方は、こう言うのは国王陛下にとっては嫌がられる事かもしれませんが……大変良い人だ」


「それでよく、嘗められてしまいます」


 力弱く笑ったシャイアである。情けないが、愛嬌と頭で何とか綱渡りをしているような状態だ。


「良い人が弱い人間であるとは限りません。貴方は強い。ご安心召されよ、人の目は行動と時間が変えてゆくものです」


「はい」


「まずはアシュタロスの軍勢をどうにかせねばなりませんな」


「私の今の目標が具体的になりました。――命程も貴重な情報を、ありがとうございます」


 一説に、魔術とは命を削って行う奇跡だと言われている。こうしている間にもオペラ伯爵は結界を張るという奇跡を起こし続けている。間違いでなければ、命を削ってこの話をしてくれているのだ。


「魔術というのは、そう大層な物ではございません。及ぶ奇跡が小さければ、多少精神が疲弊する程度なのです。まして私は訓練を積んでおりますからな、お気になさらず」


「そうなのですか? ……奥が深いですなぁ。私にも扱えないものでしょうか」


「陛下が魔術を、ですか?」


 何かれと手を出すような男には見えないが、シャイアは半ば真面目なようにも見える。


「えぇ、せめて自分の身は自分で守りたいものです」


「それは誤解ですよ、シャイア王」


 ふ、と笑ったオペラ伯爵である。


 この義息は自分の力というものに気付いていないらしい。


「陛下は己の身を守りたいという。しかし、それは何も己一人でやらずともよいのです」


 そう、例えばシャイアの周りにナタリア達が居るように。アッガーラが友としてあるように。


「周りを巻き込むのも、また陛下のお力です」


「助けられる者としての才、といった所でしょうか」


 腕を組んで真面目に考え込むシャイアが唸る。それを可笑しそうにオペラ伯爵は笑い飛ばすと、それこそが何よりの才なのですよ、と告げて今宵はお開きとなった。


 ソロニア帝国国王に絶対の忠義を誓うオペラ伯爵ですら手を貸してしまう、その才能の凄さが分かっていない義息に、それを敢えて教えないでおく。


 いつしか自分で気づいたときが楽しみだ、と思いながらオペラ伯爵は客間へ下がった。

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