第19話 貧民街
酷い汚臭がした。
汗、糞便、尿、腐った食物、吐瀉物、そして、血。
それらがどこかで混ざり合い、どこかから匂いが発されているが、分からない。把握できない。
ゴミのように人が道端に転がっている。生きているのか死んでいるのかも分からない。
「これが……貧民街……」
「これがそうなわけではありません。まだ一時的なものでしょう。放っておけば疫病の温床になりますが」
淡々と告げるナタリアを、驚愕を顔に貼り付けたシャイアが見やる。彼女の目は貧民街へ向いたままだった。
「今はカレンとニシナが私たちを守ってくれていますが、本来このような場にこのような格好で来る事は望ましくありません。一瞬で追い剥ぎの対象となります」
「それを警吏は……?」
「止めるはずもございません。暴漢の収益は元締めの元へ一部還元されます。その元締めからの袖の下という鼻薬を嗅がされて、詰所で賭け事にでも興じている事でしょうね」
「そんな……」
貧民街ができかけている、と聞いてなんとなく想像していたのは、飢饉の村に近かった。しかし、現実はどうだ。飢饉どころではない。人が生きたまま腐っている。
もちろん王都にも身分差はある。ブランデの中にも荒れた場所はあるし、全てを取り締まる事を求めはしない。きりがないし、人は皆が正しく生きられるとは限らない。正しさの基準だって違う。
だがこれは、間違っている、とシャイアの目には映った。
「どうですか、陛下。まだ心は折れていませんか」
ナタリアが静かに問う。
文明開化は悪い事ではない。新しい文化を取り入れるのは大事な事だ。怖いから、という理由で新しいものを遠ざけてしまうのは間違いだ。
ただ、もっと慎重になればよかったと、今ならば思う。ソロニア帝国はそもそもが新しい出来事に慣れた船乗りの国。此方は真反対の農民の国である。保守的で伝統を大事にする、それでもその守るべきものを失った時、新しいものを得る欲をもって次へ進むことが出来ると。
そう、思っていたのだが。
「心はもう、砕けた」
「陛下……!」
「だから、入れ替える。私が間違っていた。視察だけでは済まさない、全ての対応を終え、そしてから王都へと帰ろう」
「! はい、シャイア様!」
ナタリアが花が咲いたように笑う。彼女はそう、恐れていたのだろう。ここ最近のシャイアはずっと思い悩んでいたのだから。敢えて逃げずに現実を突きつけ、覚悟を問うたのだろう。
「心配をかけたね。もう大丈夫さ、明日は視察の後にザナス辺境伯邸へ行こう。一先ずは私の領地として、この地を清浄にしなければ」
「お手伝い致します」
笑顔を取り戻したシャイアが愛嬌たっぷりに片目をつむると、ナタリアは嬉しそうに笑い返し、そして片手を差し出してきた。こうして変装をすると普通に表情が表に出るらしい。
「シャイア様、今の私たちは傍目には商家の息子と使用人です。普通の恋人同士です」
「可愛い事を言うなぁ」
今もカレンの膝蹴りが暴漢の顔面を抉り、ニシナの手刀が強盗の意識を奪っていたが、それはそれこれはこれである。
悪臭漂う貧民街の前で二人は仲良く手を繋ぐと、宿屋へと帰っていった。
「いま、なんと……?」
「二度目だぞ。爵位と領地を没収する。借金は肩代わりしてやるが、貴様には東の開墾に一農民として加わってもらう」
蒼白になった顔でブルブルと震えだしたのがザナス辺境伯である。
彼は突然の王の到着から既に、落ち着かない様子だった。シャイアも気付いているだろう。この辺境伯は薬にまで手を出している。
文明から一番遠いところに置いておかなければダメだ。今震えているのは急すぎる対応にだろうが、バレ無いと思っていたのがまずおかしい。
ここは直轄地の隣である。少しでも頭が働くならばもう少しお行儀よく遊蕩できていただろうに。
長椅子に玉座にかけるが如く堂々と腰掛けたシャイアの眉間が動く。
「ザナス、貴様は余にも鼻薬を嗅がせる気か?」
「いいえ、陛下、そのような積りは……」
さすがのナタリアも驚いた。この男はシャイアの欲しいものなど何一つ持っていないのに、取り込む気でいたのだ。自分が新しい文化に取り憑かれたように、シャイアも引き込んで仕舞えば良いと思ったらしい。
「では、殺すか?」
今度は殺そうとしたらしい。苦し紛れにも程があるが、確かに二人とも帯刀している。シャイアの眼は見逃さない、どんな微かな気配であっても。指が一本動く、それだけで大方の事を理解する千里眼からは逃れられない。
殺す、という言葉に後ろに控えているバルク達が気色ばむが、ナタリアが視線をやって抑える。
正常な判断力を失った人間の一人くらい、シャイアは捌けぬ程弱く無い。平時であっても実力はシャイアの方が上だろう。相手の太っているわけでは無いのに脂肪だらけの体を見ればすぐに分かる。
「西の主犯は殺したが、此度は貴様が耽溺するまで気付かなかった余にも不足があった。因って生かす。働いて毒を抜くが良い」
今度こそ話は終わったとばかりにシャイアはアッガーラに視線を送る。アッガーラが領主を取り押さえようと囲むと、控えの間にいた兵士達が押し掛けてきた。
狭い室内に三十人は居るだろうか。皆手に武器を持って居る。やたら体格が良いのは、この領主の手元でぬくぬくと飼われていたせいだろう。
バルムが部下へ命ずる。半数は急いでザナス辺境伯を囲んで取り押さえていた。
「陛下を守れ」
「了解。でも数が多いね」
「西の戦に比べりゃ微々たるものさ」
マーガレットとボスコが腰の剣を抜く。幅広の鉈のような刃だが、両面が刃になっており、薄さも鉈とは違う。これは紛れもなく武器だ。
「あんた弓じゃ無いのにいけるのかい?」
「バカ言え、弓しかできねぇ弓兵が狩りなんぞできるか」
「それもそうさね。私は右を」
「俺は左だな」
二人は軽口を叩きながら位置どりをする。この部屋には侍女二人と王妃がいる。侍女二人は壁際でじっとしているから一先ずは大丈夫だろう。
狩るものは、狩られるものの気持ちがわかっていなければ狩りはできない。狩りとは狩るその瞬間までの読み合いだからだ。
だから分かる、今は仲間の半分がザナス辺境伯を取り囲んで居るのに奪い返す気で居ることが。
守るべきはシャイアとナタリア、ザナスの身柄だと二人は意気込むが、位置取りが悪い。囲まれているというのはそれだけで不利だ。実力がどうあれ、守る戦いで数の不利は大きい。
奪い返して逃げられでもしたら、またシャイアを倒そうとする勢力が生まれることがわかる。
緊迫する空気の中、兵はじりじりと距離を詰めてくる。
「皆さま」
ナタリアの凛とした声が緊迫の中に落ちる。
「どうか少しだけ、目を瞑っていてくださいませ」
ナタリアの言葉にアッガーラは困惑するが、シャイアは迷わず敵地の、敵兵の真ん中で目を瞑ってみせた。椅子から立ち上がる事もしない。昼寝でもするような、あまりに悠然とした態度にアッガーラはぽかんとする。
「お早くお願いします」
ナタリアの声が氷のように冷たくなる。女王の威厳さえ漂わせる王妃の号令に押される形で、アッガーラの皆が目を瞑ると(アッガーラの一人が領主の目も塞いだ)悲鳴がきこえた。
「ぎゃあ!」
「ぐぁっ?!」
「かっは……!」
いつ王妃の悲鳴が聞こえるかと身構えていたが、一向にきこえない。野太い男の悲鳴が響く度、血の匂いが鼻に、肉を割く音が耳に届く。
寸間もしないうちにみるみる悲鳴の数が消え、ピチャ、と濡れた床を歩く音がする。
「終わりましたよ。目を開けてください」
バルクが目を開くと、そこには。
三十の死体、夥しい量の血液。その中で返り血の一つも浴びずに立っているナタリアの姿があるだけだった。
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