第9話 月明かりの下で

 国土のやや北東に位置する場所に、ヴァベラニア王国の首都・ブランデが位置している。


 左手にはウルド山脈より流れる大河・ナイリ河を擁し、小高い丘を利用して上下水道の行き届いた山なりの街を形成している。外堀の一番近くには平民街があり、そこから城壁一枚を隔てて商人街と騎士団の区画となり、またさらに城壁を隔てると貴族街となる。もう一枚城壁を隔てた、計三枚の城壁に守られた場所にヴァベラニア王宮は建っている。


 ヴァベラニア王宮には広大な数と広さの庭園があり、季節に合わせて見頃の庭が変わってくる。


 今は秋の庭園が見頃で、赤や黄色に色づいた葉の様緑樹の下に、百合や薔薇、牡丹などの大輪の花が美しさを競っていた。


 ヴァベラニア王宮は右翼棟と左翼棟、中央棟に別れており、謁見の間や神殿、政治経済を回す場は主に中央棟にある。右翼棟と左翼棟には無数の客間やサロン、他の部署の執務室等があり、両棟の三階は使用人達の為のスペースとなっている。


 右翼棟三階の共有場所の露台に、満月が中天を過ぎた頃、二人の影があった。


 ローザとリァンである。


 使用人達は二人の関係を知っているので、姿が見えていれば態々邪魔をするような野暮はしない。それを踏んで、ローザはリァンを露台に誘ったのだった。


 ローザはストールを羽織り、リァンは制服のローブを着たまま、少し寒い秋の庭を目下に談笑している。


「そっかぁ……僕が軍師かぁ。お給金が良くなるだろうねぇ」


「ばか! そういう問題じゃないでしょう? 軍師になったら戦場にだって出なきゃいけないだろうし……」


 リァンは肩まで伸ばした髪を自分で乱暴に切っただけの雑な黒髪を掻いた。平素は少し情けない表情をしているが、いざという時にはやる。そういう男なのだが、ひょろりとした体型と普段の猫背も相まって、軍師というには頼りなく映るだろう。


 ローザの心配を最もだとは受け取るも、少し逡巡して、リァンは慎重に口を開く。


「……ローザ。ねぇ、僕はあの日、あの時の為にこれだけの本を読んだんじゃないか、と思ったんだよ」


「どういう事?」


 訝し気に聞かれて、リァンはローザに視線をやる。ローザの橙の瞳をまっすぐに見詰めて頷いた。


「うん。山賊の話は王宮ではもちきりの噂だったからね。ずっと思っていたんだ。もし被害にあったのが君だったら、って……僕は何もできないと、そう思っていたんだ」


「リァン……」


 確かにリァンは剣をとって戦う事はできない。一緒になって襲われたら、いっそローザの方が何かしら動けるのかもしれない。常に体を動かしてきたローザとリァンでは、ローザの方が体力があるのは確かだ。リァンはそれが情けなくて仕方なかったという。想像の中でだけでも、悔しくて眠れないほどだったと。


「でもね、君が見せてくれたこの暗号を解いて、知識と知識が一つに組み合わさって、それが策という形になった時に……」


 リァンはポケットから一枚の紙を取り出す。二つ折りになった小さな羊皮紙には、本を刷る時のような活版文字が手書きで書かれていた。幾つかの文字と数字の組み合わせが書かれていたが、果たして何の意味があるのか、ローザには未だに分からなかった。


 いつの間にかローザのポケットに入っていた紙で、気味が悪くなってリァンに見せたのだ。


 リァンは直ぐに何か思い当たったようで、調べるから待ってて、と言ったきりあの騒動となったのだった。


「僕にも君を守る事ができるんだと、そう思って嬉しかったよ。策を考えるのは楽しかったしね」


 柔らかく笑う彼に、ローザは微笑みを返す。


 自分は今、うまく笑えているだろうか? と思いながら、戦場に向かおうという彼の背を押そうとするが、うまく言葉にできない。


「だからね、僕は軍師になるよ。……陛下はすごくいい人だった。身分の無い僕を、実力で評価してくれた。守りたい物はこうして増えていくんだろうね」


 ローザを守りたい。ローザの仕える王を守りたい。王の居るこの街を守りたい。この街を擁するこの国を守りたい。


「……分かった。もう止めないわ。だけど、約束して。何があっても生きてここに帰ってくる、って」


「うん、わかった。僕の頭を総動員して、絶対にここに帰ってくるね」


 二人はそっと、星明りの下で小指を絡めた。子供がよくやる、約束の合図だ。


「ねぇ、ところであの暗号は何だったの?」


「あぁ、あれは図書室の本の位置とページだよ」


「図書室?」


「そう。誰がやったんだろうねぇ、最上級の暗号だよ。一見じゃあ司書部でも解るのは何人いるか分からない。見立てと、後はあの書式! 活版文字そのものだけど、ちゃんとインクとペンで書かれているんだ」


「そういえば、王妃様が図書室にご執心なのよ。社交の合間を縫ってはせっせと通っているの。何を読んでいるのかまでは知らないんだけど……あぁでも、お部屋にお持ちしたのは、紀行本が多かったわ」


「へぇ、王妃様は紀行本が好きなんだ? 旅行でもされたいだろうけど……」


「今はまだ駄目よ。西が危ないんですもの。それに……」


 それに、未だにシサリスの戦いの傷が癒えていない領民も多い。


 今ナタリアが外に出れば、何が起こってもおかしくない。せめてシャイアが一緒ならば心象も安心感も違うだろうが、ナタリアをソロニア帝国に見立てて何をしでかしてもおかしくはないだろう。


「私、王妃様を人形姫なんて呼ぶ人は嫌いよ」


「君は王妃様びいきだなぁ……、そんなに楽しいかい?」


「もちろんよ! 何をお召しになられても美しいし、表情は分からなくても声はとても暖かくてお喋り上手なの。話せば良い所が沢山あるのに、どうしてあんなに……」


「何か事情があるんだろうね。ローザが知ってくれていれば、王妃様も嬉しいんじゃないかな」


「そうね、私は何があっても王妃様の味方だわ」


「じゃあ、僕は陛下の味方だね」


 胸の前で手を組み気合いを入れ直すと、ローザは力強く言い切った。リァンは相変わらず猫背だったが、ローザの目を見て笑う。


 星明りの下で、それぞれが仕える主を守ろうと二人は誓った。




 そして同じ頃、西のある領主の館の一室で、秘密の会談が行われていた。


 一見すれば、執務室で主が一人、机に向かっているだけである。机の上の燭台にだけ火が灯って薄暗い中、夜風を入れるために窓を開いている。領主としては夜遅くまで勤勉な事だが、何やら独り言を言っているようだった。


「私の娘まで下賜さげてやったというのに、お前らときたら……」


 心底恨めしそうな声である。この領主は、自分の娘を誰かに下げ渡したらしい。


 そして、独り言と思われたその言葉には、意外にも返事があった。


「馬鹿言え。俺達は一度もそれを有難い等と思った事もなければ、お前の情報に感謝した事もない」


「何を馬鹿な……、あれだけ派手に暴れておいて」


 西の領地に配備される警吏や兵の位置、交代の時間、いつどこを守っていて、どこが手薄なのか。その情報を山賊に流していたのはこの領主である。何故それが可能だったのか。それは彼がその計画を親切にも練ってやり、助言を与えていたからだ。


 自分の娘だけではなく、自分や近隣の領地すら売り渡したのだ。


「違うな。あれは脱走者が勝手に暴れて勝手に捕まったに過ぎない。俺達の事を話さないから生かしているだけで……まぁ一部は死ぬようだが……生き残りが話すのならば殺すさ」


 淡々と、殺す、と言ってのける声には温度が無い。だからこそ底冷えするような恐ろしさがあった。


「では私の娘は……?」


 主は慎重に口を開いた。下賜げたとはいえ、それは欲しい物を得るために仕方なくやった事。手に入らない上に相手の手の中に置いておくのも、雑魚が勝手に群がるのも、甚だ許しがたい。


「誰が脱走者等にくれてやるものかよ。俺達の事を喋れば殺す、それまでは生娘のまま大事に扱ってやる」


 つまりは、ただの人質を自分から渡してしまったという事だ。


「……何をすれば貴様らを取り込めるというのだ」


 思わず主は唸ったが、それを窓の外の声は鼻で笑った。


「先刻から馬鹿な言葉の叩き売りだな。俺達を取り込もうというのがそもそもの間違いだ。お前は俺達の欲しい物など何一つ持っていないと自覚しろ。お前は俺達が欲しいだろうが、応じる積りは無い」


「ではなぜ娘を持っていった?!」


 今更である。


「言わなければ分からないのか? ますます馬鹿の極みだな。俺達の存在を嗅ぎ付けたからに決まっているだろうが。俺達の事を話せば娘諸共お前を殺す。話さないならば裏切りの贖罪に王がお前を殺すだろうよ」


「……?! む、むざむざ死ねと言うのか……?!」


 欲しい物は手に入らない。そのうえ、どの途お前は死ぬ、と言われて執務室の主は気色ばんだ。


「知らないようだから教えてやろうか。裏切りというのはな、命がけでやるもんなんだよ。あの山賊共が今もそうしているようにな」


「……!」


「西の密偵が増えたぞ。この会話も聞かれていると心せよ。……安心しろよ、聞かれていなくとも俺達がちゃんと告げ口しておいてやろう。娘はお前が死んだら俺達の仲間として鍛えてやるさ」


 親が裏切りの罪を背負って死んだのならば、娘が生かされている理由はない。死ぬ定めの中に放つ位ならば、手元で生かしておいてやるという。


「馬鹿を言うな! そんな事をしたら由緒正しい私の家系が……!」


「何方が馬鹿だ。由緒正しい癖に王を裏切る等死んで当たり前だ馬鹿野郎。……もういい、お前と話していると馬鹿が移りそうだ。達者でな」


 そうして窓の外の気配が消える。


「待て! おい、待て!」


 執務室の主は焦って呼び止めるが、きっと二度と声の主が現れる事は無いだろう。しかし、気配は消えたのに、どこからともなく声がした。


「そうそう。いつでも俺達はお前を見ているぞ。名前を口にしてみろ、必ず惨たらしく殺してやる。アッガーに懸けてな」


 そう言い残して、今度こそ執務室の主が何を吠えても、一言も返ってくることは無かった。

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